近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

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  樺太名物に山火事があり、また夏期の濃霧があり、冬期の角巻きがあった。
 1)5年間暮らした炭鉱町「塔路」から越後大野藩の会所遺跡がある「鵜城」町に移転のためハイヤー  で通った山道が、やっと山火事がおさまったばかりの通り道で、道路のあちこちの雪の中で、枝木が
  煙をあげてくすぶっていた。
  山火事の原因は、雷、自然発火、汽車の煤煙など色々あったようだが、盗材の証拠隠滅のための放火  も少なくなかったようだ。
  いずれにしても山火事による損害は莫大で、年間百万石もの材木が灰になった。そのため樺太の山々  には必ず火防線が作られていた。
  防火用の10メートル幅員の無林地帯のことだ。

2)夏期(7月下旬から8月中旬ごろまで)の濃霧は、早朝から昼頃までのことが多いが、それは
  まるで濃い牛乳のようだ。
  脱走船(焼玉機関ー発動機船)で西海岸を南下中、この濃霧のおかげでソ連戦闘機から一時的には
  身を隠すことはできたが、昼頃には急速に霧散してしまうので、発見されてしまった。

3)角巻きは冬の婦人に欠かせない防寒具のひとつだった。
  角巻き姿で歩く婦人の後ろにしたがう樺太犬の写真などはまさに樺太風景そのものだ。

*火防線と角巻き姿の婦人の写真は、望郷樺太/写真集(国書刊行会)より引用。

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 1945年(昭和20年)9月下旬頃、ソ連沿岸警備隊によって樺太全土から集積された大量のじゃがいもは 色々な噂のなかでいずこかへ運び去られた。
 やがて初雪が降り、それはいつものようにすぐに根雪になり、長い冬の到来となる。
 
 ソ連軍によって村からじゃがいもがひんぱんに運び出されている頃、村人たちは越冬用の食糧確保で大 童だった。大根、白菜、かぶなどの塩漬け作りや今の時期のみ河を遡上する鮭の収獲である。
 鮭は夏期にとれる鱒にくらべて利用価値が大きく、流通のきく手ごろな財産だった。
 日本時代も監視人はいたが、鮭、鱒は隠語で「マルタ」と呼ばれ、村人の密かな内職だった。
 
 いま日本は戦いに破れ、樺太はソ連に占領され、日本本土は米軍の占領下にあるという。
 一寸先はまさに闇だった。
 8月15日(終戦日)を過ぎてもソ連軍が攻撃を止めないのは、米国その他連合国がソ連と「日本人撲  滅」の密約を結び、根絶やしにしようとしているのではないかという噂も一時流れたが、楽観はできな かった。

 自分たちの食糧は自分で確保しなければ誰も助けてはくれない。
 日本は負け、体制が崩壊し、漁獲の監視人はもういなかった。

 さいわい鮭の遡上は夕暮れからが多く、何の気がねもなしに大網を持ち込み集中できたので大漁で、み なに豊富に分配できたという。

 春先のにしん漁は毎年大漁なので、アルバイト料のモッコ2,3杯分のにしんは、越冬用の身欠きにし んや松前漬けに加工してあり、米穀類や補助食(じゃがいも、小麦粉)などもそろっていたので、心配 なのは我々日本人の将来、運命だけだった。
 
 そして1946年10月中旬頃、ソ連民政局は「日本人帰国の通達」を発表し、12月5日から13日にかけて
 第1次引揚げ者5702人が4隻の引揚げ船で北海道・函館港に帰国したのだった。
 この発表で我々日本人もいずれ日本に帰国できる希望が沸いたが、それがいつになるのかはいぜんとし てわからないままだった。

 冬の村にも入れ替わり立ち代り多くのソ連人が姿を現わしたが、いつのまにか父はロシア人との通訳か 折衝係として役場に呼ばれるようになり、翌年村役場がソ連民政署に吸収されてからは、日本人通訳兼 顧問として席を置くことになる。

