近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

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 *写真は樺太南端の港「大泊(現コルサコフ)港」

 樺太・大泊港は、私が4歳のとき父母に連れられて北海道から海を越えて渡った樺太南端の港だった。 叔父一家が、住んでいた恵庭(現恵庭市)から北海道北端の港・稚内まで送ってくれて、港の桟橋から 見えなくなるまで手を振ってくれた従姉のことは後年、母から聞いたことで、私には当時のことはまっ たく記憶がない。
 1939年春のことで、父は日ソ国境から75キロ南下した西海岸の炭鉱町・塔路(現ロシア、シャフチョル スク)の高等小学校教諭として赴任するための長旅だった。

 父は外語専門学校を卒業し、実業人を志し世界各地を歩いたのだが、外地が健康に合わず、失明の恐れ
 があるため帰国し、完治してからは師範学校に入りなおし、人生の遅れを取り戻す目的で、樺太の赴任
 を希望したと聞いた。

 母は新潟出身で元裁縫学校の教師だったが、父の樺太行きに同意し、私の人生前半の運命が決まった。
 私にこの長旅の記憶がまったくないので、(大泊港についても同様で)ソ連統治のサハリンに4年間抑 留の後、日本に帰国したのも真岡港出航の引揚げ船だったので、大泊港には立ち寄ってはいない。

 そんなこともあって今ごろになってなぜか懐かしさを覚えるのだ。

 稚泊航路は、北海道・稚内港と樺太・大泊港を結ぶ定期船航路で、その距離は90カイリ。
 航海時間は、夏場8時間、冬場は9時間。
 明治42年3月開港のこの大泊港には1度に3千トン級が2隻と2千トン級の繋留が可能だった。
 代表的な船舶は、宗谷丸(3573トン/南極船ではない)と亜庭丸(3297トン)で、4月から11 月末までは毎日運行、冬期の12月から3月までは隔日運行だった。
 港に船が入港すると即、臨港鉄道列車が接続し、東都豊原(現ユージノ、サハリンスク)には1時間で 到着した。

 ソ連軍が侵攻した1945年8月10日以降23日にかけて、樺太各地から避難民が大泊港に殺到し、22日に大 泊港を出航した引揚げ船3隻は、北海道留萌沖で海底に潜んでいたソ連潜水艦に撃沈、大破され、17 08人が死亡した。

 *参考文献:写真集「望郷樺太」国書刊行会


 

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 ソ連は、日本がポツダム宣言を受諾(8月15日)したあとも樺太での武力による侵攻をやめず、日本人 に多数の犠牲者が続出したので、日本軍は自衛戦争を継続し、その戦いは8月25日すぎまで続いた。

 そして千島列島には、第91師団はじめ第73旅団の日本軍将兵約7万人が守りについていたのだが、
 8月18日午前2時すぎ、カムチャッカ半島から13キロの占守(しゅむしゅ)島に、突然国籍不明の艦隊  が現れ、砲撃を行い上陸を開始した。
 その数は輸送船数隻に護衛艦艇24隻、上陸用舟艇30隻余に及ぶ大艦隊だった。

 千島列島周辺海域は、以前から米軍の潜水艦が活発に活動する海域だったので、誰もが米軍かと思い、 まさか日本と「不可侵条約」を結び、米軍との和平交渉の仲介を依頼しているソ連とは予想もしていな かった。

 前述したように樺太師団(第88師団)の兵力、装備は、千島、北海道地域の重点防衛のため飛行機や戦 車、大砲などもとられ、きわめて劣悪な状態になっていたが、千島列島(占守島、幌筵島)の兵力、装 備を比較(ソ連側の資料)すると、火砲、飛行機、重機で劣るほかはまず同等で、日本側には満州など から持ってきた戦車(42両)があり、上陸したソ連兵に対して使用し、戦果をあげたが、ソ連側も  新式の対戦車銃で日本軍の戦車20数両を破壊している。
 なぜソ連側の資料を参考にしたかといえば、日本軍は戦況その他を調査、報告する余裕もないままに、 部隊の組織が分散されて、即刻、捕虜収容所に送られたからだ。

