近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

樺太千島の史実

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 1946年(昭和21年)春頃は、鵜城(オルロボ)から一山越えて山際の盆地にあったわたしたちの村(ポ リチイエ)には恵須取(ウグレゴルスク)支庁から多くのソ連人民政官が出入りした。
 前述したように日本時代と同様にソ連支庁も同じ場所に設置されたので、地理的にも日本人には行き慣 れた場所だった。距離的には村から30キロ弱で、戦争中はソ連軍の砲撃で炎上した港だったが、日本軍 の猛反撃でソ連軍の上陸を阻止した戦場でもあった。

 村を訪れたソ連人は、ソホーズ農場設立関係、民政署設立関係、ソ連人学校、日本人学校設立関係と
 大きく分けて3種類の行政官たちだったが、父は通訳を兼ね日本人折衝関連の仕事もしていたので、
 それに日本人学校校長の役割も増えて、交渉、打ち合わせ、接待など大童となった。
 
 役人のなかには2,3日間の日本人との業務打ち合わせ等が必要な人たちもいて、毎日行き来するのが大 変なことから、父が家の1室を宿舎として提供し、食事も母が作ってサービスしたことが縁で、家族同 様の親しい付き合いがはじまった民政局長もいた。
 彼はソ連人としては珍しいくらい紳士的な人物で、あるとき宴会で飲みすぎて就寝中に反吐を吐いたの を自分の下着とワイシャツでそっとかき集めて捨て、それを自分で洗って着ていこうとして、母が発見 してちょうど体格が似ていた父の下着とワイシャツで間に合い、とても喜び、それを着て帰ったのだ  が、次回来訪したときには、借りた衣類のほかにお礼の品をたくさん持参して母に渡していた。
 
 それから3年後、父が帰国日本人から不法に名馬を取り上げ様としたソホーズ農場長を、民政署ソ連人 秘書と連名で告訴したときも、もし求めたなら父の有力な相談相手になってくれる人だった。
 でも父は相談はしていなかった。この告訴事件で父や私たち母子は最悪、死を覚悟した。
 
 なにぶん激しい気性の父だったので、ソ連軍やソ連人とのいさかいはけっこうあったのだが、反面
 その社交性と誠実さから、軍や民政局高官で父に敬意を持っている人も多かった。
 でも私たち母子は、祖国日本の土を踏むまでは正直いって生きている気がしないことがあまりにも多か った。
 
 日本人が抑留された樺太(サハリン)各地では、ソ連軍もしくはソ連人に反抗し、もしくは誤解されて
 射殺され、あるいはどこかへ連行され、行方不明になった日本人は数え切れないくらい多いのだ。
 わたしたちはスターリンの秘密警察(ゲーペーウ)体制、「鉄のカーテン」の内側に抑留されていて、
 完全に外部からは遮断され、隔離されていたのだ。(終わり)

樺太の戦争

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1) 樺太は「元来国境のみを守り、有事は*第7師団の北海道からの来援を待つ」を防衛の根本とし    た。
   が昭和20年春「南部重点の対米専念、全樺太自力防衛」と変わり、*条約を信頼していたのに8月   「北からの侵攻」だ。    (中略) 
   資源豊かに価値莫大な土地は失われ営々辛幾十年にして成した財を、空しくさせてしまった。誠に   痛恨の極みである。

  (higuma786注釈)
   *第7師団・・・(北海道・旭川に駐屯) 
   *条 約・・・(日ソ不可侵条約)
 
 

2) 昭和61年4月16日、千鳥ケ淵戦没者墓苑において三笠宮・同妃両殿下御台臨の下、慰霊祭が執行さ   れました。
   樺太関係 死者は次の通り
   戦死軍人・・・709名
   軍  属・・・206名
   緊急引き揚げ三船殉難者・・・1,708名
   官民殉難者(含樺太、シベリアなどの死者)・・・5,630名
   函館引揚げ直後の死者・・・1,079名
               合 計9,332名



  上記1)2)と写真も含め、元樺太師団(第88師団)参謀長 鈴木康生大佐の著書「樺太防衛の思  い出」より引用掲載。

 樺太西海岸の雪解け頃(晩春)はいつもの事ながら大変に慌しい。
 海から一山越えて奥地に入ったわたしたちの村にも海鳴りの音ははっきりと聞こえてくる。
 「バリバリ、バリツ」海鳴りとは、海を覆っていた氷がさけて割れる音である。
 割れた氷はゆっくりと沖合いに移動をはじめると、やがて真っ青な海面が姿をあらわす。
 すると漁村の若者たちは待ちかねたように見張り台にのぼり、ニシンの大群を探す。
 漁村の年収をたった2月(ふたつき)で稼ぎ出す宝の山・ニシン大群の到来である。
 漁村周辺の町村は、学校も休校にして全員漁村の応援だ。全国からやん衆も殺到する。