 恵須取(えすとる)町は、日本時代も支庁の所在地で、周辺には炭鉱や製紙などの産業もある西海岸の 重要な港町で、人口は4万人を超える北西部の要所だったが、ソ連統治下でもソ連支庁の所在地とな  り、民政署の上級官庁の民政局の所在地でもあった。
 
 民政署は市町村役場の機能をもつ官庁だったが、同時に警察権ももつ権力機構でもあった。

 日本時代は防衛上の要地でもあったので、港湾防衛の特設警備中隊や学徒義勇戦闘隊などがいて、
 8月11日から16日にかけてソ連軍の空爆があり、その後、上陸部隊が上陸を企図したが、日本軍の反撃 で撤退し、その間に全町民は避難し、日本軍は移動した。

 この6日間の空爆で恵須取町は炎上し、日夜空爆や砲声がわたしたちの村にも聞こえていた。
 そして日没後は山の稜線を真っ赤な炎が染めていた。
 その頃、わたしたちは「恵須取が燃えているよ」とそれを見ながら、船での脱走の準備を始めていた。
 恵須取町には当時、樺太最大といわれた400人を収容できる大防空壕が完成しており、多くの町民が
 利用したはずだ。

 *写真は支庁所在地「恵須取町(ウグレゴルスク)」
 

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 1945年(昭和20年)9月下旬頃、樺太各地に駐屯していたソ連軍(赤軍・戦闘部隊で軍帽や肩章に 赤や赤筋が入っていた)は本国へ帰国し、替わって沿岸警備隊(軍帽や肩章が薄緑)が現れた。

 彼らの主な任務は、ジャガイモ(カルトーシカ)の輸送だった。
 わたしたちの村でも、畑の要所要所にジャガイモを集積しておくよう通達があり、ある日、幾台ものソ 連軍用トラックが入村し、手際よく荷台にジャガイモを積み込み、やがて去っていった。
 説明によると日本軍捕虜用の食糧だというが、実際には窮乏したソ連国民のためにソ連本土へ送られた という説もあった。
 そして彼ら沿岸警備隊は日本から占領した「ソビエット連邦サハリン州」に新たな民政を築こうとして いた。この沿岸警備隊はKGB(国家保安警察)の役割ももっていた。

 旧日本の町役場や村役場そして学校などにソ連軍将校や背広姿のソ連人民政官がひんぱんに姿を現わす ようになる。日本語を話せるソ連人が次第に増えていく。
 
*国際法(ジュネーブ条約)で「捕虜」とは、交戦国同士が正式に認めた戦闘中に相手国に捕らえられ  た将兵をいい、人道上その階級により保護されるものだが、ソ連軍は日本が終戦(8月15日)を宣言し た後も一方的に攻撃をやめず、停戦協定のあとに捕らえた日本軍将兵(中国大陸の日本軍も同様)を捕 虜扱いし、シベリアなどの極寒地刑務所で過酷な待遇で重労働を強いた。
 そのため7万人の日本軍将兵が病死その他で死亡した。

 
 

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 樺太の冬の生活で欠かせなかったのはこの3つの橇だった。
 
 地域で若干差はあるが、トナカイ橇以外はどこの地域でも重宝がられ、頻繁に使用されていた。
 わたしが暮らしていた村では、馬橇は牧場から牛乳を町に卸す交通機関として使われ、帰途は新聞その 他、村が必要とする物資の運搬に使われていて、馬に装着された多数の鈴の音は、軽快で心地よいまろ やかな響きで早朝、耳に入ってきて、時計がわりにもなっていた。

 村から町への定期便としても使用されていた。
 このほかに馬は、畑作業や材木の切り出し、運搬などでも使用された。

 犬橇は、いさば屋の魚行商(代表的な魚:カンカイ、タラ、オヒョウ、帆立貝)や八百屋でも使われて いたが、狩や交通の足として、あるいはマルタ曳きとしても広く使用されていた。

