近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

樺太千島の史実

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 ソ連軍の空海からの恵須取、塔路地区への攻撃は、11日以降ずっと続いていたが、その間、塔路への
 ソ連軍の上陸作戦は、塔路を守備していた義勇隊、警防隊の奮戦や恵須取の砲兵陣地からの支援反撃で
 ソ連軍を撤退させることに成功した。
 後日戦史によると、少数の正規軍(日本軍)がいてその指揮官が指揮したとはいえ、義勇隊、警防隊で 編成された塔路防衛の非正規軍部隊が、(ソ連)正規軍との戦闘で敵を撤退させた例はないという。
 その報復のためか後刻停戦交渉で軍使の白旗を挙げてソ連軍陣地に赴いた義勇隊長の塔路町長は同行し た警防隊長ほか6名とともに全員射殺されていた。
 幾度も繰り返すが、ソ連軍は囚人部隊の噂高く、素質は劣悪で、軍規などないがごとく、将校自らが
 部隊を指揮して日本人から略奪をほしいままにして、民間人に対する配慮などはまったくなく、反抗す ればためらいもなく射殺したのがソ連軍の実態だった。
 恵須取港にソ連海軍が上陸したときには、日本軍は無事、町民全員を上恵須取に移動させ、新たな配置 についている。
 
 8月15日正午から重大放送があるということで、村人たちは鵜城町役場に出かけていったが、北方の恵 須取方面からの砲声は途絶えたわけではなかった。そして日本が戦争をやめたことを知る。
 このように8月15日の時点では、まだソ連軍は鵜城に侵攻してはおらず、砲艦が漁村に艦砲射撃を1度浴 びせ、戦闘機が偵察飛行を続けていただけだった。

 そして翌日の16日、数人の級友と友人の父が経営する牧場に行き、そこで飛来した2機のソ連戦闘機の
 執拗な機銃掃射をうけ、生まれて初めて極限の精神状態を体験した。

 この時期、わたしは教師の家に預けられていた。いつからだったかははっきりとは覚えていない。
 国民(小学校)学校長だった父は腸チフスにかかり、鵜城の病院に入院し、母が付き添いで行ってい  た。それから退院してきた日も覚えていないが、いずれにせよ16日以降の数日以内だったはずだ。

 久し振りで父母の顔を見たはずだが、正直いってそれほど嬉しさは感じていなかった。
 父は当時の家長そのもので、非を叱責されたり、学校で級長の連帯責任で激しいビンタを食らったこ  となどははっきり覚えていても、なごやかで温和な団欒生活などは体験していなかったので、畏敬の念
 だけで愛情は感じていなかった。父は性格的に純な人だっただけに私を将来陸士か海兵に入れて、軍人 にしようとしていたことは確かなので、厳しく育てようとしたのだと思う。
 そのように考えると父の私への言動はすべて理解できるのだ。

 父母が村へ戻り、私もやっと先生の家から自宅へ帰り、ほっとしていた夜、村の代表だと名乗る2人の
 村民が我が家を訪ねてきた。父は彼らを別室に通し、話をしていたが、やがて2人は母に幾度も頭を下 げながら、逃げるようにして立ち去った。

 そして玄関まで彼らを送ろうとした母が目にしたのは、戸口の脇に置いてある4斗缶だった。(続く)
 
 *写真は鵜城漁村と浜幌千漁村
 

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 8月13日以降、ソ連軍砲艦1隻が鵜城漁村に砲撃を加え、その命中度は正確だったが、ほとんどが
 不発弾だったことは前述したが、その後、ソ連統治になってから、漁村の級友に会った時、このときの 話が出た。

 砲艦が沖合いに姿をみせたとき、漁民たちは砲撃を予測していち早く近くの岡に避難したという。
 だから砲撃が開始されたときには漁村は無人で、多くの家に砲弾が命中しても、死傷者は皆無だった。

 砲艦が去ってからも漁民たちは家に戻らず、海辺で色々と細かな相談をしたという。
 そして、この砲弾は不発弾ではなく、強固な鉄鉱やコンクリートの防壁を破壊するための特殊砲弾で、 日本軍の陣地が砂浜の地下に設営されていないかをこの砲弾で試したのではないか、あるいは時限爆弾 の一種で、数時間してから爆発するのではないかなどの意見もでて、一定の時間が経ってから自宅に戻 ったという。

