近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

樺太千島の史実

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 独ソ戦で疲弊しきったソ連軍など樺太侵攻後1週間もしないで、無傷精鋭の日本軍に日ソ国境から追い 返されるだろうと信じていたわたしたちは、ソ連軍兵士全員が最新型の自動小銃を携帯し、日本軍を苦 戦に追い込んでいた事実や充実した武器弾薬を保有していると思っていた樺太師団が、飛行機や戦車は
 1台もなく、大砲すら数えるほどしかなかったという実態をまったく知らなかった。

 戦後、島都「豊原」に進駐してきたソ連軍高級将校は、樺太の日本人の財産の豊かさに驚き、

「ソ連人 は夏冬とも各1着の衣類で国防のために節約してきた。それに対して日本人の贅沢さにくら  べ、日本軍の装備の貧弱さには驚いた。これでは戦争に負けて当然だ」

 こう日本人に吹聴してまわっていたという話しはあまりにも有名だ。

 閑話休題。
 さて村に駐屯したソ連兵だが、2,3日して今度は長身のもう一人のソ連兵が現れた。
 最初のソ連兵は20代後半か30代にみえたが、この長身は20代だった。
 やはり丸腰の略帽姿できわめて低姿勢で、ゼスチャー交えてなにやら言っているが、これも応対した母 とわたしですぐに理解できた。

 「バケツを貸してもらえないか?」といっていた。
 母はバケツを示し、「これのこと?」というと、大げさに喜んでみせて「ダ、ダア(はい、はい)」と いった。はじめに来たソ連兵もさかんに「ダ、ダア」を連発していたので、わたしたちはそれがロシア 語で(そうだ、はい)を意味する言葉であることを知ったのだ。

 「バケツはたくさんあるからあげます。わかる? あげます」母がゼスチャーを交えていうと、
 「ダ、ダア」といい、「スパシーバ(ありがとう)」と帰っていった。
 この「有難う」もやはり前のソ連兵が発していたので、すぐに理解した。
 こうして母とわたしは、ソ連兵と2度の交流で2つのロシア語を覚えたのである。

 翌朝、このソ連兵はニコニコしながら我が家を訪れた。
 手のバケツには黒い食パンと角砂糖がたくさん入っている。
 この黒い食パンはライ麦パンで、フスマが入った少し酸味の味で、これがソ連人の常食とする黒パン(フリエーブ)だった。
 父母は好まなかったが、わたしははじめからこの黒パンの虜になり、ごはん代わ りに毎食でも平気に なった。
 角砂糖はソ連兵がつねに所持していた甘味料で、戦後、米兵が常に携帯し、日本人の子供たちに与えて いたチョコレートと同じような兵士携行の甘味料だった。(続く)

 塩を小皿一杯持ち帰ったソ連兵は、翌朝また来訪した。皿を返しにきたのだ。そして小皿には缶詰3  個が載っていて、ゼスチャーにロシア語をまぜて母に渡そうとするので、母は小皿のみを受け取ろうと するが、ソ連兵は缶詰ごと皿を母に押し付けて受け取らせ、逃げるようにして宿舎に戻って行った。

 樺太を侵攻したソ連軍は大部分が囚人部隊で、戦功により刑務所より釈放されたり、刑期が短縮される 特典があるらしい。それ故に兵隊としての質はきわめて悪く、凶暴なので充分に警戒しなければならな いという噂は日本人の間にすばやく広がっていた。おそらく島内すべてそうだったと思う。

 来宅したソ連兵はじつに礼儀正しく、マナーも心得ていて凶悪な囚人兵にはとうてい見えなかった。
 大型の肩章には太い赤帯が入っていたが、日本軍の肩章とはあまりにも違うのでどれぐらいの地位なの かさっぱりわからない。

 でも塩のお礼に缶詰を持参したことだけはたしかだったので、わたしたち一家はそれをその日の夕食で 食べることにした。

 手にとってよく見ると、驚くなかれそれは「made in USA」だった。
 なぜそんなものがソ連軍にあるのだろう?
 「おそらくソ連軍への米国の援助物資だろう」父が言った。
 後年帰国後に調べた結果、それはやはり米国の援助物資だった。

 恐るおそる食べた私たちはその美味しさに仰天した。米兵やソ連兵はこんな美味な缶詰を戦場で食べて いたのか・・・。
 わたしはあまりに豊かだった敵軍の戦時携行食糧を知って唖然とした。
 
