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「4月5日、沖縄がこれからだというとき、小磯内閣は退陣した。(中略)事実はレイテ天王山からル ソンにかけての敗戦のためであろう」と著者はいう。
ソ連の対日態度が悪化したのは、1944年(昭和19年)の秋、ドイツとの戦いが峠を越して、連合側の
勝利が確実となった頃、太平洋では日本がレイテ作戦でギュウギュウの目にあっていた頃からであ る。
前年の11月の革命記念日の演説で、スターリンは始めて日本を誹謗した。
あけて20年の2月末から兵力の東送を始め、4月5日には、かって松岡外相が締結した日ソ中立条約の
破棄を通告してきた。
この条約は、通告後1年間は有効となっていたのであるが、日本の敗北が歴然としてくれば、いつでも
一方的に蹂躙される可能性は、十分にあるとみなければならなかった。(中略)
5月になると、ドイツが屈服したので、北辺はいよいよ急を告げ、ソ満国境が怪しくなってきたので、
中国から満州へ、4個師団を転用したことは前述の通りである。
その頃、大本営のソ連に対する情勢判断は、次のようなものであった。
(要約)
1)ソ連は対独戦に主役をつとめた感あり、その増大した発言権を最大限度に利用して、東欧に対す る勢力圏の拡大と、多年の宿望である海洋への進出をはかるであろう。
2)満州と中国に勢力を伸ばしてくるであろう。
3)目下、極東増兵をいそいでいるが、7~8月頃には40個師団近くなるだろう。
4)対日開戦は時機の問題。日本がすっかり弱って、ほとんど犠牲を払わずに満州をとれる時機を狙 うに違いない。
7月10日、在満の在郷軍人40万の内、25万を動員した。
師団や旅団の数こそ増えたが、装備は貧弱きわまるもので、かっての精鋭関東軍の面影はなかった。
朝鮮では、7個師団が本土決戦にそなえて南鮮に位置した。
かかる事態に立ち至っては、攻勢作戦一点張りできた関東軍も、優勢なソ連軍を相手に、南満線東方
の山地に拠って持久を策するより他に手がなくなった。
戦争の焦点はいよいよ本土に移ってきたのである。
*この写真は、元樺太師団(第88師団)主要幹部。
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