近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

樺太千島の史実

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 樺太の冬の生活で欠かせなかったのはこの3つの橇だった。
 
 地域で若干差はあるが、トナカイ橇以外はどこの地域でも重宝がられ、頻繁に使用されていた。
 わたしが暮らしていた村では、馬橇は牧場から牛乳を町に卸す交通機関として使われ、帰途は新聞その 他、村が必要とする物資の運搬に使われていて、馬に装着された多数の鈴の音は、軽快で心地よいまろ やかな響きで早朝、耳に入ってきて、時計がわりにもなっていた。

 村から町への定期便としても使用されていた。
 このほかに馬は、畑作業や材木の切り出し、運搬などでも使用された。

 犬橇は、いさば屋の魚行商(代表的な魚:カンカイ、タラ、オヒョウ、帆立貝)や八百屋でも使われて いたが、狩や交通の足として、あるいはマルタ曳きとしても広く使用されていた。

 犬は、従順な大柄で力持ちの樺太犬だったが、千島列島の作業に使用するために、多数の樺太犬が
 千島に徴収され、樺太は一時樺太犬不足になった。

 トナカイは日ソ国境周辺の限られた場所に集中して生息していて、どこででも利用できる状態ではなか った。わたしが暮らした2つの地域にもトナカイはおらず、トナカイ橇は見たことはない。
 一方、国境近くの敷香(しすか)町周辺はトナカイの生息地に近く、トナカイ王と呼ばれるヤクート族 の指導で、日本軍は重機関銃を牽引するトナカイ部隊を編成し、活躍した。

 重量のある戦車、トラック等の走行ができない国境周辺のツンドラ地帯で実現した樺太師団のトナカ  イ部隊だった。なお日ソ両軍の停戦協定成立後は、トナカイ部隊は解散され、トナカイは元に戻され  た。(終わり)
 

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 冷たい秋風が吹く9月下旬、隣町に駐屯していた本隊がソ連に帰国することになり、2人のソ連兵も
 村を離れ、本隊に戻ることになる。
 父はその前夜、村長幹部たちを自宅に呼び、2人のために送別パーテイを開いた。
 村人はこの2人のソ連兵に深く感謝していて、村長などは涙を流さんばかりに別れの挨拶をし、父が
 通訳をしてソ連兵は村長の感謝の言葉に嬉しそうだった。
 
 彼ら2人がいなかったなら、ソ連兵たちの悪行で、この村はどうなっていたかわからない。
 彼らは憲兵としての役割を完璧なまでに果たし、村の日本人の生命、財産、安全を守り通してくれた。
 
 2人のソ連兵は村人の感謝の握手攻めにあいながら、飲みなれない日本酒に酔っていたようだ。
 やがて夜中まで続いたお別れパーテイもようやく終わり、人々は帰路に着いた。

 ワーシャ曹長は、コーリャ伍長に小声でなにかささやくと、コーリャはすぐに宿舎にもどっていった。
 そして父母やわたしに「少し話したいが」と了解を求め、父は別室にワーシャ曹長を案内した。

 ワーシャ曹長はあらたまったように静かに話しだした。
 話の内容を要約すると、こうだった。

 「じつはわたしはポーランド人のソ連兵だ。そのことはコーリャ伍長はじめ誰も知らない。
  明日お別れなので尊敬する日本人校長ご家族に本心を話すことを決心した。
  あなたがた日本人はいずれ日本に帰国することになるはずだ。日本に帰ったなら、そのときは
  わたしのようなソ連兵がいたことをぜひ伝えてほしい。
  ソ連は日本領樺太を占領したが、むかしから領土をこのような方法で拡張してきた。
  わたしの国・ポーランドも1939年にドイツとソ連に分割された。色々な生き方はあるが、
  ポーランド人はみな、ソ連人を憎んでいる。このことを忘れないでほしい。
  敗戦国日本も大変だが、復興に頑張ってほしい。健康に気を付けて」

 翌朝、校庭にはたくさんの村人がソ連兵を見送るために集まっていた。
 やがて軍用トラックが姿をあらわし、ソ連兵の仲間が宿舎に入っていった。
 
 しばらくしてワーシャ曹長とコーリャ伍長が自動小銃を肩に姿を現わし、日本人の群集から拍手が起こ る。見送る父母わたしと握手をした2人は、笑顔でみなにも手をふる。
 農家の婦人には涙を流している人もいて、思わずわたしも目が曇り、必死にこらえた。