 ちなみに当時の米国の対ソ援助物資の金額、内容をご披露する。
 
 援助物資金額・・・91億ドル
 (内訳)
 1)飛行機1万4千機・・・ソ連軍侵攻当時の樺太の日本軍には0機。
 2)トラック38万台
 3)ジープ5万台・・・なぜか樺太では1台も見かけなかった。
 4)食糧447万トン
 5)その他 電話用資材(アルミ線)・・・このアルミ線は使用されていた。
                                  以上

 

樺太をソ連軍統治の頃

 1945年(昭和20年)9月以降の樺太はソ連軍占領下のサハリンとなり、完全に行動の自由を奪われ   た。樺太とは日本領だった南樺太のことで、当時の呼称は「樺太」だった。
 なぜ9月以降かといえば、樺太の戦いは8月24〜25日ごろまで続いていたからで、ソ連軍が樺太を統 治するようになったのは 各地で日本軍との停戦協定が結ばれ、樺太全土の戦火が収まったのが9月だ ったからだ。9月以降も漁船などの小船を使って日本(北海道)に脱出を試みる人たちはいたものの、 北海道に近い樺太南端の「大泊」港や突端の岬周辺から出航する船以外は失敗が多かったと聞く。
 
 日ソ国境より南下した大部分のソ連軍は、樺太の要所要所に駐屯することになったが、わたしたちの村(北緯50度線の日ソ国境から125キロ南下した西海岸の山際)は海岸沿いの国道から一山越えて奥地に入 った盆地の集落だったので、ソ連軍からは憲兵2人が常駐することになり、ソ連軍本隊は隣町に駐屯し た。憲兵と表現したが、ソ連軍には日本軍のように憲兵という兵科はないので、憲兵役と呼ぶのがふさ わしい。

 ソ連兵が国民学校(小学校)の教員官舎に常駐することはあらかじめ聞かされていて、場所の下見にソ 連軍トラックがきていたが、やがてソ連軍の軍用トラックが校庭に停まり、荷台の僅かな荷物を自動小 銃を肩にかけた2人の若いソ連兵が下ろし、指定された官舎に入っていった。

 これがソ連軍兵士常駐のはじまりだった。

 そして翌日の夕方、校長宅の我が家に一人のソ連兵が現れ、居合わせた母とわたし(少年)にさかんに 身振り手振りでロシア語を交えて話しかける。
 ものごしはきわめて柔らかで、それが上官の指示らしいことはすぐにわかるほどの気の使いようで、丸 腰で武器ももっていなかった。

 こんなことは母やわたしもはじめての経験だったが、それが「塩がほしい」といっていることがすぐに わかった。
 母はすぐに小皿一杯の塩を用意して差し出すと、指につけなめてから大仰に(これだ、これだ)と大喜 びした。そしてポケットからしわくちゃのソ連紙幣を出し、母に手渡そうとする。
 母は「いらない、いらない」と手を振り「あげる、あげる」を繰り返すと、少し困った表情をしたソ連 兵は、まるで日本人のように頭を何度もさげて帰っていった。

 樺太各地でのソ連軍の横暴な行為(略奪、暴行、傷害など)は噂ですでに知っていたが、これが悪名高 いあのソ連軍と同じ兵士なのかと疑念を抱くほどの丁重さだった。
 これが縁でわたしたち一家と駐在ソ連兵との交流がはじまる。(次回に続く)
 

 今朝(11/16)、わたしがブログ開設してはじめての「トラックバック」をいただき、感謝してい る。
 それはわたしの「失われた北方領土(樺太、千島列島)と2つの宣言と協定」(10/23付)に
 対するものだが、まず「北方領土」の定義について詳しく解説いただいているが、このような場合、
 どのように返答させていただけばよいのか、まだブログ知識が未熟でわからないので取り急ぎブログ
 本文にてご挨拶させていただく。
 
 まず「なまらどっとこむ」さんが長年北方領土関連のご研究をされてきたことは本文を速読させて
 いただき、北方領土関連の歴史伝承に尽力されておられる事が分り、敬意を表したい。
 そして「北方領土」の定義を詳細に解説していただいているが、わたしも北方領土の史実を研究、考察 する日本人のひとりとして当然、理解している。

 史実を研究、考察する立場からわたしは、不明確な史実を断定することなく、関連事実の収集につと  め、真実の追究に努力中である。

 先の旧北方領土(樺太、千島列島)戦争の実態については、現在も日ソ資料の収集につとめているが、
 樺太師団(第88師団)の鈴木康生参謀長(名古屋市在住)とは生前交流があり、著書「樺太防衛の思 いで」は入手しており、日本軍側の資料は、あるていど充実している。

