近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

樺太千島の史実

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 *写真は樺太「日ソ国境」近くのオタスの杜に暮らすオロッコ族と河口が逆流しそうな鱒の遡上光景

 急降下するソ連機から銃弾は発射されず、そのまま急上昇したソ連機が再度急降下してきた。
 銃声はせず、上昇したソ連機は低空で船の周りを旋回しはじめる。
 あの急降下がまだ続いていたら、私はその精神的緊張に耐え切れず発狂していたにちがいない。
 父はまだ甲板に立ったまま、赤布を打ち振っていた。その効果のせいか掃射は行なわれず、パイロット が身を乗り出すようにして舟を覗き込んでいた。そして数回旋回した後、ソ連機は北に飛び去って行っ た。
 極限の恐怖と緊張は幾分和らいだものの、いつまた引き返してくるかわからなかった。
 あるいは、このソ連機から陸海のソ連軍に通報され、今度は両方からソ連軍が追跡をはじめているかも しれなかった。
 ハシケに数人の日本刀を持った青年たちが乗り込み、1.5キロ先の陸地の偵察に向かう。
 私たちは次第に小さくなっていくハシケの動向を見守りながら、水平線からソ連の軍艦が現れないかも
 監視していた。

 「ハシケが戻ってくる!」
 誰かが叫び、船上は総立ちになった。目を細めてうかがい見ると、たしかにハシケは船首に白波を立て ながら急いで戻ってきていた。しばらくしてハシケが近づき、青白い顔をした青年が、両手を交差させ ながら、「だめだ、もうソ連兵が岸にいる」と叫んでいた。

 母船にハシケの青年たちが戻ってから、大人たちが船首に集まり、相談をはじめた。
 このとき私はすべてを悟った。
(とうとう最後の時がきた。大人たちは今、集団自決の相談をしている。相談が終らないうちに死に方を
 考えておかなければならない)
 そう思った。不思議なまでに落ち着いていた。死ぬことは怖くはなかった。ただ、苦しんで死にたくは なかった。(瞬間で死ねる方法は・・・)懸命に考えようとした。順番が回ってきたとき、希望する死 に方くらいは受け入れてくれるはずだ。ソ連兵に拷問されて死ぬくらいなら自分で死んでみせる。

 私たち小国民(子供たち)は、誰からも死ぬことを強制されていたわけではなく、教えられていたわけ でもなかったが、ソ連兵に捕まれば拷問され、最後には殺されると考えていた。
 
 現にソ連軍は戦争が終わっているのに(8月15日)、武力による南進を続け、軍人、民間人の見境いな く日本人に攻撃を加え、ソ連機は機銃掃射を繰り返し、私も危うく命を落とすような体験をしている。

 避難民が叫んでいたように、ソ連とアメリカは、密かに日本人抹殺の密約を結んでいるのかもしれな  い。そんなことも頭に浮かんでいた。
 「走馬灯のごとく」という例えがあるが、このときの私の頭には(早く死に方を選ばなければ、いやな
 方法で自決させられるかもしれない)という恐れと雑念が次からつぎへと走馬灯のごとく湧き上がって いた。でも連日の疲労と緊張から、物事に集中する力が頭から失われていて、考えることが出来なくな った。

 大人たちの相談はまだ続き、少しほっとした気持で海中を覗き込んだ。綺麗な海低からコンブが海面す れすれにまで伸びていた。(だめだ!溺れて苦しみながら死ぬ事になる)水死はやめた。

(腰のジャックナイフで手首か首の血管を切る)切る瞬間が痛いし、やはり血を見ながらは死にたくな  い!ああ困った。苦しまない死に方はないのか!私の頭は半狂乱だった。
 舌の中ほどに歯をあて、力をいれて噛んでみたが、本気でやっても上手くいきそうもなかった。

 大人たちはまだ船首から動かなかった。(ああだめだ!まいった!)
 そのとき、白装束の侍の姿が突然、脳裏に浮かび上がった。(あ、これだ、これだ、これだ!)
 私はようやく自分の自決方法を思いついたのだった!
 