 その結果、日ソ両軍には多くの死傷者が出たが、日本軍戦傷者約1000人(死亡者700人)に対して、
 ソ連軍死傷者は3000人(死者1000人以上)。但しソ連軍資料では死傷者は日本軍と同じくらいになって いるが、信頼できる日本軍指揮官の一部報告からは、ソ連軍に日本軍の3倍近い犠牲者がでている。
 そして私も日本軍将校の優秀な戦況報告の素質、能力を信じるものである。
 
 ソ連軍は、8月18日から9月3日にかけて日本軍の協力のもと、全千島列島の日本軍の武装解除を行い、 北方四島までも占領し、現在に至る。
 
 なおここで明言しておきたい事は、日本領土で戦争が行なわれたのは、沖縄、樺太、そして千島(占守 島)である。
 残念ながら過去3代の日本総理大臣は、本土戦は唯一沖縄だけだと言っているが、戦争が行なわれて  いた1945年8月以降、サンフランシスコ講和条約までは、上記島嶼は国際法上の日本領土なのだ。
 そしてこの3島にはそこで生活する日本民間人がいた。
 (千島列島)
 長さ:本州に匹敵
 広さ:東京、神奈川、茨城3県とほぼ同じ
 特徴:世界の3大漁場のひとつ

 千島列島は世界の3大漁場のひとつで、戦前は日本の魚介類の缶詰工場(主に日魯漁業経営)があっ  た。樺太も同じく魚介類の宝庫で、歴史的にも日本が千島、樺太をロシアより60年、100年前から
 発見、実効支配、交易していたが、その後のあまりの国力の差から、ロシアの強引で、巧妙な方法で
 最後にはヤルタ密約で奪取され、しかも北方四島までも奪われ、返還される見通しもない現状を、深く 愁うる者である。

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 *写真は旧北方領土全図
 

 「ドイツ軍がレニングラード進撃の頃(1942年8月)、日本はドイツから再三、対ソ連宣戦を求められ たが「日ソ不可侵条約」の存在を理由にドイツ参戦には応じなかった。
 そんな日本の恩義や米国との和平交渉の仲介依頼までしていた日本を裏切り、敗戦まぎわの日本に対し て一方的に国際条約を破棄して連合国側に参戦するなんて」と樺太の住人が憤怒したことを私は覚えて いる。でもいささか疑問に思うのは、日本がソ連に米国との和平交渉の仲介を依頼していたことが当時
 我々住民の耳に入るほどに公然の秘密になっていたかどうかということだ。
 私は日本に帰国後、多くの歴史の資料に眼を通しているので、「日本がソ連に米国との仲介依頼をして
 いたこと」は、勘違いではなかったかと幾度も思い返してみるのだが、やはり間違いなく住民が口にし ていたことだった。これに類似したことはまだあるのだ。
 キスカ島の日本軍守備隊が多数の米軍艦艇に包囲されながら、奇跡的に濃霧の中を発見されることもな く、しかも武器弾薬、戦車まで味方艦艇に載せ、無事脱出し、後日、そのことを知らない米艦隊は同島 に艦砲射撃を加え、上陸してみたら日本軍はもぬけの殻。しかも米軍は同士討ちさえしてしまった由。
 そしてこのキスカ島守備隊を乗せた日本艦隊は、立ち寄った樺太で全装備を樺太師団に引き継いだ噂が
 流れていた。それだからこそまだ無傷の樺太師団は精鋭で強豪なのだと。

 この詳細な噂も私はたしかに耳にしている。ところが実際にはこの戦車ほか装備品は、そのまま千島列 島の占守島(しゅむしゅ)に運ばれている。他のタイトルで記述したが、樺太師団からは大砲や飛行機 までが千島、北海道防衛用として(樺太犬100匹も)接収されており、樺太師団は戦車、飛行機0で、
 主な大砲もきわめてわずかのままソ連軍と対戦することになり、全滅する部隊が続出した。

