月が厚雲に入り、あたりは真っ暗闇になったので私は歩みを止めた。そろそろ民家が点在する場所 で、足元は段差が生じ、柱や置物などの障害物があるらしく、少しでも薄明かりがないと危なくて歩け ない。物音がしないのはみながその場で立ち止まっているからだった。
しばらくして突然、薄明かりが射してきた。月が薄い雲の中を移動していた。一斉にみなが歩きだし た。
民家が集まったあたりで月光が弱くなった時、鋭い誰何の声がして、まわりに殺気を感じ、白刃の閃光 をみた。父が即座に返答したとき、「校長先生、お待ちしていました」と青年の声がした。
30分以上も出航時間が経過していたが、網元は「きっとくるから」と待ち続け、青年数人を途中まで迎 えに出してくれていたのだった。いつソ連軍が陸、海から南下してくるかわからない切迫した状況で、
私たちを信じ、待ち続けていてくれた網元には深く感謝した私たちだった。
史実を振り返ると、この頃、20キロ北の支庁所在地・恵須取港に上陸したソ連軍は、東岸に通じる山道 付近で日本軍と交戦中で、そのため南下が遅れ、私たちの出航が間に合ったのである。
網元の漁船は10トンの発動機船(焼玉機関)で、総勢約30人が乗船したが、焼玉音が大きいので、 断続しながら惰力で進行し、沖合い1キロくらいに出てから全速前進で南下をはじめた。
軽快なエンジン音を響かせながら船が航行に移ったとき、私は次第に遠ざかる山々を眺め、空を見上げ た。いつの間にかもう空には雲はなく、満天にはまるでビロウドに敷き詰めたように宝石のような星群 が輝き、そのあまりの美しさに感嘆の声をあげたのだった。
そしてなぜか精神的に余裕が出て、級友たちのことを思いだしていた。
見渡すかぎり私たちの船だけが順調に南下しており、山中で嘔吐した私はようやく空腹を覚え、母に
おにぎりを所望した。そしてやがて満腹になった私は、疲れから寝入ってしまった。
*史実ではこの頃、ソ連海軍の軍艦、輸送船、舟艇が真岡港に向かって航行中だった。
真岡港は、私たちの漁船が航行している進路に位置する西海岸の港で、8月20日ソ連軍が艦砲射撃を
加え、上陸し、日本軍と激戦が行なわれた場所で、多数の日本人が死傷した。
〇写真は鵜城、幌千の家畜牧場
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