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写真は、旧日ソ国境(北緯50度線)警備の警察隊。(「1945年夏最後の日ソ戦」中山隆志著より)
私たちを元の町村に輸送したソ連軍将校は、校庭でドイツ軍将校まがいの不動の姿勢で挙手の礼を学校 長の父にして去って行ったが、私はこのときはじめて軍人らしいソ連軍将校を目にしたものだ。
トラックのキャビンで日本語が少し話せるこの将校と父がどんな話をしたのかは知らないが、父が日本 人学校の校長であることは認知した模様だった。
当時スターリンは、「5ヵ年計画」を実施、遂行中で、国民の教育は最重点項目に入っており、教職員 の社会的地位はきわめて高く、校長ならソ連軍の高級将校(少佐、中佐)と同格に優遇されていた。
そんな状況から、この上級中尉(中尉のひとつ上にこの階級があり、金筋上の星は3つで、大尉が4 つ)は父に敬意を示したらしい。でもかがとをカチッと鳴らすドイツ式敬礼は、その後4年間の抑留生 活でもソ連軍人からは1度もみたことはなく、推察すると日本軍の同盟国だったドイツ軍式敬礼を即興 的に行なったのではないだろうか。
そしてこの日はいつごろだったのだろう?
前述したとおり、8月22日は樺太師団(第88師団)参謀長鈴木大佐がソ連軍アリーモフ少将と停戦交渉 を成立させた日だが、実態は日本軍の提示、要求した5項目の約束を守らず、真岡攻撃は23日も続けら れ、さらに25日南樺太南端の大泊港に上陸したソ連軍により、通算3度にわたり日本軍使が射殺されて いる。
このことは、樺太のソ連軍のみならず、ソ連自体が数多くの国際法違反を起こしている。
例をあげると、8月8日ソ連が日本に宣戦を通達するために駐ソ日本大使をソ連外務省に出頭させる が、佐藤大使が日本本国に国際電報(国際法の外交特権)した電文が届いておらず、正式に日本が
知ったのは実に8月10日だったのだ。
話を戻すが、当時の諸々の状況から、私たちが元の町村に送還されたのは、8月24日頃だったのではな いかと思う。樺太の戦争は、終戦宣言(1945年8月15日)から10日後頃まで続いていたのである。
あえて繰り返すが、ソ連軍は武力による侵攻(南下)をやめず、軍民の区別なく攻撃を加え、多数の民 間人が犠牲になり、樺太師団は軍司令部の許可をうけ、自衛戦争を継続したのである。
家に入ろうとして驚いたのは、玄関の内外とも泥靴の跡が点在し、畳も座る事が出来ないくらいに荒ら されていた。机、箪笥の引出しは畳に散乱され、色々な物品が失われていた。
でもこのこと事態は非難されるべき事ではなかった。
誰しもが避難するときは戻らぬ意向で出発している。私たちもそうだったし、上陸先の無人漁村でも
そこにあった寝具や食料品などを使わせてもらった。(中断、ご容赦のほどを。次回に続く)
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