近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

樺太千島の史実

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 1945年(昭和20年)5月7日、日本の盟邦ドイツは連合国に無条件降伏した。
 翌日の5月8日、米国のルーズベルト大統領は、日本に対して無条件降伏を勧告し、日本は拒否した。

 日本は、大本営の「本土決戦準備」と並行して、ソ連を仲介とする「米英連合国側との和平交渉方針」 を決定し、ソ連側に積極的に働きかけたが、ソ連側の返答は得られぬままに時は経過した。

 ソ連はすでにヤルタ協定の密約で米英との間で、樺太、千島列島等をソ連領土とすることに同意を得て 日本に宣戦することを約束していた。
 「日ソ不可侵条約」はまだ1年、有効期限は残っていたが、8月9日、米軍が長崎に原爆を投下した日、
 日本に対し宣戦布告し、一方的に「日ソ不可侵条約」・国際条約を破棄した。

 日本は8月15日、ポツダム宣言を受諾し、連合国もこの日から戦闘を停止したが、樺太のソ連軍は武力 による侵攻をやめず、停戦交渉に向かう日本軍使を3度にわたり射殺し、そのため日本軍は軍司令部の
 許可を受け、自衛戦争を継続することになる。
 この戦闘は8月22日の停戦交渉成立時まで続き、(実際には25日にも日本軍使が射殺されている)
 千島列島や北方四島のソ連軍による占領は、いずれも8月16日以降9月上旬に行われたのである。

 しかもスターリンは、ヤルタ密約にもなかった北海道北半部の占領を米ルーズベルトに提言し、
 拒否されると、米軍占領管轄になっていた北海道に米軍がいないのを幸いに、北方四島を占領し、
 実効支配の既成事実を作ってしまった。
 
 樺太防衛の日本軍は、第5方面軍傘下の第88師団で、千島列島の守備は第91師団が担当していた。
 両師団とも中央支援がないなかで、奮闘、善戦し、ソ連軍に多大の損害を与えた。
 ソ連軍は極東ソ連軍総司令部が指揮し、樺太の攻略は、第255混成飛行師団(106機)と海軍
 北太平洋艦隊が協同して、樺太を8月25日までに占領するよう命令を出していた。
 両軍の兵力、装備を比較するなら、ソ連軍は飛行機100、戦車95に対して日本軍は0。
 砲、迫激砲は100対1、その他は平均4倍という大差だった。
 戦死した樺太、千島列島の日本軍将兵に合掌。

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 ソ連の悪童を日本人学校の教師が柔道の巴投げで2,3メートルも投げ飛ばした話は村中に翌日には広 まり、日本人たちの反響は大きかった。先生の勇気ある行動を賞賛する声は多かったが、反面、ソ連の
 父兄たちの報復を心配する村人もたくさんいた。
 
 ソ連兵は1945年10月以降、赤軍(戦闘部隊)から沿岸警備隊に交代はしたが、沿岸警備隊の任務の中に 政治警察的な役割があるらしく、村には素性の不明なソ連人もかなりいた。
 ソ連統治の樺太には、保安警察の役割の沿岸警備隊や民政署のほかに、ゲーペーウの名称でソ連人も
 恐れる秘密警察がどこかに必ずいるといわれていた。
 そしてソホーズ(集団農場)が設立され、日ソ両国民の学校も開設されたこの村にはどんなソ連人が
 入り込んでいるかは誰もしらないのだ。

 ソ連軍やソ連人に反抗した日本人が樺太各地で行方不明になったケースはきわめて多く、敗戦国民の
 日本人はよほど慎重な言動をとらないといつ事件に巻き込まれるかわからなかった。

 反面、ソホーズで働く日本人の働き振りと能力は次第に認められつつあり、その仕事振りを評価され  て、ナチャーニクという名称の職場単位責任者に任命される日本青年もでていた。
 