 私たち一家が鵜城に移転した1944年(昭和19年)は、日本の暗雲が立ち込める年になる。
 「鬼畜米英」「月月火水木金金」の標語や「同期の桜」「ラバウル小唄」が歌われ、7月、8月には
 サイパン山崎守備隊2万7千人、グアム守備隊1万8千人が玉砕(全滅)した。
 山崎部隊長の勇猛な姿(紙芝居)は、私たち小国民に大きな感動を与えた。そして8月から陸軍少年兵 の志願年齢が14歳以上になる。

 レイテ沖海戦(10月24日)で日本は戦艦3、空母4、巡洋艦9を失い大損害を蒙り、マリアナ基地発  進のB29による東京初空襲が行なわれ、日本の敗色は益々濃くなるが、まだこの頃でも樺太に戦火は 及ばず、千島、北海道周辺に出没する米潜水艦が次第に樺太東岸に足を伸ばしつつあった。


 

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 *写真は、樺太庁


 樺太で日ソ両軍が交戦し、民間人は先を争って南に避難をはじめ、制空権をにぎったソ連軍機が我が物 顔で民間人を目標に爆撃、機銃掃射を加え、西海岸の主な港はソ連海軍、空軍の艦砲射撃、空爆を受け るなど大混乱の8月16日から18日にかけて、米国(トルーマン)とソ連(スターリン)の間では次のよ うなやりとりがあった。以下、大要を列記する。

 8月15日  日本はポツダム宣言を受諾し、全世界に明示した。(含玉音放送)
 
      米国は、政府立案の「連合国一般命令第1号(8月15日)をソ連に送付し、同意を求める。
       日本軍降伏を受理する地域を規定したもので、ソ連軍總司令官に降伏する地域として
       1)東北中国(満州)
       2)朝鮮北部(38度線以北)
       3)南樺太にある日本軍
       だったが、
   
   16日 ソ連は米国に対して、日本軍降伏地域として次の2項目を追加要求した。
       1)千島列島全部
       2)北海道以北(釧路と留萌を結ぶ線ー両市を含む)


       これに対して米国(トルーマン)は、「千島列島中央に軍事及び商業目的で飛行基地設定
       の権利を持ちたい」と要求したが、ソ連(スターリン)は拒否。
       米国も項目2)を米国の占領地域だとして拒否したが、

   18日  ソ連軍(ワシレフスキー總司令官)は、突然、日本領・千島列島(占守島)の攻撃を開        始。

        それを知った米国(連合国軍総司令官・マッカサー元帥)はソ連(ワシレフスキー元         帥)に対して攻撃作戦停止命令を発信したが無視され、千島列島のみならず北海道の         附属島嶼・北方四島までも占領されたが、米国はそれを現在も黙認。

   ソ連が北海道北半占領を目指して、8月15日以降も武力攻撃を継続していたことは、私たち樺太在   住者なら周知の事実だが、いまだにその事実を否定するロシア信奉者がいるので、あえて記述す
   る。 参考文献:「樺太防衛の思い出」鈴木康生著

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 *写真は、国境の町・敷香(*日本領樺太北部は歩125連隊が守りについていた)

 1944年(昭和19年)春、この村に移転してきた時のことを思い出す。
 村の人たちは、私たち一家を歓迎するため、毎日のように畑でとれる野菜類や鶏、兎、山羊、豚までも 持ってきてくれ、私の動物飼育係としての日課が急増して悲鳴をあげることになった。
 でもそのおかげで、電気や水道もない大自然に囲まれた自給自足体制の村の生活に、いちはやく溶け込 めるようになっていた。

