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1941年(昭和16年)12月8日、日本は、ついに米英と戦争状態に入るが、キメ手を考えずに戦いに突入 したわけではないと著者は語る。物資豊富な米英に対して長期戦覚悟の戦いだったが、当時の指導者の
意見代表として、換言すれば日本の気持を知る最良の文書としては、「戦争週末促進に関する腹案」が あり、作者は内閣、陸海軍、外務省の3省及び企画院、統帥部だったが、陸海両統帥部の意見がもっと も強く反映されていたという。そしてこれらの決定は、なぜか情報局及び報道部には知らされず、まっ たくのつんぼ桟敷におかれていたという。(差別用語はご容赦、原文のままに記載)
この「腹案」の方針は、〇米英蘭の根拠を覆滅し、石油、食糧問題の解決をはかり、自存自衛を確立
〇積極的措置により蒋政権の屈服促進〇独伊と提携して英の屈服をはかり、〇米の継戦意志を喪失
〇極力戦争相手の拡大を防止し、第3国の利導に勉む というものだったが、「要領」としては
具体的な詳細が明記され、遂行をうながす内容だった。
著者は解説する。日本は戦争の定石は知っていたが、結局、「彼(敵)の力を過小評価し、己(味方) の力を過大評価」したことにより、計画に狂いが生じ、敗戦の一途を辿る事になった。
援蒋ルートは遮断できず、南方交通線は米潜水艦の猛攻により遮断され、独を過大評価した結果、英の 屈服ははかれず、後半戦では急速に敗北の坂道を転げ落ちることになったのだと。
ここで1941年(昭和16年)の国内外の出来事を時系列的に列記してみる。
1月 東条英機陸相、*「戦陣訓」を訓令 *「生きて虜囚の辱めを受けず」
4月 国民学校令(小学校を国民学校と改称)
松岡外相、モスクワで「日ソ中立条約」調印
6月 独、ソ連を奇襲攻撃(独ソ戦開始)
7月 米、在米日本資産を凍結。1日2日おいて英蘭も日本資産を凍結
10月 東条英機内閣成立
11月 ハル米国国務長官、日本案を拒否
12月8日 ハワイ真珠案空襲開始(午前3時)野村大使ハル国務長官に最後通告(午前4時)
米英両国に宣戦の詔書(午前11時45分)
日本軍、マレー半島上陸開始
12月10日 マレー沖海戦。英の最新鋭戦艦2隻を撃沈
12月11日 独伊、米に宣戦布告
12月12日 日本政府、戦争の名称を「大東亜戦争」と決定
以上
*写真は、3船殉難者慰霊の碑(北海道留萌) 1945年8月20日〜21日 樺太引揚者を乗せた
引揚げ船3隻が、留萌沖でソ連潜水艦の攻撃を受けて、撃沈、大破された。
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