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1945年(昭和20年)3月、日本は、航空兵力の徹底的集中と局地防衛の強化を図ることになり、大陸の
方も東シナ海沿岸に兵力の重点を移した。
海軍側は沖縄作戦に望みをかけ、陸軍は離島作戦の再三の失敗で、海上輸送のない本土作戦に重きを
おいた。沖縄の防衛は、牛島中将率いる2個師団半の兵力だった。
沖縄戦の特徴は「航空兵力を徹底的集中した特攻戦」であった。
(中略)日本は九州に海軍機1,815機(内特攻機540)、陸軍機735機(内特攻機440)、
台湾に440機(内特攻機250)合計2,990機(内特攻1,230機)を集中した。
これに対する米側の作戦は、これまで企てられた太平洋作戦における最大のものであった。(中略)
総勢54万8千人。軍艦318隻、輸送船1,130隻、陸上軍は3個師団、海兵4個師団計7個師 団12万人であった。
米側は沖縄島1島をとるために、西太平洋においてフイリピンとアリューシャンの部隊を除いた
全米軍がこの戦いに投入されたといって過言ではない。
わが第5艦隊は、3月18〜20日と、空母10数隻の米快速機動部隊と対決して、相当な損害を与え た。(中略)そして4月中旬〜5月下旬にかけてその激戦は硫黄島の再現を思わしめるものがあった。
米軍は持ち運びの便利な軽い無反動砲を使用し日本軍陣地を攻撃し、6月21日、80日余の悪戦苦闘
の後、沖縄は遂に落ちた。牛島中将は、本島の南端、太平洋の浪が脚下を洗っている断崖の丘上で
自刃した。
特攻「菊水作戦」は4月6日から始まり、6月22日まで出撃回数数十回、延2千8百67機が出動した。
(中略)猛烈な防空砲火をくぐりぬけて、目標に到達したのは1割そこそこで、米提督たちは「なあ にたいしたことはない」と豪語していたが、事実は全艦隊の心胆を寒からしめたものがあったよう だ。
米新聞も初めは掲載を禁止、4月13日になって解除した。
沖縄における米艦隊の損害は、撃沈33隻のうち、特攻によるもの25隻、撃破167隻のうち特攻 によるもの124隻であって、撃沈、撃破の7割5分は、特攻があげた戦果であった。
この頃、私(著者)は鉾田(茨城県)の飛行場に特攻隊を送りに行ったことがある。
出陣の前、香取神社におまいりして、神官が社前に武運の長久を祈念しようとした時、「われわれに は武運の長久は禁物、獲物の大ならんことを祈っていただきたい」と言ったという。
特攻の選にもれたと言って泣いた少年もいた。あまりに志願者が多いのでクジ引きにしたのである。
(中略)
飛行場に立っていた私は目頭があつくなった。死を見ること帰するが如し。やっぱり特攻は戦争とい う特異な雰囲気が生んだものであった。(中略)
戦艦大和は、4月7日、敵機延1千機の反覆電撃を受け、鹿児島西西南方100浬の沖合いで最後を遂げ たのであった。
〇祖国のために戦死した英霊に合掌。
*この写真は、樺太西海岸の「鵜城」港。
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