 だが敗戦翌年1946年の樺太の様相はすべてが変わった。
 ソ連軍が駐屯し、ソ連各地から文官や移民が送られてきて、ソ連の民政に移行しつつあった。
 漁村はソ連の「漁協(ルイバ・コンビナート)」の傘下に入ることになったが、規模が小さいため
 本部から指導者がきて、いままでの日本式やり方を踏襲するということになった。
 そして日本人漁民の帰国後は漁村はなくなったという。

 わたしたちの村もソホーズ(集団農場)が作られるということで、海岸の国道から村に至る山道は
 幾台もの建設機械が襲来?し、一気に道路の巾員か拡張され、農場の計画図面が掲示された。
 
 夏頃には、ソ連人文官や農場労働者用の国営市場やソ連人初中等学校(10年制)ができ、そのときに
 日本人子弟のための「日本人学校」が附属校として設立され、父や学校教職員たちはソ連教育庁の監督 下でソ連から俸給を受け、再び教職員として働く事になる。

 国営市場は日本人も利用する事ができたが商品の種類は少なく、食料品や衣類に限定されたが、そのう ち商品の種類も増えていった。
 日本人に人気のあったのは、フエルトを圧縮した防寒靴(ワーレンキ)だった。
 日本時代はゴム長靴しかなく、寒い日などはいくらストーブで温めてから履いてもすぐに冷えてきた  が、ワーレンキだと基が毛皮だから軽い上に保温の効果があり、重宝したものだ。
 なにぶんサイズは大きかったが、大きい分にはソ連人式にぼろ切れを足に巻きつければ温かく、一石二 鳥だった。

 米やもち米が国営市場で売り出された時、もっとも喜んだのは餅好きの父母だった。
 噂によれば樺太師団が備蓄していた戦闘用食糧だったが、敗戦後ソ連軍高級将校が利権を獲得し
 横流ししているらしい怪しい商品とのこと。
 嬉しいことにソ連人はほとんど興味は持たず、そのためもち米はさらに安価だったので、日本人が
 全部買い占めた。そして品切れになるとまたすぐに補充された。

 どこの家でも餅つきの臼や杵、蒸篭など一式はそろっていて、この予期せぬ放出物に日本人は大喜び
 した。戦争に負け、抑留の身になってから、米やもち米がふんだんに入手できるなどとは考えてもいな かった。
 我が家などは翌年の秋によもぎを大量にとり、蓬餅にして砂糖醤油で思う存分に食べたものだ。

 ここで樺太人による樺太詩をご披露する。
 引用文献:樺太歳時記(国書刊行会)

 此の月をソ領の月と仰ぎけり  石塚 遅牛

 雪はまだ降りつづき居り桜餅  丹野 郷仙

 鰊漬の凍りし樽を叩きけり   沢 朔風 

 夜は夜でけんちん汁や冬篭り  佐藤 虎尾草

                       以上


 

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 1945年(昭和20年)9月下旬頃、ソ連沿岸警備隊によって樺太全土から集積された大量のじゃがいもは 色々な噂のなかでいずこかへ運び去られた。
 やがて初雪が降り、それはいつものようにすぐに根雪になり、長い冬の到来となる。
 
 ソ連軍によって村からじゃがいもがひんぱんに運び出されている頃、村人たちは越冬用の食糧確保で大 童だった。大根、白菜、かぶなどの塩漬け作りや今の時期のみ河を遡上する鮭の収獲である。
 鮭は夏期にとれる鱒にくらべて利用価値が大きく、流通のきく手ごろな財産だった。
 日本時代も監視人はいたが、鮭、鱒は隠語で「マルタ」と呼ばれ、村人の密かな内職だった。
 
 いま日本は戦いに破れ、樺太はソ連に占領され、日本本土は米軍の占領下にあるという。
 一寸先はまさに闇だった。
 8月15日(終戦日)を過ぎてもソ連軍が攻撃を止めないのは、米国その他連合国がソ連と「日本人撲  滅」の密約を結び、根絶やしにしようとしているのではないかという噂も一時流れたが、楽観はできな かった。