 日ソ国境から樺太南端の大泊港まで通じる国道に近接する漁港だけに、いつこの国道にソ連軍が現れる かは誰も分らなかった。
 北の恵須取町は支庁所在地で、重要な港もあり、また東海岸に通じる唯一の山道がある重要な地点だけ に、日本軍が配備されているとは聞いていても、詳細は一切不明だった。

 対象はあくまで米軍だったが、わたしたち国民は防火訓練は勿論の事、竹やり訓練も1度や2度は受けて いた。だから軍人ではなくとも敵愾心は旺盛で、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して侵攻してきたソ連 軍に対しては誰もが強い憎しみの感情を抱いていた。

 わたしたち小国民も、希望者のほとんどが学校で、青年学校生徒の使う村田銃、手榴弾、軽機の操作を 習っていたので、もし銃弾や爆薬があれば、戦闘に参加することは出来たのだ。
 恵須取町には日本軍のほか、中学生や青年学校生徒で編成された義勇軍が町の防衛に当たっていた。

 そして級友はソ連戦闘機が幾度も上空に飛来したが、日本軍の狙撃を警戒してか低空では近接しなかっ たという。彼は云った。「おれたちの報国号はどこへ行ったのかな」そうなのだ。
 わたしたち小国民がボタンや金属片を寄付して作られた「報国号」はどこへいったのだろう。
 ソ連機が開戦時から我が物顔で飛び回っていたのだ。
 戦史をひもどくと、樺太戦では、ソ連機100余機対日本軍機0だったのだ。

 樺太師団参謀長・鈴木大佐が自著で述べておられる。
 「もし日本軍に1機の飛行機でもあれば、多くの犠牲者はださなかったし、国境陣地に1個師団の兵力 と装備があれば、絶対にソ連軍を侵攻阻止できた」と。

 *写真は樺太師団幹部(昭和20年8月7日撮影)と国境線の戦いで1大隊が玉砕した125連隊。
  (引用:「樺太防衛の思い出」鈴木康生著より)
 

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 ソ連軍が魚雷艇その他を使って恵須取港を詳細に偵察した13日以降だったと思うが、級友数人と
 漁村の見下ろせる山頂から、国道の流れを眺めていた。
 この日は樺太特有の濃霧も消え、沖合いの水平線まではっきりと見渡す事が出来た。
 南下する避難民の姿はなく、爆撃されている恵須取港を避け、その手前から東海岸に通じる唯一の内路 道を選び、東海岸に避難した公算が大きかった。

 級友の一人が沖合いを指差してなにか叫んだ。
 水平線に見慣れない軍艦が1隻姿を現わし、次第に近づいてくる。色々な軍艦の形は学校に掲示されて いたので、この平べったい形の船がソ連軍の砲艦らしいことが分る。
 
 家に跳んで帰り、このことを早く大人たちに知らせたい気持が強かったが、わたしたちの足はその場に 釘付けになり、砲艦の動向を見守っていた。
 しばらくして船に閃光が走り、2,3秒後に砲声が聞こえてきた。
 閃光が続き、砲声が聞こえるが、攻撃されているらしい漁村にはまったく爆発音が聞こえなかった。

 ところが少ししてから漁村から爆発音がしてきた。でもそれは閃光の数に比べて散発的だった。
 時間にすると20分ぐらいで、砲艦はそのまま北方向に姿を消した。

 私たち子供はそのまま帰宅して、漁村が砲撃を受けたことを村に知らせたが、後日漁村に行って見ると
 家の壁は砲弾の穴だらけで、砲撃は意外に正確だったのだが、どういうわけか大部分が不発弾だった。

 これが鵜城港がソ連海軍の砲撃を受けた最初の日で、飛行機による爆撃や機銃掃射は一切なく、16日
 詔勅の翌日に2機のソ連戦闘機による機銃掃射の洗礼が、村はじめてのソ連機の攻撃になる。

 この2機の戦闘機(ソ連)は、日本が前日(15日)に戦争をやめたことを知りながら、一方的に戦争を 継続し、明らかに児童とわたしたちを認識しながら、パイロットは赤ら顔に薄笑いを浮かべながら、
 ゲーム感覚でわたしたち日本児童を撃ち殺そうとしたのである。
 