 荷台に載った2人は大きく手を振り、「ダスビダーニア(さようなら)」と繰り返し、クルマは
 動き出し、次第にスピードをあげていく。

 「ダスビダーニア、ワーシャ、コーリャ」
 わたしは心の中で何度も何度も叫びながら、消えていくクルマに手を振りつづけていた。

 9月下旬から10月は初雪の季節で、農作物の収獲はその前に行なわれるので、農家は忙しい。
 樺太各地に駐屯していたソ連軍部隊も前後して本国に帰国し、駐屯ソ連軍(赤軍・戦闘部隊)は
 沿岸警備隊と任務を交代する事になる。(終わり)
 *写真2枚は日ソ国境の境界標識等

 わたしを山に鳥撃ちにつれていき、万事の不手際さから上官のワーシャ軍曹に厳しい叱責をうけ、
 顔面蒼白になり、意気消沈して謹慎していたコーリャ伍長だったが、数日後にはいつもの明るくひょう きんなソ連青年に立ち直っていた。
 
 ここでソ連軍の階級について説明すると、欧米諸国同様に、日本陸軍の軍曹に当たる階級には1等、2 等があり、ワーシャ軍曹のすぐ上には郵便局マーク状の白帯の准尉があった。
 このことはのちにほかのソ連兵との会話でわかったことで、それならばワーシャの階級は軍曹ではなく
 曹長で、コーリャ伍長より2階級上の上官だったのだ。これからはワーシャの階級を1階級あげる。
 
 閑話休題。
 そしてコーリャ伍長はわたしを再度、鳥撃ちに誘い、ワーシャ曹長も了承したらしい。
 もう誘われる事などないだろうと思っていたわたしだったから、母に話すとしばらくしてOKがでた。
 父が承諾したのだ。あのこと以来、ワーシャと父の間でわたしの鳥撃ち同行に関して話し合いがあり、
 息子の安全に万全の手を尽くす約束で話がまとまったようなのだ。
 
 コーリャ伍長はいつものように陽気ではしゃいでいたが、上官に叱責された日のことは口に出さず、
 わたしも聞かなかった。

 いつものように枝の小鳥を狙って撃つのだが成果はなく、彼はやがて木のまばらな場所にくると、
 ポケットから白いシガーケースを取り出すと、手ごろな切り株の上に立て、わたしの場所に引き返して きた。このシガーケースは日本人の誰かから手に入れたものだとすぐにわかった。
 
 彼らソ連兵はいつもマホールカというきざみタバコを手巻きにして吸っていて、シガーケースなど必要 はないからだ。
 (わざわざこれを的にして撃つためにきたのか?)ふと思ったとき、コーリャはいきなり手にする自動 小銃・マンドリンをわたしに放り投げるようにして渡すと、「撃て!」とシガーケースを指差した。
 
 そして2,3メートル離れた草原にどかりと腰を下ろすと、ポケットからマホールカの手巻き器を出し 葉を紙に落とし、一心に巻き始めた。

 家では弾倉を外したこの銃に何度となくさわり、持ったこともあったが、いまこの銃には弾倉が装着さ れ、安全装置も外されたままで、しかも単発、連発など操作もすべて承知のわたしが所持しているの  だ。しかもコーリャ伍長はタバコを巻きながら離れた場所からわたしに「撃て、撃て」と指示してい  る。

 これが日本兵なら絶対に行なわないあまりにも危険な行為だった。わたしはつい最近まで敵国の少年で
 日本軍の銃器の操作にも精通していて、この自動小銃の操作にも詳しい。いくら親しくなったとはいえ
 慎重な者なら絶対にしない行為だ。

 ロシア民話「イワンの馬鹿」にででくる(あまりにも人のよいロシア人イワンみたいだ!)
 この民話を知っていたわたしはそう思った。
 一瞬、わたしが(彼に向けて引き金を引いたらどうなるだろう?)
 と思わなかったなら嘘になる。
 でも家族のことが頭に浮かび、憎しみのないコーリャを撃つ気持にはならなかった。
 
 タバコを巻き終わり、煙をくゆらせ、わたしを見たコーリャ伍長は、「撃て、撃て」とわたしを促す。

 わたしは白い的に銃口を向け狙いをつけるが、照準が高すぎて調整の仕方がわからない。
 でもそのまま引き金を引いた。
 「ターン」鋭く軽い発射音が響き、薬きょうが上に飛んで行くのが目に入る。
 的はそのままだった。

