11日頃から連日ソ連軍の攻撃を受けていた恵須取は、炭鉱、製紙産業の中心地であるほかに、行政上は
支庁所在地でもあり、戦略的にも恵須取から東海岸に通じる唯一の内恵山道が走る要点で、樺太師団で も重要地域として注目されていた場所だったが、軍の対米戦重視の方針から適正な兵力の配置が出来な かったところだった。
ソ連軍の侵攻で急遽編成、配備されたのは、恵須取北西部20キロの太平炭鉱(塔路)に1個中隊と恵 須取港には、特設警備中隊、航空情報監視隊の一部、憲兵分隊、〇恵須取防空監視隊、●女子義勇戦闘 隊などの雑多な戦力だった。
〇は約80名の17歳から23歳までの志願女子からなり、●女子義勇戦闘隊も同じく約80名の志願 者からなり、糧食運搬や傷病者の救護に当たっていた。
8月20日、真岡港に上陸し、銃を乱射しながら迫り来るソ連兵を窓外に見つめながら最後まで日本に
戦況を打電しながら服毒自決した9人の乙女(電話交換手)たちと変らぬ愛国心、同胞愛をもって祖国 のために殉職、挺身した乙女たちの実像を私たち日本人は決して忘れてはならない。
話を前回に戻すが、玄関に出て行った母は、4斗缶に白米がびっしり詰められているのを発見する。
置いていったのは父に面会を求め別室で短時間話した後、逃げるようにして去っていった村の代表
と称する2人だった。
父が私たちに話した青年の話はこうだった。
「退院おめでとうございます。突然ですが私たちは全員東海岸に山越えして避難する計画です。
ソ連軍が近くまで侵攻し、まもなく鵜城にも迫ってきます。
ソ連軍の凶暴な噂は聞いていますが、病人に危害は加えないと思います。校長先生の退院直後の山越え は体力的にも到底無理で、途中不慮の事態が起こっても全員の安全のためには無視せざるを得ません。 悪しからずどうぞご無事でいずれ日本への帰国をお祈りしています」
父は村人と一緒に「山越え」に参加する意思を伝えたのだが、頑強に「無理だ」と拒否されたとい う。そして父はこう云った。
「きっとこのどさくさで完治しない状態で退院してきたのだと疑っているのだよ」と。
この村では10年ほど前に児童が肺病(結核)で十数人死亡した事実があり、その児童の亡霊が冬の月 夜の晩に教室で踊りまわり、それを見た新任の教師は幾人も転勤している。この転勤も事実だが、原因 が亡霊のせいかどうかは不明。
たしかにこのことからも村人の伝染病への恐れは私たちの想像以上だった。
腸チフスも伝染病だし、治らない状態で退院されて村人にうつされては大変と疑われた結果、2人の代 表を立てて別行動を取るようにお別れの挨拶に来たのだった。
子供の私でもこのことは大きなショックだった。退院直後の父を抱え、私たち一家はこれからどうすれ ばよいのかと。
よくしたもので諺どおり「拾う神あり」で、翌日、漁村から網元が突然来訪した。
(ソ連軍が恵須取に迫り、毎日砲声や爆音が聞こえるが、どうやら日本軍も反撃しているようなので、
交戦中らしい。漁村は半数以上がもう船で避難(南下)し、我々もそうしようと考えている。
決死の脱出行になるが、参加しませんか? )誘いだった。
この網元の息子はいま島都の中学生だが、以前、入試準備では父が特訓したことがあり、そのおかげで
合格できたのだと恩義を感じていて、いつも新鮮な魚介類を届けてくれる律儀な漁民だった。
そして確約しなかった父に、出航の日時を告げ、「必ず来てください。お待ちしていますから」と帰っ て行った。(続く)
*写真は恵須取港と鵜城港
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