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*写真は、北海道稚内港と樺太大泊港を結ぶ旧稚泊航路の定期船「宗谷丸」
1945年(昭和20年)8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して、世界の戦場から戦火が消えた後も、
停戦交渉に向かう日本軍使を次々と射殺し、8月25日過ぎまで武力攻撃をやめようとしなかったソ連軍 のあまりにも不法な、かつ非人道的な暴挙により、多数の日本人が犠牲になった。
樺太の死傷者の多くは8月15日終戦後のソ連軍の攻撃によるもので、我々生きて祖国に帰れた日本人 は、生き証人として生涯声を大にしてその史実を子孫及び世界諸国に明らかにする使命がある。
そして私たち一家も漁船上で自決寸前の危機にさらされた。
その悲惨な体験は、やはり8月15日以降のことで、ソ連軍広報車に投降したのは幾度も考察した結果、
8月24日頃だったと推定する。
ここでお断りしておきたいことは、以前、自決直前の体験を書いた時、その日(ソ連軍に投降した日) は8月20日前後と記述したのだが、ソ連軍トラックで元の村に送還される途中のさまざまな状況から、
その日は日本軍が樺太に侵攻したソ連軍を代表するアリーモフ少将と全島の停戦協定を結んだ8月22日 以降のこと、(真岡港攻撃は23日も続いていた)と考えるに至ったのである。
2日間、樺太西海岸を全速で南下していた私たちの漁船(10トンの発動機船)は、曳航していたハシケ のロープが母船のスクリューに絡みつき、エンジンが焼きつき、走行不能になった。
翌朝、飛来したソ連戦闘機に発見され、幾度も急降下で威嚇され、機が去った後、1,5キロ先の漁村に 上陸を試みるためハシケの偵察隊を出したが、浜辺にはソ連軍が布陣しているのを見つけ、ハシケは母 船に引き返してきて、大人たちは船首に集まり、相談を始めた。この相談が自決に関する事であること は私にはすぐわかった。
日本に向かう脱走船がソ連軍に捕まった時は、「拷問を受けた後、全員射殺される」ことは耳にしてい た。誰も口には出さなかったが、そのことはみな知っており、大人たちは全員が自決用のブシ(エゾト リカブトの汁ー猛毒)や青酸カリを携帯していた。私は10歳の少年で、腰にはジャックナイフが1振 り。
私の頭にとっさに浮かんだのは、まず最悪の状態になった、ということで、それは(もう死からは逃れ られない)ということである。そしてそれは最悪の場合に予想していたことだったので、不思議なこと にすんなりと受け止められた。
そして次に浮かんだのは、(自分の死に方をしたい)ということで、続いて(苦痛を少なく)だった。
大人の密談が終れば、すぐに大人のやり方で殺される。
死ぬからには死に方に希望があれば、それは聞いてもらえるはずだ、と確信し、懸命に考えた。
でも悲しい事に2昼夜緊張と恐怖続きの頭では考えが出てこなかった。あせった。
必死で考えた。腰のナイフで腕か首の血管を切ることを考えた。でも大量の血の海の中でもだえ苦しむ ような気がしてあきらめた。
歯に舌をのせ、力を入れてみた。かなり力をこめて噛み切れるかどうかを試したが、相当な苦痛を直感 してあきらめた。海の中に目をやった。遠浅のきれいな海底からコンブがゆらゆらと伸びていた。
(きれいな海だなあ)と感じたが、溺死するには相当の苦しみがともなう気がしてあきらめた。
幾度も船首をみたが、まだ大人たちの車座は続いていてほっとする。
ブシや青酸カリも考えたが、子牛が誤まってエゾトリカブトの葉を食べて、10数秒苦しみもだえ、私の 目の前で死亡したことが思い出され、この方法も断念する。
頭の回転が思う様にならず、益々あせりが高まる。
そんなとき、突然切腹姿の侍の姿がひらめいた。(これだ!これだ!)嬉しかった!
とうとう私の死に方を見つけた瞬間だった。侍の横には水をかけた白刃を手にした介錯人が立ってい た。(そうだ!首をいっぱいに伸ばして切り落としやすくさえしていれば、一瞬で苦痛なしに死ねるの だ!)斬首に失敗し、幾度も切りつけ、切腹の武士から「落ちつけ!」と叱咤された何かの本のことが 頭に浮かんでいた。でも嬉しかった!とても嬉しかった! こんな心境を嘘だ、と思われる方も多いと
思うが、決して嘘ではなかった。
このとき、苦しまないで死ねることがこれから自決する者にとってはどれほどの救いになるかは、この ような体験をした者でなければ絶対に分らないことだと思う。
この直後、急に私から物音が消え、続いて目の前が真っ暗になり、赤い斑点が無数に飛び回り、失神し てしまった。
私の失神中に、自決相談がまとまり、再度偵察隊がハシケでソ連軍に接近し、斬りこみを行なう。
それに呼応して母船では集団自決を行なうことで意見が一致し、日本刀の青年偵察隊が陸地に向かい
出発した。
その結果、ソ連軍の布陣と見えたのは砂浜で日向ぼっこをする馬の群れで、母船に戻った青年たちが
「ソ連兵はいない!助かったぞお」と叫ぶ声に喜びの声で応じる母船の人たちの声で私は正気を取り戻 したのだった。
私たちはそれから4〜5時間かけて無人漁村に上陸し、翌日、国道から降伏を呼びかけるソ連軍広報車 に投降し、元の村に送還され、4年間の抑留生活を送ることになる。なにかにつけて戦勝国民ぶるソ連 人と生命、財産の保障もない敗戦国民の日本人。その惨めさは体験した者でなければわからない。
日本軍人、警察官、特務機関と一部の高級官僚はシベリアまたは北樺太の収容所に送られ、重労働の刑 に服することになる。
自分らの都合で日ソ中立条約を一方的に破棄し、軍使を3度にわたり射殺し、勝手に戦争を長引かせて おきながら、自衛戦争を行なった日本軍を不当に捕虜扱い(全体で推定60万人、実際には100万人とも いわれる)し、酷使し、多数の死亡者を出したソ連の暴挙は、日本人なら絶対に忘れてはならない。
しかも本来の日本領土・北方4島まで返そうとはしていないのだ。
ロシアの歴史を辿ってみると、すべてを力背景に押し進んできた国であることがよくわかる。
そして一見、国際法、人道法を重視する素振りの欧米諸国も、無差別に日本民間人対象の爆撃を公然と
行なってきた事実や残虐さは、ソ連と大差ないことを日本人はしっかりと認識すべきだ。
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