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「正論」(産経新聞)6月号の記事を読んで驚いた。
戦後、サハリンから故国・韓国に帰国できなかった約1万人(8千人ともいわれる)の労働者につい て、日本政府は平成2年、外務大臣が韓国に謝罪し、同7年、村山内閣は日本の巨額資金支援を決定し、 その支援はいまだに続けられ、平成元年以降拠出した額は70億円(含平成19年度予算)近いという。
ではその人たちが日本軍によって強制連行された労働者だったかといえば、大半が高い労働賃金に
魅せられた自由意志の樺太志願者だったという。そしてこの記事の取材班が言うように、彼らが帰国で きなかったのは日本のせいではない。その点ではこの私も子供ながら歴史の生き証人なのだ。
当時、我々日本人も帰国できるのかできないのか、まったくわからなかった。
1946年に日ソ赤十字間で日本人の帰国問題が合意され、政府も承認していた事項でありながら、「鉄の カーテン」ソ連・サハリン内では、ソ連政府の意のままに密かに帰国者の人選がなされていたのであ る。
そして重要なことは、この記事が解説するように、ソ連が友好国・北朝鮮への配慮から、国交のない韓 国への帰国を認めなかったからで、日本にはまったく責任はないのである。
にもかかわらず日本外務省の腰抜け官僚どもは、韓国の言いがかりを恐れ、謝って金をふんだんに出せ ばいい、と判断し、政府にも無難な「有り様」をアドバイスし、それが2世3世の永住帰国にさえ、
いまだ「人道支援金」として尾をひいているのである。
私が住んでいた塔路は、樺太北西部最大の炭鉱町で、1940年当時は炭鉱ブームで沸き返り、平時3万 だった人口は一気に2倍以上に急増し、住居建築は絶えず行なわれ、食糧マーケットは巨大化され、そ こには不思議な言葉を話す子供連れの(朝鮮)婦人たちの姿が目についた。彼らは家族連れで樺太に
働きに来ており、彼女たちを監視する軍、官の姿など、どこにも見られなかった。
ただ敗戦直後(樺太戦争は8月24,5日まで行なわれていたので、実質的には9月)、樺太各地で
朝鮮人の日本人に対する暴動が発生し、多数の日本人が死傷したという噂は流れたが、私はその頃
朝鮮人不在の鵜城町に移転しており、塔路町の朝鮮人たちがどうであったかは知らない。
やはり樺太の主要都会ではよく見かけた朝鮮人たちがソ連軍将校の制服姿で歩いているのを見かけた 日本人が多く、何らかの意味でソ連軍のスパイだったかスパイ行為で功労をあげた者たちではないかと
噂した。終戦後、見かけた朝鮮人の多くはソ連軍の日本語通訳を務める者が多く、一様に日本人に尊大 な態度を取るものが多かったため、日本人は「虎(ソ連軍)の威を借る狐」と軽蔑した。
「正論」6月号は発売したばかり。
〇油断大敵!中国’微笑’外交 外交の恐るべき裏側 その他「総力特集」の価値ある内容。
*写真は、塔路小学校 直線廊下300米(樺太観光絵葉書もあった)
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