近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

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 1945年(昭和20年)9月下旬頃、ソ連沿岸警備隊によって樺太全土から集積された大量のじゃがいもは 色々な噂のなかでいずこかへ運び去られた。
 やがて初雪が降り、それはいつものようにすぐに根雪になり、長い冬の到来となる。
 
 ソ連軍によって村からじゃがいもがひんぱんに運び出されている頃、村人たちは越冬用の食糧確保で大 童だった。大根、白菜、かぶなどの塩漬け作りや今の時期のみ河を遡上する鮭の収獲である。
 鮭は夏期にとれる鱒にくらべて利用価値が大きく、流通のきく手ごろな財産だった。
 日本時代も監視人はいたが、鮭、鱒は隠語で「マルタ」と呼ばれ、村人の密かな内職だった。
 
 いま日本は戦いに破れ、樺太はソ連に占領され、日本本土は米軍の占領下にあるという。
 一寸先はまさに闇だった。
 8月15日(終戦日)を過ぎてもソ連軍が攻撃を止めないのは、米国その他連合国がソ連と「日本人撲  滅」の密約を結び、根絶やしにしようとしているのではないかという噂も一時流れたが、楽観はできな かった。

 自分たちの食糧は自分で確保しなければ誰も助けてはくれない。
 日本は負け、体制が崩壊し、漁獲の監視人はもういなかった。

 さいわい鮭の遡上は夕暮れからが多く、何の気がねもなしに大網を持ち込み集中できたので大漁で、み なに豊富に分配できたという。

 春先のにしん漁は毎年大漁なので、アルバイト料のモッコ2,3杯分のにしんは、越冬用の身欠きにし んや松前漬けに加工してあり、米穀類や補助食(じゃがいも、小麦粉)などもそろっていたので、心配 なのは我々日本人の将来、運命だけだった。
 
 そして1946年10月中旬頃、ソ連民政局は「日本人帰国の通達」を発表し、12月5日から13日にかけて
 第1次引揚げ者5702人が4隻の引揚げ船で北海道・函館港に帰国したのだった。
 この発表で我々日本人もいずれ日本に帰国できる希望が沸いたが、それがいつになるのかはいぜんとし てわからないままだった。

 冬の村にも入れ替わり立ち代り多くのソ連人が姿を現わしたが、いつのまにか父はロシア人との通訳か 折衝係として役場に呼ばれるようになり、翌年村役場がソ連民政署に吸収されてからは、日本人通訳兼 顧問として席を置くことになる。

 恵須取(えすとる)町は、日本時代も支庁の所在地で、周辺には炭鉱や製紙などの産業もある西海岸の 重要な港町で、人口は4万人を超える北西部の要所だったが、ソ連統治下でもソ連支庁の所在地とな  り、民政署の上級官庁の民政局の所在地でもあった。
 
 民政署は市町村役場の機能をもつ官庁だったが、同時に警察権ももつ権力機構でもあった。

 日本時代は防衛上の要地でもあったので、港湾防衛の特設警備中隊や学徒義勇戦闘隊などがいて、
 8月11日から16日にかけてソ連軍の空爆があり、その後、上陸部隊が上陸を企図したが、日本軍の反撃 で撤退し、その間に全町民は避難し、日本軍は移動した。

 この6日間の空爆で恵須取町は炎上し、日夜空爆や砲声がわたしたちの村にも聞こえていた。
 そして日没後は山の稜線を真っ赤な炎が染めていた。
 その頃、わたしたちは「恵須取が燃えているよ」とそれを見ながら、船での脱走の準備を始めていた。
 恵須取町には当時、樺太最大といわれた400人を収容できる大防空壕が完成しており、多くの町民が
 利用したはずだ。

 *写真は支庁所在地「恵須取町(ウグレゴルスク)」
 

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