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「大本営発表」の著者・松村大本営報道部長は、「梅津と東条」のタイトルで、「端的にいえば、
大東亜戦争の4年間、陸軍の主催者は、前3年は東条大将で、後1年が梅津大将であった」として、
2人の素顔を詳しく語っている。
満州事変では、参謀本部の総務部長だった梅津は、温和で無口な将軍だったが、外柔内剛の人で、
煮え切らないところがある反面、鳴くまで待とうの家康型の遠謀もある人。
それに対する東条は、参謀本部の第一課長や陸軍省の動員課長を歴任した切れ者で、「カミソリ東 条」の萌芽をあらわしていたという。
東条の性格、特徴を羅列すると、「果敢な実行力、小食、清潔、一日4時間の熟睡、非常に几帳面、
まれに見る努力家、軍服胸ポケット両方には、常にメモ用のノートが収められていた、決断の人」
等だったが、日本がもっとも慎重を要する時(太平洋戦争の前夜)、決断を得意とする東条が首相だ ったことは、日本の不幸だったと著者は述懐し、一口でいえば、東条は優等生型を60過ぎまで持ち つづけた人で、ゴマカス、適当にやるというあいまいさをとても嫌う人で、闘志満々、私心はなく、 負けず嫌いで、ややもすると手段を選ばない傾向があり、独裁的傾向もあったと回顧する。
そしてこの2人の将軍は、陸大卒後、ともにドイツ研究員として欧州に派遣されていた経歴もあり、
お互いを畏敬していたという。
絶対確保線(サイパン、テニアン、グアム)がほころびかけ、ドイツではヒットラ−の暗殺未遂事件 がおき、日本でも裏では平和論が出始めたが、7月下旬、御前会議は、「捷号作戦」を決定した。
この作戦は、捷1号ーフイリピン、捷2号ー台湾、捷3号ー本土、捷4号ー千島、北海道の4つに区 分され、要約すると、この4区分の防備を強化し、右地区で敵の来攻を受けた場合は、集中可能な全 力をあげて、我が基地航空兵力の作戦圏内に追いつく敵を邀撃、撃滅し、重要地点を確保する、とい う内容だった。
そして陸海配備の重点は、1号、2号におかれた。
だが、連合艦隊は打ち続く敗戦で救いようのない大きな欠陥ができていた。それは空母兵力と燃料の
不足だった。今や練度高き空の戦士を失い、海の王者としての昔日の面影はなく、暗雲は立ち込め た。ただ長年懸案だった「統一指揮」の問題は解決し、北海道、台湾の陸軍飛行師団は、海軍航空艦 隊司令官の指揮下に入る。
しかしこの段階でも、陸軍、海軍の統帥部は、各々の主張を、貴重な時間の大部分を使って、お互い の折衝に消費していたのだ。
*この写真は、樺太・鵜城町「牛苦のアイヌ」
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