 「なまらどっとこむ」さんがわたしに「北方領土」の定義を詳細に知らせてくれたのは感謝するが、
 わたしも「樺太、千島列島」は従来から一貫して「旧北方領土」として明確に区分しているので、
 現在の「北方領土」が北方四島であることは明確に理解している。

 なお「旧北方領土」の返還要求の根拠、千島列島の境界線や北方四島のロシア人実効支配の史実?等に 関しては、わたしの資料、見解とは 異なるところがあるが、お互い正しい北方領土史実伝承を目的と する者同士、これからも大いに努力していこう。(完)
 
 
 
 

 
 鮭、鱒の遡上時期は違いますが、鱒の遡上は物凄く河口から何重にも折り重なって遡上するので、水か さが増えて水流が逆流するほどです。
 
 そんな頃、道路から藪や林を掻き分けてかなり奥地に入ったところに水面に低くかかった秘密の橋があ り、隠されてていた大きな針のついた器具で、遡上してくる鱒の群れを引っ掛けて機械のようにすばや く叢にたくし上げる現場に連れていってもらったことがありました。
 勿論誰にも絶対に口外しない約束で・・・。
 それは密漁の現場だったのです。
 
 鮭の価格と価値は鱒の幾倍もあり、ただ遡上するのが夕方以降が多く 鱒ほどにすさまじい群れで遡上 することはないので、青年たちは長い釣りざおの針先に金色の小判状の金属片をつけて水面を下流か  ら上流に流すと、夕日に映えてそれが黄色の虫のように水面を乱舞します。
 すると川のあちこちから無数の背びれが姿をあらわし、その虫を追うのです。
 思い出すとそれはあまりにも美しい村の夕景でした。
 今は異国の地となり、それからもう半世紀以上も経つ時効時期なのであえてお話しします。

 村では鮭や鱒のことを隠語で「丸太」と呼んでいました。
 村人は農業と林業を兼ねていましたから話をよそ者に聞かれてもきわめて自然でした。
 川での「丸太取り」は、山村の人たちの大きな内職のようでした。
 密漁を取り締まる役人はいたのですが、絶対数が少なくわたしなどは1度も見たことはありません。
 
 でもソ連統治のサハリンになってからは、ソ連人の密猟取締官が猟銃を手に川辺に姿を現わすようにな り、はじめは撃たれるのではないかと恐怖を感じましたが、彼らの狙いが食卓用の魚獲得であることが
 わかってからは、あらわれるとすぐに捕獲した大柄の鮭を、水面のマルタ(これは本物)上から向こう 岸の監視員に向けて2,3匹放り投げてやると、満面笑みを浮かべて手を振りながら去っていくのでし  た。ときには「ダスビダーニア(さいなら)」と愛想を振りまきながら・・・。
 
 戦後は、伐採し、川に流されていたマルタ類はそのまま放置されていたので、わたしたちはそれらを鮭 が獲りやすいように移動し、一箇所をイカダのように固定し、そこから水鏡でヤスを使い、水中の鮭を
 捕獲していましたが、その場所以外は、乗るとマルタが回転するので熟練を要し、その点、私たち村の 大人は勿論、子供たち全員もマルタ乗りのベテランでしたから問題はありませんでした。
 
 ところがソ連人密漁取締官は、マルタ乗りなどできず、はじめのころは試しかけたのですが、危うく
 川に転落しかけてからは、もうたくさんの鮭をいかだ上に並べている私たちに近づこうとはしなくなっ たのでした。
 
 閑話休題。 
 上流で産卵を終えた鮭、鱒は体力を使い果たして川辺で死亡することが多く、野鳥や動物の餌や土壌の 栄養になります。それでもまだ体力の残っている鮭、鱒は海に戻ろうとして仲間と隊列を組んで下って いきますが、途中、紐のついたヤスを持ち、待ち構えた子供たちの遊びの標的として狙われるのです。
 
「ほっちゃれ」と呼ばれるこれら疲労困憊の鮭、鱒は、背びれ付近から次第に腐食し、白斑状になり、
 もう臭くて食用にもなりません。

 〇前回に次いで再び樺太の詩をまとめてご紹介します。

*下記5詩は引用
 
 密漁の網 干されあり警察署  片桐 まさる

 密漁の鮭としりつつ買いにけり  伊藤 凍魚

 密漁のくったくもなき昼寝かな  田村 硯一

 密漁の取り締まり避け 畠いじり   外崎 喜石

 淀にいて泳ぐともなし ほちゃれ鮭   岡部 己峡 

 
(参考引用文献)
  樺太歳時記(国書刊行会)  



 

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