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*写真は樺太・鵜城港
いま私は油絵の教室に通っている。やがて1年になるが、その前は水彩画やパステル画も習っていた。
カメラ(含デジカメ)にも興味があり、これまた先生に習っていた時期もある。
若い頃、シナリオ教室に通ったこともある。文章教室には行ったことはないが、文章表現、上達には大 いに興味、関心があり、関連する書籍を10数冊は読破した。
そのせいでもあるまいが、その頃からボツボツと商業雑誌の投稿欄や原稿募集欄に入選するようにな り、千円単位の賞金や入選料をうけとるようになり、投稿の魅力に取り付かれた時期があった。
これらの趣味に没頭するようになった発端は、すべてが樺太にあった。
私は物心のつき始めた4歳のとき、教員だった父の赴任先樺太に渡航し、それから10年間を樺太で育 った。札幌生まれのドサンコだが、北海道の記憶はまったくなく、後に樺太引揚者として北海道に帰国 してからも、4年後には上京したので、生まれ故郷の北海道にはうといのだ。
樺太では日ソ国境から75キロ南下した西海岸の炭鉱町・塔路(とうろ)と、さらに50キロ南下した 鵜城町幌千(ほろち)村の2箇所で暮らしたが、塔路は1945年(昭和20年)8月16日(終戦の 翌日)、ソ連軍の武力上陸を受けて、多数の犠牲者(含自決者)を出した。
1944年(昭和19年)春に幌千村に移転した私たち一家は、幸いにしてその惨劇に遭わずにすんだ が、知人や級友たちの多数が死傷した。
樺太に侵攻したソ連軍の攻撃は1945年8月25日すぎまで続き、私もソ連軍の直接の攻撃(戦闘機
の機銃掃射)や自決直前その他の生命の危機を10回ほど体験し、1949年(昭和24年)夏、帰国 したが、その地獄、修羅場の体験を同胞・日本人に伝承する目的で、上述した文章の上達や絵画の勉強 を始めたのである。
そしてその目的が成就できるまで健康でいなければならないと健康保持で始めたのが武術太極拳で、
まもなくその表演大会が行なわれ、私も段級位認定資格者として初参加することになる。
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