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1944年(昭和19年)7月、サイパン戦が終りかけた頃、ルーズベルト大統領は、ホノルルで、太平洋艦 隊司令長官ニミッツ大将、南西太平洋方面司令官マッカサー大将と3巨頭作戦会議を開き、「フイリピ ン進攻」を決定した。
9月上旬、米機動部隊は、父島、母島、硫黄島を砲爆撃し、ヤップ、パラオ、ミンダナオを爆撃し、フ イリピンも空爆した。
9月中旬、西部カロリンのペリリュー島、アンガウル島、ウルシー島を占領。ミンダナオ東南方のモロ タイ島へ上陸し、基地設定をはじめたので、フイリピン南部も爆撃圏内に入った。
10月9日、豊田副武連合艦隊司令長官は台湾に在ったが、12日、米機動艦載機は、延べ600機で数次に わたり台湾を攻撃し、基地航空隊は100機をもって猛烈な反撃を加え、空母撃沈の大戦果が報じられ た。
豊田司令長官は、米機動部隊撃滅の好機となし、待機中の航空機に出撃を命じた。
10月13,14日は、30機、400機、15日は、200機と全力をあげての猛反撃の結果、10隻の空母撃滅 の報の大戦果をあげ、久し振りの勝ち戦と喜び、15日は瀬戸内海待機の第2遊撃隊(重巡2、軽巡1
駆逐7)は、残敵掃蕩のため、台湾沖へ南下したのだが、残敵は発見できなかった。
この戦いの大戦果はまたも誤認で、その原因は、触接機の不足、技量の未熟、天候不良、夜間攻撃が
主だったこと等で、日本軍は偵察訓練を軽視していたことも大きい。
得意の絶頂だった海軍は、またもや奈落の底に突き落とされることになる。
ここで著者は、日本軍は「敵を知るための稽古に怠りがあった」と述懐する。
この戦いで、日本軍は全航空兵力を台湾沖海戦に投入してしまい、多数の空母搭載機と熟練パイロッ トを消耗してしまい、次のレイテ海戦に大影響を与えてしまう。
間もなく虚報の実相が次々と現れてきた。15日午後には撃沈したはずの空母4隻がルソン東方に現れ、
16日には、台湾東方に空母2隻、続いて7隻発見が報じられ、海軍は色をうしなった。
そして米の海外放送は、「台湾沖で沈没したはずのハルゼー艦隊が西(台湾)に向かって退却中」と
皮肉った。そしてこの後すぐに日本の運命を決めるレイテ沖海戦が始まったのだ。
*この写真は、樺太名物の「フレップ酒」
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