 じゃがいも(カルトーシカ)の反当たり収獲が、目標(ノルマ)以上だと余剰分は自由市場で売買する ことができ、自分個人の収入になった。
 こういう制度の農場をソホーズと呼び、コルホーズ(国営農場)と区別していた。
 それからノルマという言葉も元々ロシア語なのだ。
 
 多分日本人学校長(父)も、ソ連児童の日本人教師による体罰問題が、ソ連父兄の抗議で大きくなるこ とも予想して対策は考えていたはずだが、まったく反応はなかった。
 ほかの項目でも述べたことがあったが、当時のソ連は5ヵ年計画を推進中で、教育は最重点項目で、
 そのためか教師の社会的地位は医師や文官より高く、父兄が学校の方針や出来事に対し、苦情などいえ ない雰囲気があったのではないかと思う。シベリア方面から入ってきたソホーズ労働者は、帝政ロシア
 貴族の末裔という噂があったが、もしそうだったとしたらソ連の仇敵で、囚人のような存在だったのか
 という疑問もふと起きた。
 それにしてもソ連人学校長が、日本人教師のソ連児童への体罰指導を承諾するなどはきわめて珍しい
 ことであった。(続く)

  

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 1946年(昭和21年)夏、ソ連初中等学校(10年制)と附属日本人学校が開校されたとき、ソ連人生徒の 数は20名前後で、大部分が村のソホーズ(集団農場)で働くソ連人労働者の子弟だった。
 
 校庭の国旗掲揚台はそのままソ連児童が使用するところとなり、朝夕にソ連国旗の掲揚と降下が行なわ れる事になる。日本国旗はソ連軍が樺太を占領した時点から掲揚禁止で、事実上の廃棄同然となる。
 
 毎朝、ソ連児童によって行なわれる国旗敬礼を眺めるたびに、わが祖国・日本は戦いに敗れ、アメリカ 軍の占領下で同胞は奴隷のような暮らしをしているのだろう、と残念に思った。
 そしてもう国家としての日本は存在せず、もし日本に帰ってもわれわれは一生奴隷生活をしていくのだ ろうか?
 
 「樺太は我々日本軍がしっかりと守るから、君たち小国民は安心して勉強に励みなさい」そう云って
 立派な敬礼をしてくれた日本軍将校の記憶もまるで夢のようだった。
 彼らソ連児童は週に1度、軍歌のように勇ましく勝ち誇った歌を聞こえよがしに歌っていた。
 そんな彼らを見るにつけ、グーと敗戦国民の屈辱がこみ上げてきて、「畜生!マンドリン(自動小銃) がいまここにあれば、皆殺しにしてやるのだが・・・」という激情に駆られた。

 日本時代は、校舎の廊下は冬でも児童が雑巾できれいに拭いていたが、ソ連になって校舎の清掃は
 日本児童も禁止され、ソ連人の専門の労働者が行なうようになる。

 日本児童は校内では運動靴をはき、外靴とは別にしていたが、ソ連人は習慣から土足で校内を歩き、
 日本人職員もそれに異論はなかったが、校内を汚さないように泥はぬぐうようソ連側と協議し、納得を 得ていた。

 ところが新しく入校してきた10年生と以前からいる9年生が結託して、日ソ教職員に対して反抗的な
 態度をとり、とりわけ日本人児童を敗戦国民として露骨に争いを挑戦するソ連児童が増えた。
 
 校長(父)は部下の教師の訴えをソ連人校長に報告し、「反抗し、教師の注意や指導を無視するソ連児 童に対しては、実力行使(体罰)をしてよい」という許可をとった。
 
 そしてまもなくその日がやってきたのだ。
 廊下の窓が乱暴に開けられ、そこから泥靴のソ連児童2人が入ろうとして、たまたま廊下を歩いてきた
 日本人教師に見つかった。
 日本人教師は廊下に降り立った一人に、ゼスチャーで「窓から出て行け。玄関から入れ」と指差すが
 傲慢な笑みを浮かべたその児童は、両手をボクシングの構えで先生に向かって攻撃をかけた。
 背丈は2人とも先生より高く、他の一人も廊下に降り立った所だった。