 「撃て、撃て、連射で撃て!」コーリャの声が聞こえる。
 単発で5,6発撃つが、当たらない。ふとコーリャの顔をみると、まるで兄貴のように指示している。
 わたしは引き金上のレバーを手前に引いて連射にし、思い切って引き金を引く。
 「タ、タ、タ、タ、タ、タ」右肩が押され、銃口が上向きになる。的を狙い、また引く。
 連射で20〜30発は撃ったが当たらず、的はそのままだった。

 コーリャの顔が笑っていた。(どうだ。なかなか当たらないだろう)そういいたげに。

 戦後の樺太(サハリン)在住者のなかで、ソ連軍のこの自動小銃の操作を知り、発射した日本人体験者 はおそらくわたしだけと確信する。 この貴重な体験もわたしの財産のひとつなのだ。
 そしてその銃の名称、仕様は下記の通り。
         記
 PPSH M1941 サブマシンガン
 口径7,62mm  71発ドラム弾倉
 通称 マンドリン

 *この自動小銃のすぐ後に開発されたのが、いまでも武器商人によって売買されているAK47銃。
                                         (続く)

 樺太各地でのソ連兵の悪行が聞こえてきても、村の治安は2人のソ連憲兵によって完全に保たれてい  た。2,3度どこからかソ連兵の数人が侵入してきたが、いずれも敏速な2人の行動で、村から追い返さ れていた。彼らソ連兵は身を賭して職務に専念していた。
 私たちや村人のソ連兵への信頼感は日増しに大きくなり、彼等は本隊から定期的に食糧物資を届けに来 る輸送兵たちに、逆に村人からプレゼントされた農作物を与えたりしていた。
 ソ連兵は人参や大根の青い根元が好物で、さっと水で洗ってからうまそうに生でむしゃむしゃと平気で
 食べた。

 ある朝、入り口で歯を磨いていたコーリャ伍長がジェスチャーで鳥撃ちの姿勢をして、時間を示し、
 自分の足元を指差した。
 (鳥撃ちに行くからこの場所に〇時、待っていろよ、いいかい?)
 わたしは即座に指で丸輪をつくり、振ってみせた。

 ソ連兵の歯みがきは、ブラシは中指で、口中の水を吐き出しながら洗う。
 はじめは両手ですくった水のなかで、顔を左右に動かしながら洗い、それから歯磨きが最後の手順だ。

 わたしは家に戻り、コーリャ伍長と鳥撃ちに行くことを母に伝え、大急ぎで身支度した。
 
 こんな日はたいていが快晴日でわたしも気持がよかった。
 でも内心、コーリャ伍長を馬鹿にしていたことがある。それはいつも射撃に夢中になるくせに、これま でも獲物に命中したことがなかったからだ。

 わたしが喜んでついていったのは、半ば伝説になっていた大鷲をみつけ、彼が射止めることができたな らという淡い夢を抱いていたのかもしれない。コーリャには大鷲の話はすでに伝えていて、彼は「どん なに大きくても、見つけたら必ず仕留めてやる」と大乗り気だった。
 
 でも大鷲は現れず、なぜかこの日は烏の声だけが騒がしく森に響いていた。そして枝の烏を狙って発射 する自動小銃の弾は当たらず、わたしはまた(いつものとおりだ)と退屈な気持になっていた。

 そのときコーリャは口に手を当て、「シー」とわたしに合図すると、川岸に低姿勢でずりよっていっ  た。彼の視線を追うと向こう岸の大木の枝に大きな烏が止まっていた。

 そおっと銃を構えたコーリャはいきなり発射した。鋭い軽音が森に響きわたると、枝から黒い影が垂直 にどさりと落ちた。わたしもたしかにそれを自分の目で捉えていた。
 小躍りしたコーリャはわたしに振り向くと、「どうだ、見ただろう、命中したよ!うまいだろう!」と
 得意げにわめき、「パイジョン、ビステリ、ダワイ、ダワイ(さあ、はやく取りに行こう)」とわたし をせかせ、もう自分は河の中をザブザブと渡りはじめた。

 たしかにあの距離(約80メートル)で烏を撃ち落したのは凄いと思ったが、いつもはもっと近くでも 当たっていなかったので(まぐれだ)と言う気持が強かったが、(そんなことをいうと本気で怒るだろ うな)と考えなが ら河に入った。流れははやく、深さも増し、危うく倒れそうになり、大声でワーシ ャを呼ぶ。