 
 

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 塔路町は私たち一家が5年間暮らした町で、樺太観光絵ハガキにもなったマンモス小学校があった
 港のある炭鉱町で、わたしが入学したときにはすでに国民学校と改称され、教官室の壁には青年学校生 徒の軍事訓練用らしいサーベルの束が林立していて、異様な緊迫感がみなぎっていたのを覚えている。

 北緯50度線の日ソ国境線をソ連軍が侵攻し、常駐する日本警察隊、日本軍小規模部隊と戦闘が始まった のは8月10日だが、戦史を読むとソ連空軍は北西部海岸の恵須取、塔路、鵜城地区を戦闘機、爆撃機を
 使い、銃爆撃を行なっている。

 12日は恵須取町が爆撃による火災を起こし、住民は山間の上恵須取に避難し、日本軍中隊、義勇隊、特 設警備隊のみが残留して港を警備している。

 13日は港沖合いのソ連海軍が砲撃を行い、魚雷艇2隻とカッター1隻が恵須取港に近接し念入りに偵察  し、日本軍部隊の存在を発見したが、砲台や沿岸砲がないことも確認している。
 日本軍の戦史では、ソ連軍の上陸用舟艇を重機で猛射し、撃退した報告が記録されている。

 10日から始まったソ連空軍、海軍の恵須取港爆撃の様子や市街炎上の有様は、鵜城山村の私たちには
 まるで昨日の出来事のように覚えている。

 飛行機の爆音や銃器の発射音は空気の流れからはっきりと耳にすることが出来たし、炎上する炎は、
 稜線から赤々と燃え上がっていた。
 「恵須取がソ連軍の飛行機や艦砲射撃で攻撃を受けているようだね。それとも国境のソ連軍がもう
 南下してきたのかな」村は連日の爆音や砲声で不安が広がっていた。

 そして北から沿岸国道を避難してくる人たちをつかまえては情報の収集に努めた。
 ソ連軍はまだ現れてはいないが、ソ連戦闘機が連日避難民を狙って機銃掃射を繰り返し、多くの被害が
 出ていることと、爆撃機は日本軍の居そうな建物は破壊しているが、道路は絶対に破壊してはいない。
 それは国境方面からソ連軍が南下するためではないかなどの情報がとれていた。
 
 恵須取方面最高指揮官・吉野少佐は、第5方面軍から派遣された参謀で、恵須取町民を無事避難させた 後、8月24日、2個中隊400名を引率して、ソ連軍に投降した。
 
 

 1945年(昭和20年)8月10日、国境線を越えて侵攻してきたソ連軍と戦った日本軍の兵力と装備は、
 3個中隊弱の兵と砲四門。対するソ連軍は、第16軍の1師団と1混成旅団、1機関銃連隊、飛行機、戦 車各100、砲280門だった。

 このように兵力、物量では圧倒的な優位にたつソ連軍だったが、作戦的に思うような戦果をあげれなか ったのは、樺太師団参謀長の著書「樺太防衛の思い出」から一部引用すると、こうなる。

 1)地形、敵情が分らず、日本軍の決死の勇戦で兵力を過大視し、兵力の優勢発揮や果敢な行動に出ら   れなかった。
 2)(中略)地上、空中共に絶対優位ににありながら従来の観念の侭に、古屯の旧陣地のみを考え、万   事の基礎とした。
 そして「感想」として
 3)ソ軍の基本的兵力配当は大体至当で、兵も勇敢だった。
  と述べられている。

 たしかにソ連側戦史を調べると、日本軍を過大視し、実際には小規模な部隊しかいないにもかかわら  ず、それを2,3の中隊と戦ったような戦闘報告がしばしば見受けられる。

 樺太、千島列島で日本軍と戦ったソ連軍が、停戦協定成立後の日本軍を絶賛したのは、その軍規の厳正 さで、武器を見事なまでに手入れして目録をつけてソ連軍に引き渡した日本軍指揮官の毅然とした態度
 だったという。指揮官曰く「日本軍はソ連軍に降伏したのではなく、天皇のご命令で引き渡すのだ」  と。


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