 (まずいな)わたしがそう思ったとき、先生の体がソ連児童の身体に突進し、ソ連児童の身体は
 「アツ」というまもなく、宙をとび、2,3メートル先の床に叩きつけられていた。
 一瞬の出来事で、わたしには神業のように思えた。
 いつのまにか両国の児童が廊下を埋めていたが、ソ連児童の中から感嘆に似た「ジュードー」という声 が聞こえた。鮮やかな巴投げだった。先生は余裕のある構えでソ連児童の出方を待ったが、真っ青な顔 色の児童にはもう反抗の意思などなく、呆然と立ち尽くすもう一人の児童になにか小声でささやくと、
 急いで窓から出て行った。
 わたしも他の日に体験したことだが、ソ連人は一度なにかの技で負けると、もう2度と挑戦してくるこ とはなかった。精神力が当時の日本人より数段かよわかったのである。

 この先生は、日本敗戦の前年(1944年)、6ヶ月間の下士官候補生特訓を受けた予備役砲兵伍長で
 柔道、剣道の高段者だった。
 1945年春の青年学校の軍事教練では、普段温厚なこの教師が、全員に往復 ビンタを加えているところ を見たわたしは、日本の戦況の思わしくない事を察したものである。
 
 翌日、日本人学校長(父)はソ連人校長にこの顛末を報告し、「よくやってくれました。これからはき っとおとなしくなるでしょう」と感謝されたのだった。ソ連人女性校長も手を焼く札付きのソ連悪童だ ったのだ。
 このことがあってから、ソ連児童の日本人教師や児童に対する挑戦的態度は嘘のようになくなったので ある。(続く)
 
 *写真は塔路小学校(樺太観光絵葉書にもなったマンモス校ー直線廊下300メートル)

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 学校が開設された頃のソ連児童の数は日本人児童にくらべ三分の一くらいだったので全体におとなし  く、日本児童が希望すれば喜んで自分たちの教室に案内し、文房具なども見せてくれて友好的な雰囲気 もあった。
 わたしの印象にあるのは、ソ連児童の使用するノート(テトラージ)が日本のノートの半分以下の薄さ
 で、その薄いノートにとてもていねいに、きれいなロシア文字で習った事柄が大切に記入されていたこ とだ。
 それと驚いたのは彼らの鉛筆(カランダーシュ)は、なめると青いインクに変化してノートに印字され ることだった。ソ連児童の唇のまわりや歯に時折青いものがついている謎がこれで解けたのだ。

 そして彼らの鉛筆の削りかたは、左手の鉛筆の先を内側に向けて右手のナイフも内側に向けて、手前に
 引きながら削るのだ。のこぎりも同じで、2人用ののこぎりがほとんどだが、刃は外側に向いていて
 日本ののこぎりのように刃は引くのではなく、押して切るように設計されている。
 これでわかるようにソ連人は引くより押すほうが得意なのだ。

 ソ連児童と親善格闘技大会を両国先生立会いのもとに行なった事があったが、わたしが直接体験して
 知ったことは、ソ連児童はボクシングのように押す力はすごく強力だが、引く力や腰、足の力がとても
 弱いことだった。
 柔道、相撲などで使われる基礎的な足技、腰技でさえまったく知らず、パンチさえかわして相手に飛び 込み、腰を強くしぼるとあっけないほどに悲鳴をあげ、足技では大外がりや内股が面白いほどにかか  り、長身のソ連児童を投げ飛ばす快感を味わった。

 そのかわり相手のパンチをまともに顔面に食らうと2,3メートルは張り飛ばされた。
 でも不思議なもので、短時間でそれをかわす技を会得し、いつも日本児童が優位に立つことが多かっ  た。
 
