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著者(元大本営報道部長松村秀逸陸軍少将)はいう。「日本はガダルカナルを海のスターリングラー ドとしてしまった」と。
1942年(昭和17年)12月31日(大晦日)の御前会議で、もみに揉めた結果、ガダルカナルからの
「転進」が決定された。この日まで「転進」という言葉は使われたことはなかった。ないはずで、そ れは退却、撤退を意味する造語で、敵にうしろを見せる退却を恥とする日本軍がもっとも使いたくな い言葉だったので、このときに実態をカムフラージする造語が発明されたのだった。
翌年3月2〜3日、ラバウルからラエ行きの増援部隊を乗せた輸送船8隻が、米軍130機の攻撃を受 け、すべて沈没した。
4月初め、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、地上機と合して340機で、米陸海軍機560機とラバ ウル上空で対決し、かなりの戦果をあげたが、多勢に無勢(敵の60%の戦力)で、敵は補充交代が 容易に可能で、一方、消耗戦のみの日本軍は、トラック島に引き揚げて補充再建に当たる事になる。
そして1943年(昭和18年)4月18日、米軍に暗号解読された日本軍は、ブウゲンビル島フィン基地上空 で、P−38戦闘機30機の待ち伏せを受け、山本大将機は撃墜され、戦死した。
一方、ガダルカナルでひどい目にあった陸軍統帥部は、ようやく米軍の強豪さを知り、主戦場を中国 から太平洋に転換したが、ときすでに遅く、なだれのように各戦場で敗退することになる。
1943年(昭和18年)9月8日、イタリアが連合国に降伏し、枢軸側の敗色が一層濃くなってきた。
9月30日、御前会議でつぎのような内容の「戦争指導大綱」が決まる。
1)航空戦力を急速に増強し、主動的に対米英戦を遂行し、敵の反攻を破砕する
2)絶対確保要域ー千島、小笠原、マリアナ、西部カロリン、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを 含む太平洋、インド洋とし、海上交通を確保する
3)大東亜共栄圏の結束を強化する
だったが、著者は「このときすでに遅まきの感があった」と語り、「すでに1942年(昭和17年)3月に は、航空機の増産、絶対確保要域の設定、海上交通の確保に着手すべきだった」と反省する。
そしてこの「戦争指導大綱」に基づいて作製されたのが次の「作戦計画」だった。
(作戦計画)
1)防備強化して大打撃を与える
2)ビルマ、スマトラは絶対に確保する
3)中国では現占拠地を安定確保し、対ソ紛争を避ける
そしてこの防備完成の時機を昭和19年の中期と予定した。
連合艦隊は、ブウゲンビル島沖の航空戦(対敵戦力5割)で悪戦苦闘したが、昭和19年3月には、ラバ ウル西北方アドミラルテイ島、4月には、ニューギニアのホーランジアを占領され、太平洋の孤児とな り、遊兵化した。
陸海空三位一体の大消耗戦で、(空軍が主役)ミッドウエイの影響は大きかった、と著者は回顧す る。
*この写真は、ソ連軍の自動小銃と拳銃。自動小銃は71発装填で、日ソ戦(樺太)では日本軍を悩ま せた。俗称マンドリン。この後に出たのがAK−47自動小銃。
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