 渡り切っていたワーシャは慌てて河に戻ると、わたしの手を引き、一気に向こう岸に渡る。
 そして自分は急いで烏が落ちたあたりに探しにいった。

 いつの間にか日が落ちて、全身ずぶぬれのわたしの身体は冷えていき、やがて寒さで震え始める。
 コーリャも腰下は濡れていて、さすがに寒さに気がついて「はやく帰ろう」と帰途を急いだが、
 大きな烏を射止めた満足感で上機嫌。烏を何度もわたしに見せながら、「うまいだろう」と自慢した。

 晩夏の樺太は秋の訪れがはやく、日没も20時頃とはやくなる。
 校庭に戻ったのはその頃で、薄闇が迫っていた。
 校長宅前に人影が見え、それがわたしの父母とワーシャ軍曹だとわかったとき、コーリャ伍長は得意げ に手の大烏を振って収獲があったことを知らせた。
 だが近づくにつれ雰囲気は変だった。
 父母は固い表情で突っ立っており、ワーシャ軍曹の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。
 そしてコーリャ伍長が差し出した烏を引っ手繰るように奪いとったワーシャ軍曹は、空中に放り投げ、
 鋭い声でコーリャに早口で何事かをまくし立てた。
 それは日頃温厚なワーシャ軍曹ではなく、戦場で部下のコーリャ伍長に命令する厳格な上官の姿だっ  た。
 
 コーリャ伍長の表情は次第に青ざめ、まるで叱られた子供のようにうなだれて、父母に一礼すると
 宿舎に入っていった。

 このときわたしは瞬時に何が起こったのかを悟った。
 
 案の定、父母は帰りの遅いわたしたちを案じ、宿舎のワーシャに聞きにいっていた。
 そして父の激しい性格から、上官としてのワーシャ軍曹の責任を追及していたらしいのだ。
 ちょうどそのとき全身ずぶぬれのわたしとやはり腰から下が濡れたコーリャがのんきに姿を現わしたの で、温厚なワーシャ軍曹が切れ、コーリャ伍長を叱責したのだった。
 職務遂行中の彼らの厳しさは聞いていたが、わたしが上官としてのワーシャ軍曹と部下のコーリャ伍長 のこんな姿を見たのは初めてで、ソ連軍人の厳しさの一面を垣間見た気持になった。(続く)

 2人のソ連兵が北緯50度線の日ソ国境周辺での日ソ両軍の激戦の模様を、(大変な戦闘でお互いに
 多くの死傷者がでた。思い起こすのはいやなのでもう語りたくない)と言ったのは真意で、当時樺太師 団参謀長だった鈴木康生大佐の著書「樺太防衛の思い出」から大要を引用すると、この国境周辺の戦い で、
 「日本軍2小隊と約100名の警官は、敵第16軍の前衛大隊の攻撃を猛射を以って制圧し、更に一部 を 以って攻撃を敢行し、敵を震がいした。」
 そして
 「敵師団長の自ら指導する1連隊と、勇戦敢闘一昼夜にして遂に玉砕し、開戦頭初に偉勲を奏し、彼我
 両軍に対し異常の感銘を与えた。」

 更に国境陣地各方面の奮戦では、
 「実力1中隊の小林大隊は古屯を守って、2連隊・戦車・飛行機各数十・砲200門との二日間に亘る死  闘、玉砕は敵肝を寒からしめたものだった。」
 
 「この方面の我が死者568名、敵は1000名。その某中隊の如きは、120名中残兵は30名だった。」と語っ ている。

 国境周辺での日本軍のこの奮戦、死闘で、ソ連軍の南下侵攻の日程は大幅に遅れ、スターリンの北海道
 北半分占領計画は米大統領・ルーズベルトの反対にあい、挫折することになる。

 もし予想以上の日本軍の抵抗がなかったなら、北海道はドイツや朝鮮半島のように国土は二分され、北 方四島のようにいまでもロシアの実効支配のもとに置かれていた可能性はある。
 戦史をたどると、北海道侵攻作戦に呼応して戦闘に参加するためのソ連潜水艦10隻が、北海道留萌沖の
 海底に待機していたのであう。
 それを考えたとき、我々日本人は命を捨てて樺太の防衛に尽力してくれ、スターリンに北海道侵攻を断 念させた樺太師団の将兵に対して心から感謝の念を捧げなければならない。合掌。


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