近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

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日本軍雑記3

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 日本軍将校のエリート学校「陸士」と「海兵」については既述したが、今の自衛隊でいうなら、
 神奈川県横須賀の丘上にある防衛大学校がそれに当たる。調べたわけではなく、ゆかりのある人から
 聞いたのだが、3年制で、有る時期から陸、海、空のいずれを志望するかによって、専門課程に移行す るのだという。昔の陸士、海兵が統合されたものと考えればいいのだ。
 優秀な青年が多いそうだが、(レベルは一流大学かそれ以上)卒業しても毎年自衛隊には入らず、
 民間企業に応募する者も少なくなく、ただ最近は急速に減少しているという。在学中は特別公務員とし て、月給、ボーナスを支給されており、自衛隊に入隊しない場合は、国に返還義務が生じるはずだが、 その返済責任をまっとうしない卒業生が大多数だった、という話は、随分昔に耳にしたことがある。当 然、国民の税金から払われているのだから、規則は厳守されなければならない。

 現代の指揮官エリート学校に違いはないのだから、自衛隊で任官すれば当然エリートで出世コースを驀 進することになり、大多数の将官クラスは防大出身者だという。

 軍隊の指揮官といえば、たいていは将校クラスをいうが、実際に戦闘中の現場指揮は、下級将校や
 下士官の場合が多かった。そしてその状況は、陸戦であるかぎり当分は変らないはずだ。
 日本軍や米軍でも、小隊長の少尉や分隊長の軍曹クラスが戦闘現場の指揮官である場合が多いので、
 死傷の危険はもっとも高い。だからこのクラスはどこの軍隊でも消耗品扱いされ、補充可能なように即 製で大量生産?されたというのも真実に近い。日本軍では見習い士官という制度があり、陸軍では「ザ ガネ曹長」と呼ばれた。それは曹長の襟章の上に「ザガネ」の記章がついていたからである。

 軍曹(サージェント)の呼び方は国によって異なり、米軍は「ファースト」「セカンド」などをつけて ランクを決めているが、日本陸軍は下士官を、伍長、軍曹、曹長と分けている。その上が准尉で
 准士官と呼ばれ、兵隊達の人事係的な職務をしていたが、下士官も含めてこのクラスは、兵隊から昇進 した苦労人が多く、階級もせいぜい士官の少尉どまりだった。でも兵隊のことは知り尽くしたベテラン だった。ちなみに大部屋と呼ばれる兵隊の階級を列記すると、入隊するとまず二等兵にはじまり、年数 と実績により、一等兵、上等兵、兵長と進級する。
 その上位が下士官、准士官、士官、将官と上がるが、士官は、尉官の上に佐官が位置し、階級は下から
 少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐と上がり、その上は、将官(閣下の敬称)となり、少将、中将、
 大将、元帥となる。海軍の階級は、兵隊、下士官クラスが陸軍と異なるが、その他はほぼ同じ。

 日本陸軍の場合、少尉は小隊長クラスで、中尉は中隊長、大尉は大隊長、少佐は連隊長クラス、中佐、 大佐は旅団長クラス、少将、中将は師団長クラスでした。そして陸士出身者は、参謀肩章を肩から吊っ た作戦参謀というエリート職を経て、将官か師団長に出世する軍人が多かったのです。

 現在の自衛隊の階級は、小、中、大を3,2,1と置き換えればすむが、将官クラスは、将補、将と
 米軍に似た階級になっている。(本日はこれで終らせていただきます)

 *この写真は、樺太西海岸・鵜城町の漁村風景です。日ソ国境から125キロ南下した場所。
 

日本軍雑記2

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 樺太北西部の炭鉱町で暮らしていた幼少時、通りかかったカフェ(飲食店)前で、陸軍と海軍の制服を
 着た2人の軍人が掴み合い寸前の喧嘩をしていて、怖いので急いでその場を離れたことがあった。
 この港町には軍人は常駐していなかったので、(実際には学校裏山に秘密の高射砲陣地があったが、彼 らの外出時は多分私服)軍艦が入港中で、その水兵(セーラ服)とどこからか来た同じ階級くらいの陸 軍兵だったと思うが、同じ日本軍人でありながら、なぜ喧嘩などするのだろう、と不思議に思ったもの だ。
 階級を取り上げたのは、例えば米軍は外出中、直属上官以外には敬礼しなくてもよいが、日本軍は如何 なる場合でも兵科を問わず、階級の上位者には敬礼が義務づけられていた。
 だから喧嘩するにも相手が階級の上位者がどうか確認してからでないと、上官に対する反逆となり、処 罰されるのだ。
 この喧嘩を目にしてしばらく後に、だれか大人に「陸軍と海軍は仲がわるいのだよ」と教えられたこと があった。陸軍と海軍の違いは、制服以外にも将校の頭にあった。陸軍が短髪に対して海軍は長髪だっ た。その理由を問うたとき、やはり大人がこう教えてくれた。「海軍は船が沈没したときに髪をつか  んで救助しやすいようにしているのだ」と。ところが実際には、遠洋航海し、寄港した外地で現地人と
 レストランなどで交流するために、配慮したのが伝統になったという説が納得しやすい。
 西洋では坊主頭は、囚人とみなされることが多かったので。

 当時、日本は徴兵制だったので、20歳を迎えれば、必ず一定期間、兵役につかねばならなかった。
 港町で暮らしていたので適齢期の青年たちは、海軍を志願する事が多く、学校の先生も「海軍を志願す るなら、絶対に目をわるくするなよ」と注意していたものだ。

 当時の日本軍は陸軍と海軍のみで空軍はなく、それぞれに飛行隊があり、「陸軍航空隊」「海軍航空  隊」などと呼称された。

 1944年頃、暗雲ただよう日本では、志願兵の年齢が14歳に引き下げられ、大々的にポスターで宣伝され
 少年たちの間で噂されるようになる。いまでも私の記憶に残っているのは、こんな会話である。
 「(少年)飛行兵の待遇は(少年)戦車兵よりいいそうだぞ。戦車の中は夏は蒸し暑くて、冬は寒くて
  大変だそうだ。やっぱりいくなら飛行機だべ」

 そして軍国少年にとってあこがれのもとは将校で、頂点は「陸軍士官学校」であり「海軍兵学校」だっ た。めったには目にしなかったが、腰に長剣を吊った陸軍将校や横長の肩章をつけ、短剣を腰に吊った
 海軍将校にはえらく興奮し、感動したものだ。

 父の昔の知人が海軍少佐で家に訪ねてきたとき、私は大興奮し、父に「短剣を見せてほしい」と少佐に 頼んでもらったところ、「抜いてもいいよ」と手渡され、感激した。そしてその短剣の刃が中央部分で
 少し歪んだ形になっていたことを鮮明に覚えている。
 父は将来、私を職業軍人にするため「陸士」か「海兵」を受験させようとしていた。
 だからその教育方法はスパルタ式で、子供の私にはずいぶんと堪えることが多かった。
 父が国民学校(昭和16年から小学校の名称が変更された)長だった時期には、級長(成績1番の生徒)
 だったので、「級友の連帯責任だ」として、帰宅してからも拳固で顔面を幾度も強打され、歯が浮いて
 夕食が痛くて食べられなかったこともある。
 それでもそのときは、(連帯責任の罰とはこういうものなのだ)と考えるようにしていたのだから
 時代とは恐ろしいものだ。

 *この写真は、樺太国境警備の警察隊

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