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*写真は旧北方領土全図
「ドイツ軍がレニングラード進撃の頃(1942年8月)、日本はドイツから再三、対ソ連宣戦を求められ たが「日ソ不可侵条約」の存在を理由にドイツ参戦には応じなかった。
そんな日本の恩義や米国との和平交渉の仲介依頼までしていた日本を裏切り、敗戦まぎわの日本に対し て一方的に国際条約を破棄して連合国側に参戦するなんて」と樺太の住人が憤怒したことを私は覚えて いる。でもいささか疑問に思うのは、日本がソ連に米国との和平交渉の仲介を依頼していたことが当時
我々住民の耳に入るほどに公然の秘密になっていたかどうかということだ。
私は日本に帰国後、多くの歴史の資料に眼を通しているので、「日本がソ連に米国との仲介依頼をして
いたこと」は、勘違いではなかったかと幾度も思い返してみるのだが、やはり間違いなく住民が口にし ていたことだった。これに類似したことはまだあるのだ。
キスカ島の日本軍守備隊が多数の米軍艦艇に包囲されながら、奇跡的に濃霧の中を発見されることもな く、しかも武器弾薬、戦車まで味方艦艇に載せ、無事脱出し、後日、そのことを知らない米艦隊は同島 に艦砲射撃を加え、上陸してみたら日本軍はもぬけの殻。しかも米軍は同士討ちさえしてしまった由。
そしてこのキスカ島守備隊を乗せた日本艦隊は、立ち寄った樺太で全装備を樺太師団に引き継いだ噂が
流れていた。それだからこそまだ無傷の樺太師団は精鋭で強豪なのだと。
この詳細な噂も私はたしかに耳にしている。ところが実際にはこの戦車ほか装備品は、そのまま千島列 島の占守島(しゅむしゅ)に運ばれている。他のタイトルで記述したが、樺太師団からは大砲や飛行機 までが千島、北海道防衛用として(樺太犬100匹も)接収されており、樺太師団は戦車、飛行機0で、
主な大砲もきわめてわずかのままソ連軍と対戦することになり、全滅する部隊が続出した。
私たち一家が鵜城に移転した1944年(昭和19年)は、日本の暗雲が立ち込める年になる。
「鬼畜米英」「月月火水木金金」の標語や「同期の桜」「ラバウル小唄」が歌われ、7月、8月には
サイパン山崎守備隊2万7千人、グアム守備隊1万8千人が玉砕(全滅)した。
山崎部隊長の勇猛な姿(紙芝居)は、私たち小国民に大きな感動を与えた。そして8月から陸軍少年兵 の志願年齢が14歳以上になる。
レイテ沖海戦(10月24日)で日本は戦艦3、空母4、巡洋艦9を失い大損害を蒙り、マリアナ基地発 進のB29による東京初空襲が行なわれ、日本の敗色は益々濃くなるが、まだこの頃でも樺太に戦火は 及ばず、千島、北海道周辺に出没する米潜水艦が次第に樺太東岸に足を伸ばしつつあった。
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