|
戦争開始後、数ヶ月はまさに旭日の勢いだった日本軍は、連合国艦隊撃破や地上戦闘の予想以上の
好調から、有頂天になった。
そして前述の情勢判断に基づき、次のような「戦争指導の大綱」を決定する。
「戦争指導の大綱」
1)英を屈服、米の戦意を喪失させるため、既得の戦果を拡大すること
2)占領地域と主要交通線を保持して、国防資源を開発利用して戦力増強すること
3)積極的な作戦は、わが国力、作戦の推移、独ソの戦況、米ソ関係、重慶の動向などを勘案してから
定めること
4)ロシアに対しては、以前の決定どおり、極力戦争をさけること
5)中国に対しては、作戦成果を利用し、政戦両略の手段を強化し、その屈服をはかること
以上
この段階では、総じて海軍側は積極論で、陸軍は消極論であり、陸軍はこの戦争を中華事変の延長と見 ており、中国では6個師団と戦車1個師団が新設され、蒋政権の屈服に乗り出すことになる。
よくいえば、日本陸海軍はお互いの作戦区域がおおむねきまっていて、両者が独自判断で行動を起す場 合、お互いに深くタッチすることはなかった。作戦区域:陸軍は大陸及び南方方面で、海軍は太平洋方 面)。
しかし巨人アメリカとの戦いは、両者(陸海軍)の作戦に綿密な協同と計算が必要だった、と著者は回 顧する。
この頃の英「ロンドン・タイムス」の批評
「開戦後、最初の3ヶ月は、日本の戦闘行動は、健全であり、巧妙であり、かつ完全に成功した。
この期間には日本は「南方資源地域」として知られた方面において、米、英、蘭各軍を全滅させた。
しかし日本軍の戦局支配は、そこで停止した。日本が獲得した「大東亜共栄圏」を連合国側はそのまま
譲り渡すであろうことを、自明の理のごとく感じていたらしかった。しかるにこのような結果が起こら ぬときに、日本の最高統帥部は、なんらの広汎な戦争遂行計画を有しなかった」と。
ここで著者は反論する。
日本も、米英がそのまま引き渡してくれるとなどとは思っておらず、今後の指導計画も有しないわけで はなかった。だが、その反攻の強度と時期については判断を誤まった。
端的にいうならそれは、「従来の成功に慣れて、陸海一体となって必至にあたってもむつかしい米英に 対して、甘く見ていたそしりは免れない」と。
この写真は、樺太の冬の交通機関、犬橇、馬橇。
|