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学校が開設された頃のソ連児童の数は日本人児童にくらべ三分の一くらいだったので全体におとなし く、日本児童が希望すれば喜んで自分たちの教室に案内し、文房具なども見せてくれて友好的な雰囲気 もあった。
わたしの印象にあるのは、ソ連児童の使用するノート(テトラージ)が日本のノートの半分以下の薄さ
で、その薄いノートにとてもていねいに、きれいなロシア文字で習った事柄が大切に記入されていたこ とだ。
それと驚いたのは彼らの鉛筆(カランダーシュ)は、なめると青いインクに変化してノートに印字され ることだった。ソ連児童の唇のまわりや歯に時折青いものがついている謎がこれで解けたのだ。
そして彼らの鉛筆の削りかたは、左手の鉛筆の先を内側に向けて右手のナイフも内側に向けて、手前に
引きながら削るのだ。のこぎりも同じで、2人用ののこぎりがほとんどだが、刃は外側に向いていて
日本ののこぎりのように刃は引くのではなく、押して切るように設計されている。
これでわかるようにソ連人は引くより押すほうが得意なのだ。
ソ連児童と親善格闘技大会を両国先生立会いのもとに行なった事があったが、わたしが直接体験して
知ったことは、ソ連児童はボクシングのように押す力はすごく強力だが、引く力や腰、足の力がとても
弱いことだった。
柔道、相撲などで使われる基礎的な足技、腰技でさえまったく知らず、パンチさえかわして相手に飛び 込み、腰を強くしぼるとあっけないほどに悲鳴をあげ、足技では大外がりや内股が面白いほどにかか り、長身のソ連児童を投げ飛ばす快感を味わった。
そのかわり相手のパンチをまともに顔面に食らうと2,3メートルは張り飛ばされた。
でも不思議なもので、短時間でそれをかわす技を会得し、いつも日本児童が優位に立つことが多かっ た。
いま振り返ると日本児童の多くはみなソ連機の攻撃を受け、幾度も死地を体験し、精神面でも強くなっ ていた。ソ連軍やソ連人に対しての憎しみも決して消えてはいなかった。
こんな親善競技でも日本児童の多くは、内心(このロスケめ、みていやがれ!)という憎しみをもって
のぞんだから勝ったのだと確信している。
ほかの日に行なわれた親善の交流では、わたしはソ連児童に「日露戦争」の替え歌を教えた。
ソ連児童からのお返しの歌は「カチューシャ」の原語で、いまでも覚えているが、わたしが教えたのが
もしソ連当局の耳に入ったなら「日本人校長の息子がソ連児童にソ連国家を侮辱する内容の歌を教え た」ということで「大問題になるぞ」という日本青年の忠告から慌てて他の歌に取り替えたいきさつも
あった。
当時のスターリン政権では政治関連の事柄は厳しく取り締まられており、たしかに悪げはない にして もわたしの言動は槍玉に挙げられても仕方ないものだった。
下手をするとソ連国家への反逆罪で、わたしたち一家はシベリア送りになっていたかもしれない。
日露戦争」の替え歌の歌詞は次のような内容だった。
「にっぽん勝った、にっぽん勝った、ロシア負けたア、ロシアの軍艦、底ぬけたア」
ソ連児童は大きな声で懸命に歌い、わたしは溜飲を下げていた。
内容は「日露戦争で日本軍、ロシア軍ともよく戦ったことを賛美した歌だ」と説明していた。(続く)
*写真は日ソ国境線にあるソ連側標識
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