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1943年(昭和18年)11月3日、朝、東条首相は上機嫌だった。この日は、大東亜会議(満州、中国、
タイ、フィリピン、ビルマ、自由インド)に各国代表たちが集まる日で、7つの国旗の中、午後4時過 ぎには代表たちが集まり、和やかな談笑裡に5時すぎには散会した。
そして11月5〜6日に大東亜会議が開かれ、11月7日には、日比谷広場に集まった国民大会の10万人の
大衆の前で、各国代表が熱弁を振るった。
この雰囲気は大東亜共栄圏が完成されたかのように見えたが、実際の戦況は、中部ソロモンの激闘で
日本軍は悪戦苦闘していた。
この頃、航空機増産のため、軍需省が発足し、割り当てから陸海軍の激しい競り合いが続く事にな る。状況は、南方交通の途絶から資材不足となり、合わせて熟練工不足から大量生産が出来なくな る。
1944年(昭和19年)の航空機生産目標は5万機だったが、米国と比較すると、前年目標は12万機(内大型1万機)で、実に日本の2.5倍以上だった。
そして船舶の損害は、昭和17年が88万トンで、昭和18年は160万トンと急増し、日本を圧迫 することになる。
ジェームス・フィールドは、こう述べている。
「日本の戦争遂行能力は、海上交通に依存いていたから、1943年(昭和18年)からの米潜水艦 攻撃による商船の損失は激増し、これにより日本の敗北は約束されたようなものだ」と。
1944年2月17日、南洋群島最大の根拠地トラック島は、日本哨戒網の油断により、三群の米機 動部隊の急襲を受け、翌18日も7回の空襲を受け、飛行機325機、艦艇10隻、船舶(タンカー)2 8隻、人員700名が破壊、沈没され、戦死し、その他燃料、糧秣は灰燼に帰する大損害を受けた。
虎の子のタンカーは全滅したのである。
密かに海軍に「ミッドウエイの仇討ちを期待していた陸軍は驚愕、失望し、急遽、2個師団(基幹) をトラック、サイパン、グアムの守備に当てた。
この頃から日米航空勢力の差は段違いとなり、同年3月末には、パラオを空襲され、飛行機200機、 艦船20隻を撃沈され、建て直しは、米機動部隊の撃滅しかない、と「ア号作戦」が決定する。
ところが陸軍ではマラリア患者が急増し、戦力にはならず、サイパン、テニアン両島は、空襲と艦砲
射撃で飛行機の大部分が破壊された。
戦況の報道についても世界共通するのは、「勝っているときは真実の報道をし、負けてくると虚報を
流す気持になるのは、昔から戦う者の陥り易い心理だ」と著者はいう。
日本軍の場合、前線報告は大本営報道部から作戦部(発言力大)にわたり、そこで色揚げされること が多くなった。それで報道部と作戦部との間にゴタゴタが多くなり、著者は第二報道部長に同行して 東条首相に相談に行ったときの東条首相の有りのままの姿をこう語る。
「君達の戦友は、今サイパンで死闘を続けているのだゾ。今もたおれつつあるのだゾ」と両眼には
白いものが光っていた」と。
(このような状況の中で、これは陸軍の戦果だ、これは海軍の戦果だ、取り上げる、取り上げないな どとつまらない争いなどはするな)と諭しているようにも聞こえる東条首相の言葉である。
そして著者は、この問題の核心の「敵を2回撃退した」陸軍の戦果を、陸軍とも海軍とも書かずに
大本営発表に入れたと述べている。
*この写真は、樺太のトナカイ橇。トナカイの目は極端な近視だが、嗅覚は極めて敏感。
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