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*写真は鵜城(牛苦)に住むアイヌ族
スピーカーから流れてきた声が、〇〇役場勤務の日本人であることは、その話し方からすぐに納得でき たが、樺太の日本軍が降伏して戦争が終ったということについては疑念が残った。
前述したように、鈴木参謀長がソ連軍と正式に停戦協定を成立させた日は8月22日正午過ぎだが、史実 をたどると、提示した約束の5項目のひとつ「直ちに真岡攻撃をやめる」は、翌日23日以降まで続けら れたし、樺太各地でのソ連兵の略奪、暴行なども収まらず、25日には大泊港に上陸したソ連軍により、 再び日本軍使が射殺されている。
ソ連軍アリーモフ少将の「ソ連軍の軍規は厳正で、約束したことは厳守する」と大見得を切ったことは
すべて破られたのである。日本軍はその後、捕虜扱いでシベリアや北樺太送りになった。
さて私たちが上陸した漁村が、実は久春内のはるか北であったことが後日わかったのだが、そうなると
久春内から南に位置する真岡港までは、まだ100キロの距離があるので、砲声や爆音が聞こえないのは
当然だった。
攻撃を宣告されたぎりぎりの10分後に、父と網元が先頭にたち、両手を上にあげてトラックに向かって 歩き始めた。万一の時、すぐに服用できるようにブシや青酸カリなどの毒薬は、みなポケットに忍ばせ ていた。
私は両手をあげて歩く自分をとても恥ずかしい気持だった。決して軍人のように戦陣訓「生きて虜囚の 辱めを受けず」で教育されたわけではないが、「1億玉砕」「撃ちてし止まん」などの標語から大きな 影響を受けていたことはたしかだ。
人影からトラックを見ると、荷台に3人のソ連兵がこちらに銃を向けて狙っているのがわかった。
行列がトラックに近づいたとき、突然、助手席が開いて大きな肩章をつけたソ連将校が満面に笑みを 浮かべて降り立ち、父たちに右手を差し出した。
この瞬間、緊迫感は消え、少しだが安堵の気持が広がった。
スピーカーの男は説明した。
「このクルマはソ連軍の広報車で、各地の日本人に、戦争の終結を知らせる
目的で飛び回っている。日本人はみな元いた町村に戻り、いずれ日本に帰国することになる。元の町村 にはソ連軍のトラックが送ってくれるので、この場でしばらく待機してほしい」と。
戦史では、停戦協定が22日に成立したといっても、現実にはまだ25日すぎまで混乱は残っていた。
役所の日本人が降伏の説得に駆りだされ、広報車でソ連兵に同行するなどは、鈴木参謀長の進言が
日本民間人の説得にもあらわれたのかもしれない。もしそうだとすれば、23日以降の出来事のように
思える。はじめは上陸し、投降したのが8月20日前後と思ってきたのは訂正しなければならない。
ここで几帳面で正確さを重んじる日本人の性格から、ソ連流のあいまいさ、ルーズさ、いいかげんさを
知るまでには、かなりの時間を要することになる。
「少し待てばソ連軍のトラックが迎えにくる」と言った言葉を信じてその場(国道)に待機していた私 たちの前にトラック2台が姿を現わしたのは、なんと6,7時間経った夕刻だった。
そのため私たちは本気でこんな議論を交わして再び身の危険を感じていたのだ。
「いくら待ってもソ連軍はこない。こんなに遅いというのはどう考えてもおかしい。どこか近くに私た ちを銃殺して埋める穴を掘っているのではないか。今のうちに山中に避難したほうがいいのではない か」
姿を現わしたソ連軍トラック2台には、下手な日本語を話すソ連兵が乗っていて、荷台には銃身に空冷 式の穴の開いた不気味な自動小銃を持ったソ連兵が2人づつ乗っていた。
彼らは友好的でさかんに荷台の日本人に話かけるが、誰も顔をそむけて逃げる姿勢をとり、不機嫌な表 情をしていた。
ソ連兵が差し出した白い固形物は角砂糖だったが、子供さえ受け取ろうとはしなかったので、やがて
あきらめたらしく、無言で風景を眺めはじめた。米兵がチョコレートをもっていたように、ソ連兵はつ ねに角砂糖を携帯していた。
薄暗くなっても、南下するソ連兵満載のトラックにひんぱんにすれちがった。
史実にあるように、まだこの頃は、北海道北半占領の目的のソ連軍を南下させていたのかも知れない。
ソ連軍の有名な野外給食車がソ連兵に食事を与えているのを見たのもはじめてだったし、なによりも
驚いたのは、素晴らしい声量で、プロのようなハーモニーで合唱するソ連兵の集団を帰途の草原で見か けたことだった。昨日まで日本人を容赦なく殺害してきたソ連兵が、このような美声を草原に響かせて
いる事がとても信じられないことだった。ロシア人は音楽の天才だと聞いていたことが素直に納得で きるような見事な歌声だった。(続く)
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