8月13日以降、ソ連軍砲艦1隻が鵜城漁村に砲撃を加え、その命中度は正確だったが、ほとんどが
不発弾だったことは前述したが、その後、ソ連統治になってから、漁村の級友に会った時、このときの 話が出た。
砲艦が沖合いに姿をみせたとき、漁民たちは砲撃を予測していち早く近くの岡に避難したという。
だから砲撃が開始されたときには漁村は無人で、多くの家に砲弾が命中しても、死傷者は皆無だった。
砲艦が去ってからも漁民たちは家に戻らず、海辺で色々と細かな相談をしたという。
そして、この砲弾は不発弾ではなく、強固な鉄鉱やコンクリートの防壁を破壊するための特殊砲弾で、 日本軍の陣地が砂浜の地下に設営されていないかをこの砲弾で試したのではないか、あるいは時限爆弾 の一種で、数時間してから爆発するのではないかなどの意見もでて、一定の時間が経ってから自宅に戻 ったという。
日ソ国境から樺太南端の大泊港まで通じる国道に近接する漁港だけに、いつこの国道にソ連軍が現れる かは誰も分らなかった。
北の恵須取町は支庁所在地で、重要な港もあり、また東海岸に通じる唯一の山道がある重要な地点だけ に、日本軍が配備されているとは聞いていても、詳細は一切不明だった。
対象はあくまで米軍だったが、わたしたち国民は防火訓練は勿論の事、竹やり訓練も1度や2度は受けて いた。だから軍人ではなくとも敵愾心は旺盛で、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して侵攻してきたソ連 軍に対しては誰もが強い憎しみの感情を抱いていた。
わたしたち小国民も、希望者のほとんどが学校で、青年学校生徒の使う村田銃、手榴弾、軽機の操作を 習っていたので、もし銃弾や爆薬があれば、戦闘に参加することは出来たのだ。
恵須取町には日本軍のほか、中学生や青年学校生徒で編成された義勇軍が町の防衛に当たっていた。
そして級友はソ連戦闘機が幾度も上空に飛来したが、日本軍の狙撃を警戒してか低空では近接しなかっ たという。彼は云った。「おれたちの報国号はどこへ行ったのかな」そうなのだ。
わたしたち小国民がボタンや金属片を寄付して作られた「報国号」はどこへいったのだろう。
ソ連機が開戦時から我が物顔で飛び回っていたのだ。
戦史をひもどくと、樺太戦では、ソ連機100余機対日本軍機0だったのだ。
樺太師団参謀長・鈴木大佐が自著で述べておられる。
「もし日本軍に1機の飛行機でもあれば、多くの犠牲者はださなかったし、国境陣地に1個師団の兵力 と装備があれば、絶対にソ連軍を侵攻阻止できた」と。
*写真は樺太師団幹部(昭和20年8月7日撮影)と国境線の戦いで1大隊が玉砕した125連隊。
(引用:「樺太防衛の思い出」鈴木康生著より)
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