 嬉しかった!とても嬉しくて小躍りしたくなった!それは切腹する侍の横に立つ介錯人だった!
 介錯人が手にする日本刀!これで一気に首を落としてもらえば、苦しまないですむのだ!
 船には日本刀を所持する青年はたくさんいた。彼らに依頼すればいいのだ。
 ただし幾度も切り損じられないように思い切り、首を差し伸べなければならない。とっさに思った!

 そのとき、私から物音が突然消え、目の前が暗くなり、真っ暗な中で無数の赤い玉が飛び回っていた。
 そしてすべてが消えた。苦しまない死に方を見つけた私は狂喜し、一気に精神状態が激変し、失神して しまった。この心境は、体験者でなければ到底実感、理解できないものであることを申し添えます。  (続く)


 

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 私たちの決死の樺太脱走船(10トンの漁船)は、南に向け全速で2晩走り続けた。
 幸いソ連軍に発見されることもなく順調に航行してきたので、うまくゆけばこのまま北海道まで
 走りとおせるような気がしていた。
 網元の考えは*久春内まで到達できれば、そこで上陸し、汽車で南端の大泊港まで行き、そこからは日 本船で北海道に帰国する計画を組んでいた。(*久春内は大泊行きの汽車の始発駅で、防衛上はここが 北地区と南地区の境界線で、北地区は歩125連隊、南地区は師団主力の防衛担当地区になっていた。
 また地形的にも南樺太でもっとも幅員の狭い個所(20キロ)で、久春内から東海岸の眞縫に達した。
 
 だがソ連軍の行動がまったくわからない現状では不安要素は山積していた。
 北部の支庁所在地・恵須取港が、ソ連軍の攻撃を受け、炎上していた2日前の夜、私たちは出航してき たのだが、ソ連軍戦闘機が我が物顔で上空に飛来し、日本人の避難民を容赦なく攻撃している様子か  ら、どのあたりまでソ連軍に制空権を握られているのか見当もつかなかった。
 なにしろソ連軍が10日に侵攻してきてから、1度たりとて日本軍機の勇姿を見ることがなかったので ある。

 樺太の日没はおそく、21時頃でもまだ闇はこないし、雲がない夜は満天に星で、月光は強烈に明るい が、昨夜もソ連機の夜の飛来はなかった。
 久春内から約100キロ南に真岡港が位置していたが、我々の船は鵜城近くの漁港から出航してきたの で、100キロ先の久春内にさえまだ到達してはいなかった。岸から約1.5キロの沖合いを航行して
 いたので、目立った特長のない漁村などはそれがどこなのかはわからなかった。当時の漁船には望遠鏡 や双眼鏡などはなく、肉眼のみが頼りだった。

 2日目の夜、眠りについてどれほどたってからか、なにか大きな物音で目が醒めた。
 船員たちが慌しく船内を行き来している。いつのまにか波がでて船が停止して少し揺れていた。
 網元や船員たちが船尾を覗き込み、やがて2,3人が海に飛び込んだ。
 しばらくして網元の説明がある。
 (海が少ししけて(荒れて)きて、曳航していたはしけ(小船)のロープが母船のスクリューに絡ま  り、エンジンが止まってしまった。からまったロープは切断して撤去したが、全速走行で過熱していた
 エンジンが焼付いて動かなくなったので修理中なのでもう少し待ってほしい)
 この船には専門の機関士が乗っていなかった。この船の機関士は他の漁船で家族と共に一足先に避難し ていたのだ。
 数人の船員が交代で機関室に入り、修理に当たるが直らない。

