近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

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 わたしたち一家が漁船で樺太西海岸から決死の樺太脱出をはかり、途中で不慮の事故からエンジンが故 障し、最寄の漁村からソ連軍トラックで元の村に送還されたときやその後校長官舎と校舎を接収すると ソ連軍将校が乗り込んできたときを回顧すると、もし父やわたしたち母子がロシア語を話せたならど  れほど有利な交渉ができて危険な場面を回避できたかわからないと無意識に考えるようになっていた。
 
 ソ連軍将校を怒鳴りつけ、それを「正しく通訳しろ」と朝鮮人通訳に命じた父も、内心最悪の場合は  (一家全員の射殺)を覚悟していたにちがいない。
 
 そんな思いから始めたロシア語の猛勉だったと思うが、母やわたしにとっても思いは同じだった。
 
 ソ連機2機の機銃掃射を受けて九死に一生の体験をしたわたしは、その後トラブルに遭遇するごとに
 決まって歯が機関銃のように激しく連続音をたて、心臓が高鳴り、全身が小刻みに震え、生命の終わり を予感するようになっていた。

 全員がこのような精神状態にあり、ソ連軍の危険性が蔓延している現状だったから、気丈を装ってはい ても、凶悪なソ連兵のきまぐれでどのように運命がかわるかわからなかった。
 現にソ連兵に反抗してその場で射殺された日本人も樺太各地には数多くいたのである。
 
 母やわたしは、父の激しい気性は日頃から充分承知しており、事と次第では家族を犠牲にしてでも
 自分も死を覚悟してまで主張を押し通そうとする激情の持ち主であることを知っていたので、ソ連軍に 反抗して全員射殺される悲劇はある程度、予想はしていた。
 だからわたしは父に親子の情愛の念はまったく感じず、その度胸は日頃、畏敬はしていたが、その無鉄 砲さは深く憎んでいたといえる。

 こんないきさつから父は勿論だが母やわたしのロシア語修得熱も尋常ではなかった。
 そしてわたしたちのロシア語は目に見えて上達し、一月もしないうちに日常会話がわかるようになっ  た。

 日が経つにつれお互いの警戒心がとれ、なごやかな雰囲気の中でロシア語の日常会話が進行した。
 
 彼らソ連兵は素朴な農村青年そのもので、母のことはママと呼び、わたしには兄のようなふるまいで
 話をしたが、タブーが2つあった。
 それは上官から口止めされているのかあるいは自分たちの判断なのかわからないが、父が日ソ国境周辺 での日ソ両軍の戦況を問うたとき、彼等は顔を一瞬見合わせると、ワーシャ軍曹が顔をしかめて「両軍 とも戦死者が大勢でた激戦で、もう思い出したくもないし語りたくもない」と口をつぐんだ。
 それをみたわたしは、(この2人も日本兵を随分殺したのだろうな)とふと思った。

 2人のソ連兵は独ソ戦でのドイツ兵に大きな憎悪の念を持っており、話す表情には怒りさえ現れてい  たが、後日わかったことだが、このドイツ兵に対する異常とさえ思われる憎しみはソ連兵の共通の感  情だった。

 3日に一回、隣町の本隊から食糧など必要な物資が運ばれてきて、2,3人のソ連兵が食事をしたり
 一緒にトランプなどのゲームをしてから帰っていったが、一度彼等を仲間と一緒に母が食事を
 用意して招待した事がある。
 そんなときコーリャ伍長はおっちょこちょいで、よくトランプに負け、罰で低いテーブルの下を
 潜らされたりしていた。
 こんな皆の姿はどうみても素朴な農村の青年そのもので、あの凶悪なソ連兵とは思えないのだった。
 
 コーリャ伍長は毎日の巡回でよくわたしを誘ったり、山での鳥撃ちにも誘った。
 その理由のひとつは、日本人校長の息子を同行していれば危険が少ないからだ。(続く)

 ある朝、校長宅に隣接したソ連兵宿舎前にソ連兵が2人そろって立っているのを確認した父は
 笑顔で近づいて行った。
 母とわたしは玄関前でそれを見ていたのだが、2人のソ連兵は父を日本人学校の校長だと知っているの で、挙手の礼で挨拶した。
 以前、ほかの欄でも記述したが、当時のソ連は国をあげて5ヵ年計画を推進中で、そのせいか教師の社 会的地位は軍人なら佐官クラスの高級将校並みで、敬意を示されることが多かった。
 遠くて声は聞こえなかったが、父はゼスチャーを交えて用件を伝えているようで、しばらくして
 父は2人と握手して戻ってきた。
 そして私たちを見ると、「ロシア語の先生交渉、成功したよ」と笑ってみせた。
 実際、母と私も体験したように、身振り手振りの意思伝達の手段はお互い驚くほどに大きな効果が
 あることを知った。

 このときから私たち一家とソ連兵との交流がはじまった。
 最初に来宅したソ連兵はワーシヤという軍曹で、後からバケツを借りにきたのがコーリャ伍長だった。
 
 まだ戦争が終ったばかりでわたしたち日本人の将来がどうなるのかまったくわからないままに
 父のロシア語の猛勉はこのようにしてスタートした。

 父のロシア語授業は、彼らの立ち番のとき、休憩時間のとき、食事のときなどあらゆるチャンスを利用 して、屋外、あるいは校長宅を使って行なわれたが、母も次第に彼らを軽食などでもてなすようになり
 親密の度合いは深まり、父や私たちのロシア語も急速に上達していった。

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