近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

樺太千島の史実

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 2人のソ連兵が校長宅の父にロシア語を教えに来る時は、たいてい一人が宿舎にいて、交代でくること が多かったが、自動小銃を携帯してくることもあり、銃弾の装填されたドラム(円形)弾倉を必ず銃身 から引き出して、身近に置いていた。
 
 そんなとき、銃は無造作に畳の上に置いたり、壁に立てかけることもあったが、そのうちにコーリャ伍 長などは「さわっていいよ」とわたしに声をかけることもあった。

 つい最近まで青年学校生徒軍事訓練用の村田銃や軽機で任意に操作方法を覚えた小国民のわたしだった
 ので、銃器類の関心はとても強く、国境の戦闘で日本軍を悩ませたという俗称「マンドリン」のこの自 動小銃はじっくりと探ってみたかった。銃身に空冷式の穴があいたこの銃を目にしたときはとても
 不気味だった。
 
 村の青年が村長や父の説得を聞き入れず、夜中密かに校舎に忍び込み、銃剣一式を身に付け、国境の
 戦場に駆けつける途中、ソ連軍と遭遇し、銃弾もないままに全身に無数の敵弾を受けて戦死した悲劇  も、この自動小銃に関連があったのだ。
 
 人の良いコーリャ伍長は、わたしの要望するままにこの自動小銃の特徴や操作方法まで日時をかけて
 教えてくれて、そのうちにわたしは子供ながらこの銃の精通者になったが、多くの悲劇を耳にしている だけに思い起こすととても悲しく、複雑な心境になっていた。
 そしてこのわたしたちもまだ将来の運命さえわからぬままに、夢中で手探りの闇夜を歩んでいたのだ。
 
 71発の銃弾の装填の仕方から単発、連射のセットの仕方、火箸のような銃剣の出し方その他諸々を覚  えたわたしにとっては、あとは実際に射撃することだけが残された道だった。
 そしてその機会はそれほど待つこともなく、近づいていたのだ。(続く)

 *写真・・・トカレフ拳銃の下が「マンドリン」
 

 村に常駐したソ連兵2人が私たち日本人にタブーの1つが日ソ戦の模様を語ることであることは前述した が、2つ目は自分たちの任務に関する質問と宿舎内部の状況を知られることだった。
 
 彼らソ連兵は親密になった子供のわたしにさえも宿舎内部には入らせなかったし、父の彼らの任務に関 する質問にも、「近くに駐屯するソ連軍部隊が村へ入ってきて乱暴狼藉を働かないように監視する役目
 だ」と説明しただけで、それ以上の彼らの役割や装備品に関しての質問には「機密事項にふれる」と返 答を避けた。
 彼らの任務のひとつが憲兵役だったことはたしかだが、そのほかには徹底抗戦する日本軍が潜んでいな いか探索する目的もあったのではないかとふと考えた。
 しかしそれなら後日、森に鳥撃ちにいって自動小銃をわたしに「撃て」と平気で手渡し、自分はかなり 離れた場所で巻紙たばこを作っていたコーリャ伍長の言動はあまりにも無茶すぎると思うが、あるいは
 直属上官ワーシャ軍曹のみが知る機密事項だったのかもしれない。

 後年、シベリヤその他でソ連兵と生活を共にした経験のある日本人が書いた回顧録を2,3読んだが、 共通していたのがソ連兵の不器用なまでの自分の任務に対する責任感や主張だった。
 そしてわたしもこれら著者の鋭い観察に(なるほど)と真に共感した。

 村にソ連兵数人が侵入し、農道を歩いていた村人から時計を奪った事件が発生した。
 その人は校長宅に駆けつけ父にそのことを訴え、父がソ連兵駐屯所に知らせると、顔色を変えた
 2人のソ連兵はやにわに自動小銃を肩にしてその村人、父と現地に急行した。

 ソ連兵たちは農家に押し入り、そこで家財を床に撒き散らして物色中だったというが、ワーシャ軍曹が
 農家に飛び込み、銃を構えてソ連兵たちを外に出し、コーリャ伍長が彼らの銃を取り上げ、さらには
 ワーシャ軍曹が首謀者らしいソ連兵の肩章をもぎ取ると地上に叩きつけ、トラックの荷台にこれらソ連 兵を足蹴にして押し込み、本隊に護送していったという。
 