 樺太の夏の夜明けも早く4時すぎには日が昇るが、海では濃霧が厚く海面を蔽う。船は錨を下ろした  まま揺れ動いていた。船に乗りなれていない母や女先生が船酔いし、船べりから顔を突き出して嘔吐し た。修理はまだ続いているが、それ以外にはなすすべがなかった。我々は濃霧に厚く覆われていた。
 「よわったな。もうすぐガス(濃霧)が晴れる」誰か漁村青年の声が聞こえた。
 
 案の定、濃霧が薄れ、熱い陽光が肌を射し、汗が噴出してきた。そして霧は嘘のように消失した。
 昨日と同じ晴天だった。私たちの船だけが海に浮かんでいた。砲声や爆音も聞こえなかった。
 今日も無事発見されずに済むだろうか。でも船はもう動かず、小波のざわめいている海面に浮かんでい た。
 
 そして恐れていたことが現実となった。
 北の空にかすかな爆音がして、それは見る間に機影となり、確実に私たちの船に向かって高度を下げな がら直進してきた。爆音が日本軍機ではなかった。私たちの耳はいつの間にか峻別する力を備えてい  た。ソ連戦闘機は攻撃の姿勢で船に近づいてきた。

 その時だった。父の大声が甲板に響いた。
 「誰か赤いきれを出せ!はやく急いで赤い布だ!」
 漁師の家族らしい婦人が赤いきれを差し出し、父は青年にポールに結びつけるよう指示し、それを手に すると甲板に仁王立ちになり、ソ連機に大きく振り出した。
 ソ連機は途中から不気味な金属音をあげながら急上昇していた。そして一定の高さから急降下をはじめ た。私は船べりにしがみつきながら閃光が走ったら海中に飛び込めるように身構えた。(もうだめか)
 心の中でつぶやいていた。(続く)

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 写真は激戦のあった真岡港。真岡郵便局の「9人の乙女」もここで自決殉職した。
 
 私が目覚めたのは朝だった。樺太特有の濃霧も晴れ、船は軽快なエンジン音を響かせて航行していた。
 快晴で見渡すかぎり真っ青な空と海の中で、私たちの船だけが走っていた。
 昨夜のことが色々と思い出された。山越えでクマに遭遇しなくて本当によかった。もしクマに遭遇して いたなら、武器もない私たちは間違いなく冬眠前の飢えたクマの餌食になっていた。
 それにしても昼間のようにあたりを照らし出す月光の明るさを、私たちは予想もしていなかった。
 約束の時間に大幅に遅れたのもこの月光のせいだった。
 山頂から見下ろしたときの漁村を蔽う濃い牛乳のような濃霧もはじめての体験だった。

 船上の全員が目を皿のように見開いて上空、海上を監視していた。もしソ連機やソ連海軍の艦艇に発見 されたらそれで終わり。生命の保障はまったくなかった。
 数日前、国道を南に避難する人たちが口々に叫んでいったのは
 「ソ連軍は日本人に攻撃を加えている。きっと皆殺しにするつもりだ。早く避難しろ!」だった。

 網元が船での脱出参加を私たちに勧めたときも、「ソ連軍に捕まった時は全員銃殺されるらしいことは 聞いているので、覚悟の上での脱出行です」と話していた。
 
 誰も口にはしなかったが、死を覚悟しての脱出行だった。だから全員が自決用の青酸カリや*ブシ(エ ゾトリカブトの汁)を携帯していたのだ。(*エゾトリカブトは樺太に生育する猛毒の植物で、その茎 汁を飲用すると10秒前後で人畜を殺害するといわれている)

 そしてこの日は1日、ソ連軍に遭遇、発見されることもなく、無事夕暮れが訪れた。
 
 後日、私たちの船逃避行の進路・真岡港を8月20日に攻撃し、上陸したソ連軍部隊の詳細を調べると
 次のようなものだった。
 1)ソ連軍の攻撃、上陸日    8月20日
 2)日本軍との戦闘      8月20日〜23日
 3)ソ連軍の規模
   ・17隻の艦艇、5隻の輸送船 飛行機80機
   ・海軍歩兵混成大隊、第113狙撃旅団 計3,400名
 4)真岡港上陸のソ連軍と交戦した日本軍
   ・歩兵25連隊の1個大隊及び2個中隊
 
