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塔路町は私たち一家が5年間暮らした町で、樺太観光絵ハガキにもなったマンモス小学校があった
港のある炭鉱町で、わたしが入学したときにはすでに国民学校と改称され、教官室の壁には青年学校生 徒の軍事訓練用らしいサーベルの束が林立していて、異様な緊迫感がみなぎっていたのを覚えている。
北緯50度線の日ソ国境線をソ連軍が侵攻し、常駐する日本警察隊、日本軍小規模部隊と戦闘が始まった のは8月10日だが、戦史を読むとソ連空軍は北西部海岸の恵須取、塔路、鵜城地区を戦闘機、爆撃機を
使い、銃爆撃を行なっている。
12日は恵須取町が爆撃による火災を起こし、住民は山間の上恵須取に避難し、日本軍中隊、義勇隊、特 設警備隊のみが残留して港を警備している。
13日は港沖合いのソ連海軍が砲撃を行い、魚雷艇2隻とカッター1隻が恵須取港に近接し念入りに偵察 し、日本軍部隊の存在を発見したが、砲台や沿岸砲がないことも確認している。
日本軍の戦史では、ソ連軍の上陸用舟艇を重機で猛射し、撃退した報告が記録されている。
10日から始まったソ連空軍、海軍の恵須取港爆撃の様子や市街炎上の有様は、鵜城山村の私たちには
まるで昨日の出来事のように覚えている。
飛行機の爆音や銃器の発射音は空気の流れからはっきりと耳にすることが出来たし、炎上する炎は、
稜線から赤々と燃え上がっていた。
「恵須取がソ連軍の飛行機や艦砲射撃で攻撃を受けているようだね。それとも国境のソ連軍がもう
南下してきたのかな」村は連日の爆音や砲声で不安が広がっていた。
そして北から沿岸国道を避難してくる人たちをつかまえては情報の収集に努めた。
ソ連軍はまだ現れてはいないが、ソ連戦闘機が連日避難民を狙って機銃掃射を繰り返し、多くの被害が
出ていることと、爆撃機は日本軍の居そうな建物は破壊しているが、道路は絶対に破壊してはいない。
それは国境方面からソ連軍が南下するためではないかなどの情報がとれていた。
恵須取方面最高指揮官・吉野少佐は、第5方面軍から派遣された参謀で、恵須取町民を無事避難させた 後、8月24日、2個中隊400名を引率して、ソ連軍に投降した。
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