 5年間住み慣れた炭鉱の町・塔路は、ソ連軍の攻撃にさらされることになり、軍使だった町長はじめ警 防団長ほか4名は射殺され、多くの民間人も集団自決したり、攻撃の犠牲になった。
 私の級友たちもこの惨劇に巻き込まれ、犠牲になった人たちも多いが、私とて、もしこの村に移転して いなければ、同じ運命をたどっていたかもしれなかった。
 
 ソ連軍の侵攻が始まってからは、人の言動や意識に大きな変化が表れた。
 そのひとつが父の病気だった。腸チフスという伝染病で入院していたが、ソ連軍が8月15日の終戦を
 無視して武力進撃を続け、日本人に多くの犠牲者がでている頃に退院して、自宅に戻ってきた。

 村人は父の完治退院を疑問視し、同一行動を拒否し、決別の挨拶にきた。
 幸い漁村の網元が船での脱出に誘ってくれたので、私たちは参加したが、船の故障でソ連軍に発見さ  れ、元の村に強制送還されて、ソ連統治下のサハリンで抑留生活を送ることになったのだ。

 スターリン時代の「鉄のカーテン」内部での抑留生活には色々な出来事があったが、保身のための密告 を残念ながら幾度も受け、悔しい思いをして、人を警戒し、疑うようになったことだ。
 その例をあげると、ソ連軍人やソ連行政官が村を頻繁に訪れるようになった頃、ふいに学校がソ連軍の 捜索を受ける事になった。容疑は日本軍の武器隠匿だった。
 この件で私は思い当たることがあり、密告者が級友の親であることはすぐにわかった。
 
 私は敗戦直後、学校の天井裏に火薬抜きの手榴弾が2,3個置いてあったのを見つけたことがある。
 青年学校生徒訓練用の村田銃一式も20丁ほどあったが、実はこれが模擬銃ではなく本物で、銃剣も
 研げば刃のつく実物だった。そしてこの銃剣一式は教師(予備役砲兵伍長)によってどこかへ隠された
 はずだ。

 そんな推測を、級友たちが集まったときに話したことがある。こんな風にだ。
「もしロスケに抵抗するときには、隠してある村田銃や手榴弾を使う事ができる。手榴弾は学校の天井裏 にあるのだ」と。
 そのときの空気がソ連を非難する声であふれていたので、うかつにも私は調子に乗りすぎてこんなこと を口走ってしまったのだった。そしてそのことが今ごろになってソ連軍への密告となって表出したの  だ。「ソ連に反逆する者を発見したときはただちに民政署に訴えてほしい。それが事実であったときに はソ連政府はその者に対して充分の報償と優遇を保証する」旨の「密告」推賞制度を日本人にPRして
 いたのだ。

 そのことは父(校長)がソ連軍を学校に案内し、立会いで天井裏を捜索されているときに密告者を直感 したのだった。
 幸いに懸念した手榴弾は発見されず、その他の武器類もでてこなかったので疑いは晴らすことができ  たが、(多分、教師がいつの日にか校内を点検し、どこかへ処分した)もしそうでなければ父はソ連へ の反逆者として銃殺刑がシベリア送りになっていたはずで、今思い出しても恐怖が背筋を走る。

 世の中が急変し、敗戦国民となり、旧敵国の中で自分たちの生命、財産に不安が生じた時、人間はどの ような言動を取るようになるか、前述したような苦い体験が重なり、猜疑心が強くなるのは致し方ない ことだった。

 そんな中で父がロシア語の猛勉をはじめ、急速に上達していったことは、まさに「先見の明」で、
 これがなかったなら短気で激情家の父は、気まぐれなソ連兵の怒りにふれ、その場で射殺されていた  とと思う。その後も幾度も危険な場はあったが、ロシア語が父の生命の盾になったことは間違いない。
 ソ連人は予想以上に自国語を話す日本人に一目置いていた。
 あのマンドリン(71発装填の自動小銃で、ソ連歩兵が全員所持)やトカレフ(8発装填の拳銃)で、
 どれほど多くの日本軍人や民間人が殺傷されたことか。

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