 *日本軍指揮官Y大佐の報告書から「ソ連軍の素質」を要約すると  
  「ドイツ戦線から直送された部隊で、暴逆行動に馴れた素質不良の部隊。
   教育程度は極めて低く(中略)飢えた狼に似ている」と。
 *参考引用文献:「樺太防衛の思い出」鈴木康生著

 前述したとおり、この逃避行で出発した日時等の詳細に記憶はなく、はっきりしていることは詔勅の翌 日8月16日が初めてソ連戦闘機2機の機銃掃射を浴びて九死に一生を得た日だったことまでである。
 
 だから父母が隣町の病院から退院して帰宅したり、村の代表が決別の挨拶にきた日のあたりから記憶が 怪しく、いまでも多くの疑問がある。
 起きた事件や出来事の記憶には間違いはないのだが、日にちにのみ疑問が残るのだ。
 
 上述した真岡港攻撃のソ連海軍の規模をみても、もし20日に近い頃、私たちの船が真岡港に近づいて いたなら、例え30キロくらい離れていたとしても艦砲射撃の砲声や多数のソ連機の爆音を聞いている のではないかと思うのだが、現実にはまったく耳にしてはいないのだ。(次回に続く)
 
 

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 月が厚雲に入り、あたりは真っ暗闇になったので私は歩みを止めた。そろそろ民家が点在する場所   で、足元は段差が生じ、柱や置物などの障害物があるらしく、少しでも薄明かりがないと危なくて歩け ない。物音がしないのはみながその場で立ち止まっているからだった。
 しばらくして突然、薄明かりが射してきた。月が薄い雲の中を移動していた。一斉にみなが歩きだし  た。

 民家が集まったあたりで月光が弱くなった時、鋭い誰何の声がして、まわりに殺気を感じ、白刃の閃光 をみた。父が即座に返答したとき、「校長先生、お待ちしていました」と青年の声がした。
 
 30分以上も出航時間が経過していたが、網元は「きっとくるから」と待ち続け、青年数人を途中まで迎 えに出してくれていたのだった。いつソ連軍が陸、海から南下してくるかわからない切迫した状況で、
 私たちを信じ、待ち続けていてくれた網元には深く感謝した私たちだった。

 史実を振り返ると、この頃、20キロ北の支庁所在地・恵須取港に上陸したソ連軍は、東岸に通じる山道 付近で日本軍と交戦中で、そのため南下が遅れ、私たちの出航が間に合ったのである。

 網元の漁船は10トンの発動機船(焼玉機関)で、総勢約30人が乗船したが、焼玉音が大きいので、 断続しながら惰力で進行し、沖合い1キロくらいに出てから全速前進で南下をはじめた。

 軽快なエンジン音を響かせながら船が航行に移ったとき、私は次第に遠ざかる山々を眺め、空を見上げ た。いつの間にかもう空には雲はなく、満天にはまるでビロウドに敷き詰めたように宝石のような星群 が輝き、そのあまりの美しさに感嘆の声をあげたのだった。
 そしてなぜか精神的に余裕が出て、級友たちのことを思いだしていた。

 見渡すかぎり私たちの船だけが順調に南下しており、山中で嘔吐した私はようやく空腹を覚え、母に
 おにぎりを所望した。そしてやがて満腹になった私は、疲れから寝入ってしまった。
 
 *史実ではこの頃、ソ連海軍の軍艦、輸送船、舟艇が真岡港に向かって航行中だった。
 真岡港は、私たちの漁船が航行している進路に位置する西海岸の港で、8月20日ソ連軍が艦砲射撃を
 加え、上陸し、日本軍と激戦が行なわれた場所で、多数の日本人が死傷した。
 