 自分たちの食糧は自分で確保しなければ誰も助けてはくれない。
 日本は負け、体制が崩壊し、漁獲の監視人はもういなかった。

 さいわい鮭の遡上は夕暮れからが多く、何の気がねもなしに大網を持ち込み集中できたので大漁で、み なに豊富に分配できたという。

 春先のにしん漁は毎年大漁なので、アルバイト料のモッコ2,3杯分のにしんは、越冬用の身欠きにし んや松前漬けに加工してあり、米穀類や補助食(じゃがいも、小麦粉)などもそろっていたので、心配 なのは我々日本人の将来、運命だけだった。
 
 そして1946年10月中旬頃、ソ連民政局は「日本人帰国の通達」を発表し、12月5日から13日にかけて
 第1次引揚げ者5702人が4隻の引揚げ船で北海道・函館港に帰国したのだった。
 この発表で我々日本人もいずれ日本に帰国できる希望が沸いたが、それがいつになるのかはいぜんとし てわからないままだった。

 冬の村にも入れ替わり立ち代り多くのソ連人が姿を現わしたが、いつのまにか父はロシア人との通訳か 折衝係として役場に呼ばれるようになり、翌年村役場がソ連民政署に吸収されてからは、日本人通訳兼 顧問として席を置くことになる。

 恵須取(えすとる)町は、日本時代も支庁の所在地で、周辺には炭鉱や製紙などの産業もある西海岸の 重要な港町で、人口は4万人を超える北西部の要所だったが、ソ連統治下でもソ連支庁の所在地とな  り、民政署の上級官庁の民政局の所在地でもあった。
 
 民政署は市町村役場の機能をもつ官庁だったが、同時に警察権ももつ権力機構でもあった。

 日本時代は防衛上の要地でもあったので、港湾防衛の特設警備中隊や学徒義勇戦闘隊などがいて、
 8月11日から16日にかけてソ連軍の空爆があり、その後、上陸部隊が上陸を企図したが、日本軍の反撃 で撤退し、その間に全町民は避難し、日本軍は移動した。

 この6日間の空爆で恵須取町は炎上し、日夜空爆や砲声がわたしたちの村にも聞こえていた。
 そして日没後は山の稜線を真っ赤な炎が染めていた。
 その頃、わたしたちは「恵須取が燃えているよ」とそれを見ながら、船での脱走の準備を始めていた。
 恵須取町には当時、樺太最大といわれた400人を収容できる大防空壕が完成しており、多くの町民が
 利用したはずだ。

 *写真は支庁所在地「恵須取町(ウグレゴルスク)」
 

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 1945年(昭和20年)9月下旬頃、樺太各地に駐屯していたソ連軍(赤軍・戦闘部隊で軍帽や肩章に 赤や赤筋が入っていた)は本国へ帰国し、替わって沿岸警備隊(軍帽や肩章が薄緑)が現れた。

 彼らの主な任務は、ジャガイモ(カルトーシカ)の輸送だった。
 わたしたちの村でも、畑の要所要所にジャガイモを集積しておくよう通達があり、ある日、幾台ものソ 連軍用トラックが入村し、手際よく荷台にジャガイモを積み込み、やがて去っていった。
 説明によると日本軍捕虜用の食糧だというが、実際には窮乏したソ連国民のためにソ連本土へ送られた という説もあった。
 そして彼ら沿岸警備隊は日本から占領した「ソビエット連邦サハリン州」に新たな民政を築こうとして いた。この沿岸警備隊はKGB(国家保安警察)の役割ももっていた。

 旧日本の町役場や村役場そして学校などにソ連軍将校や背広姿のソ連人民政官がひんぱんに姿を現わす ようになる。日本語を話せるソ連人が次第に増えていく。
 
*国際法(ジュネーブ条約)で「捕虜」とは、交戦国同士が正式に認めた戦闘中に相手国に捕らえられ  た将兵をいい、人道上その階級により保護されるものだが、ソ連軍は日本が終戦(8月15日)を宣言し た後も一方的に攻撃をやめず、停戦協定のあとに捕らえた日本軍将兵(中国大陸の日本軍も同様)を捕 虜扱いし、シベリアなどの極寒地刑務所で過酷な待遇で重労働を強いた。
 そのため7万人の日本軍将兵が病死その他で死亡した。

 
 


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