 いま振り返ると日本児童の多くはみなソ連機の攻撃を受け、幾度も死地を体験し、精神面でも強くなっ ていた。ソ連軍やソ連人に対しての憎しみも決して消えてはいなかった。
 
 こんな親善競技でも日本児童の多くは、内心(このロスケめ、みていやがれ!)という憎しみをもって
 のぞんだから勝ったのだと確信している。

 ほかの日に行なわれた親善の交流では、わたしはソ連児童に「日露戦争」の替え歌を教えた。
 ソ連児童からのお返しの歌は「カチューシャ」の原語で、いまでも覚えているが、わたしが教えたのが
 もしソ連当局の耳に入ったなら「日本人校長の息子がソ連児童にソ連国家を侮辱する内容の歌を教え  た」ということで「大問題になるぞ」という日本青年の忠告から慌てて他の歌に取り替えたいきさつも
 あった。

 当時のスターリン政権では政治関連の事柄は厳しく取り締まられており、たしかに悪げはない にして もわたしの言動は槍玉に挙げられても仕方ないものだった。
 下手をするとソ連国家への反逆罪で、わたしたち一家はシベリア送りになっていたかもしれない。
 
 日露戦争」の替え歌の歌詞は次のような内容だった。
 「にっぽん勝った、にっぽん勝った、ロシア負けたア、ロシアの軍艦、底ぬけたア」
 ソ連児童は大きな声で懸命に歌い、わたしは溜飲を下げていた。
 内容は「日露戦争で日本軍、ロシア軍ともよく戦ったことを賛美した歌だ」と説明していた。(続く)

 *写真は日ソ国境線にあるソ連側標識

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 村にソホーズ(集団農場)ができ、そこで働くソ連人労働者がシベリア方面から続々と移入し、
 首都モスクワ近郊からは初中等学校教師志望の若いソ連人女性が来訪したり、村の民生署勤務になるソ 連人が下見に来たりと、雪解けの村にはたくさんのソ連人が来訪した。

 学校は新任のソ連人女性校長と日本人学校長の父が協議して、詳細が固まった。
 職員室の内部は仕切られる事なしに、ソ連人学校と日本人学校が同居することになり、ソ連人学校長も
 異議はなかった。
 日本人学校は戦前同様に漁村の子弟も通学することになったので、人数は多く2つの教室を使用したの に対し、ソ連人学校の児童は1年生から10年生まで合わせても20人足らずで、1教室でも広すぎるくら い。屋内運動場がひとつであることから、日本人児童とソ連人児童の休憩時間に差を設けた。

 ソ連児童の7年生から9年生は日本の新制中学生にあたり、10年生は高校1年に相当したが、はじめは
 数の上で圧倒的に日本児童が優位だったせいで、ソ連児童はとてもおとなしく、静かだった。

 でもそれが2年も経つと、日本に帰国する日本人が増え、ソ連人労働者の入村人口が増えてくると
 児童の数は圧倒的にソ連人が増え、3対1に逆転した。
 
 するとどうだろう。それまで猫をかぶったようにおとなしかったソ連児童ががらりと豹変し、とくに8 年生から10年生の高学年生が敵意を剥き出しにして日本児童に難癖を突きつけてきたり、日本人教師
 に対しても挑発するようになる。それまで日本児童はソ連児童に対してきわめて友好的で、協力的で
 しかも親切で、恨みを受けるような仕打ちはまったくしてはいなかった。

 日本児童は教師に相談し、教師は校長(父)に上申した。
 父はありのままをソ連人校長に報告すると、ソ連人校長も薄々は気づいていたらしく、やはり同じよう な問題でてこづっているらしく、日本人教師が今後そのような現場を目撃したら、注意を与え、もし反 抗するようなら「実力行使をしても良い」という承認を得たのだった。
 そしてまもなくそのときがきたのである。(続く)
 
 *写真2枚は、平成5年ごろにポレチイエ村を撮影してきたもの。
 


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