 〇写真は鵜城、幌千の家畜牧場

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 11日頃から連日ソ連軍の攻撃を受けていた恵須取は、炭鉱、製紙産業の中心地であるほかに、行政上は
 支庁所在地でもあり、戦略的にも恵須取から東海岸に通じる唯一の内恵山道が走る要点で、樺太師団で も重要地域として注目されていた場所だったが、軍の対米戦重視の方針から適正な兵力の配置が出来な かったところだった。
 ソ連軍の侵攻で急遽編成、配備されたのは、恵須取北西部20キロの太平炭鉱(塔路)に1個中隊と恵 須取港には、特設警備中隊、航空情報監視隊の一部、憲兵分隊、〇恵須取防空監視隊、●女子義勇戦闘 隊などの雑多な戦力だった。
 〇は約80名の17歳から23歳までの志願女子からなり、●女子義勇戦闘隊も同じく約80名の志願 者からなり、糧食運搬や傷病者の救護に当たっていた。
 8月20日、真岡港に上陸し、銃を乱射しながら迫り来るソ連兵を窓外に見つめながら最後まで日本に
 戦況を打電しながら服毒自決した9人の乙女(電話交換手)たちと変らぬ愛国心、同胞愛をもって祖国 のために殉職、挺身した乙女たちの実像を私たち日本人は決して忘れてはならない。
  
 話を前回に戻すが、玄関に出て行った母は、4斗缶に白米がびっしり詰められているのを発見する。
 置いていったのは父に面会を求め別室で短時間話した後、逃げるようにして去っていった村の代表
 と称する2人だった。

 父が私たちに話した青年の話はこうだった。
 「退院おめでとうございます。突然ですが私たちは全員東海岸に山越えして避難する計画です。
 ソ連軍が近くまで侵攻し、まもなく鵜城にも迫ってきます。
 ソ連軍の凶暴な噂は聞いていますが、病人に危害は加えないと思います。校長先生の退院直後の山越え は体力的にも到底無理で、途中不慮の事態が起こっても全員の安全のためには無視せざるを得ません。 悪しからずどうぞご無事でいずれ日本への帰国をお祈りしています」

 父は村人と一緒に「山越え」に参加する意思を伝えたのだが、頑強に「無理だ」と拒否されたとい   う。そして父はこう云った。
 「きっとこのどさくさで完治しない状態で退院してきたのだと疑っているのだよ」と。
 
 この村では10年ほど前に児童が肺病(結核)で十数人死亡した事実があり、その児童の亡霊が冬の月 夜の晩に教室で踊りまわり、それを見た新任の教師は幾人も転勤している。この転勤も事実だが、原因 が亡霊のせいかどうかは不明。
 たしかにこのことからも村人の伝染病への恐れは私たちの想像以上だった。
 腸チフスも伝染病だし、治らない状態で退院されて村人にうつされては大変と疑われた結果、2人の代 表を立てて別行動を取るようにお別れの挨拶に来たのだった。
 子供の私でもこのことは大きなショックだった。退院直後の父を抱え、私たち一家はこれからどうすれ ばよいのかと。
 
 よくしたもので諺どおり「拾う神あり」で、翌日、漁村から網元が突然来訪した。
 (ソ連軍が恵須取に迫り、毎日砲声や爆音が聞こえるが、どうやら日本軍も反撃しているようなので、
 交戦中らしい。漁村は半数以上がもう船で避難(南下)し、我々もそうしようと考えている。
 決死の脱出行になるが、参加しませんか? )誘いだった。
 この網元の息子はいま島都の中学生だが、以前、入試準備では父が特訓したことがあり、そのおかげで
 合格できたのだと恩義を感じていて、いつも新鮮な魚介類を届けてくれる律儀な漁民だった。
 
 そして確約しなかった父に、出航の日時を告げ、「必ず来てください。お待ちしていますから」と帰っ て行った。(続く)

 *写真は恵須取港と鵜城港


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