 犬は、従順な大柄で力持ちの樺太犬だったが、千島列島の作業に使用するために、多数の樺太犬が
 千島に徴収され、樺太は一時樺太犬不足になった。

 トナカイは日ソ国境周辺の限られた場所に集中して生息していて、どこででも利用できる状態ではなか った。わたしが暮らした2つの地域にもトナカイはおらず、トナカイ橇は見たことはない。
 一方、国境近くの敷香(しすか)町周辺はトナカイの生息地に近く、トナカイ王と呼ばれるヤクート族 の指導で、日本軍は重機関銃を牽引するトナカイ部隊を編成し、活躍した。

 重量のある戦車、トラック等の走行ができない国境周辺のツンドラ地帯で実現した樺太師団のトナカ  イ部隊だった。なお日ソ両軍の停戦協定成立後は、トナカイ部隊は解散され、トナカイは元に戻され  た。(終わり)
 

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 冷たい秋風が吹く9月下旬、隣町に駐屯していた本隊がソ連に帰国することになり、2人のソ連兵も
 村を離れ、本隊に戻ることになる。
 父はその前夜、村長幹部たちを自宅に呼び、2人のために送別パーテイを開いた。
 村人はこの2人のソ連兵に深く感謝していて、村長などは涙を流さんばかりに別れの挨拶をし、父が
 通訳をしてソ連兵は村長の感謝の言葉に嬉しそうだった。
 
 彼ら2人がいなかったなら、ソ連兵たちの悪行で、この村はどうなっていたかわからない。
 彼らは憲兵としての役割を完璧なまでに果たし、村の日本人の生命、財産、安全を守り通してくれた。
 
 2人のソ連兵は村人の感謝の握手攻めにあいながら、飲みなれない日本酒に酔っていたようだ。
 やがて夜中まで続いたお別れパーテイもようやく終わり、人々は帰路に着いた。

 ワーシャ曹長は、コーリャ伍長に小声でなにかささやくと、コーリャはすぐに宿舎にもどっていった。
 そして父母やわたしに「少し話したいが」と了解を求め、父は別室にワーシャ曹長を案内した。

 ワーシャ曹長はあらたまったように静かに話しだした。
 話の内容を要約すると、こうだった。

 「じつはわたしはポーランド人のソ連兵だ。そのことはコーリャ伍長はじめ誰も知らない。
  明日お別れなので尊敬する日本人校長ご家族に本心を話すことを決心した。
  あなたがた日本人はいずれ日本に帰国することになるはずだ。日本に帰ったなら、そのときは
  わたしのようなソ連兵がいたことをぜひ伝えてほしい。
  ソ連は日本領樺太を占領したが、むかしから領土をこのような方法で拡張してきた。
  わたしの国・ポーランドも1939年にドイツとソ連に分割された。色々な生き方はあるが、
  ポーランド人はみな、ソ連人を憎んでいる。このことを忘れないでほしい。
  敗戦国日本も大変だが、復興に頑張ってほしい。健康に気を付けて」

 翌朝、校庭にはたくさんの村人がソ連兵を見送るために集まっていた。
 やがて軍用トラックが姿をあらわし、ソ連兵の仲間が宿舎に入っていった。
 
 しばらくしてワーシャ曹長とコーリャ伍長が自動小銃を肩に姿を現わし、日本人の群集から拍手が起こ る。見送る父母わたしと握手をした2人は、笑顔でみなにも手をふる。
 農家の婦人には涙を流している人もいて、思わずわたしも目が曇り、必死にこらえた。

 荷台に載った2人は大きく手を振り、「ダスビダーニア(さようなら)」と繰り返し、クルマは
 動き出し、次第にスピードをあげていく。

 「ダスビダーニア、ワーシャ、コーリャ」
 わたしは心の中で何度も何度も叫びながら、消えていくクルマに手を振りつづけていた。

 9月下旬から10月は初雪の季節で、農作物の収獲はその前に行なわれるので、農家は忙しい。
 樺太各地に駐屯していたソ連軍部隊も前後して本国に帰国し、駐屯ソ連軍(赤軍・戦闘部隊)は
 沿岸警備隊と任務を交代する事になる。(終わり)
 *写真2枚は日ソ国境の境界標識等

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