 勿論、腕時計を取られた村人はその場で時計を返却されたというが、父や村人が驚いたのは2人の
 憲兵役のソ連兵の行動だった。
 同じソ連兵でありながら、制服の肩章をもぎ取ったり、罵声を浴びせながら、荷台に蹴り上げたりする さまは日頃の素朴な農村青年の面影など微塵も無く、厳正に職務を遂行する憲兵そのものだったとい  う。
 このことがあってからソ連兵駐在所に直接か校長宅を通して「ソ連憲兵にあげてください」と農産物を 置いていく農民が増えたのだ。
 村の日本人を安全に守るために駐在するソ連兵だとは聞いていても、実際に事件が発生し、そのことが 実証されない限り、人は警戒心を解く気にはなれないものなのだ。(続く)

 わたしたち一家が漁船で樺太西海岸から決死の樺太脱出をはかり、途中で不慮の事故からエンジンが故 障し、最寄の漁村からソ連軍トラックで元の村に送還されたときやその後校長官舎と校舎を接収すると ソ連軍将校が乗り込んできたときを回顧すると、もし父やわたしたち母子がロシア語を話せたならど  れほど有利な交渉ができて危険な場面を回避できたかわからないと無意識に考えるようになっていた。
 
 ソ連軍将校を怒鳴りつけ、それを「正しく通訳しろ」と朝鮮人通訳に命じた父も、内心最悪の場合は  (一家全員の射殺)を覚悟していたにちがいない。
 
 そんな思いから始めたロシア語の猛勉だったと思うが、母やわたしにとっても思いは同じだった。
 
 ソ連機2機の機銃掃射を受けて九死に一生の体験をしたわたしは、その後トラブルに遭遇するごとに
 決まって歯が機関銃のように激しく連続音をたて、心臓が高鳴り、全身が小刻みに震え、生命の終わり を予感するようになっていた。

 全員がこのような精神状態にあり、ソ連軍の危険性が蔓延している現状だったから、気丈を装ってはい ても、凶悪なソ連兵のきまぐれでどのように運命がかわるかわからなかった。
 現にソ連兵に反抗してその場で射殺された日本人も樺太各地には数多くいたのである。
 
 母やわたしは、父の激しい気性は日頃から充分承知しており、事と次第では家族を犠牲にしてでも
 自分も死を覚悟してまで主張を押し通そうとする激情の持ち主であることを知っていたので、ソ連軍に 反抗して全員射殺される悲劇はある程度、予想はしていた。
 だからわたしは父に親子の情愛の念はまったく感じず、その度胸は日頃、畏敬はしていたが、その無鉄 砲さは深く憎んでいたといえる。

 こんないきさつから父は勿論だが母やわたしのロシア語修得熱も尋常ではなかった。
 そしてわたしたちのロシア語は目に見えて上達し、一月もしないうちに日常会話がわかるようになっ  た。

 日が経つにつれお互いの警戒心がとれ、なごやかな雰囲気の中でロシア語の日常会話が進行した。
 
 彼らソ連兵は素朴な農村青年そのもので、母のことはママと呼び、わたしには兄のようなふるまいで
 話をしたが、タブーが2つあった。
 それは上官から口止めされているのかあるいは自分たちの判断なのかわからないが、父が日ソ国境周辺 での日ソ両軍の戦況を問うたとき、彼等は顔を一瞬見合わせると、ワーシャ軍曹が顔をしかめて「両軍 とも戦死者が大勢でた激戦で、もう思い出したくもないし語りたくもない」と口をつぐんだ。
 それをみたわたしは、(この2人も日本兵を随分殺したのだろうな)とふと思った。

 2人のソ連兵は独ソ戦でのドイツ兵に大きな憎悪の念を持っており、話す表情には怒りさえ現れてい  たが、後日わかったことだが、このドイツ兵に対する異常とさえ思われる憎しみはソ連兵の共通の感  情だった。

 3日に一回、隣町の本隊から食糧など必要な物資が運ばれてきて、2,3人のソ連兵が食事をしたり
 一緒にトランプなどのゲームをしてから帰っていったが、一度彼等を仲間と一緒に母が食事を
 用意して招待した事がある。
 そんなときコーリャ伍長はおっちょこちょいで、よくトランプに負け、罰で低いテーブルの下を
 潜らされたりしていた。
 こんな皆の姿はどうみても素朴な農村の青年そのもので、あの凶悪なソ連兵とは思えないのだった。
 
 コーリャ伍長は毎日の巡回でよくわたしを誘ったり、山での鳥撃ちにも誘った。
 その理由のひとつは、日本人校長の息子を同行していれば危険が少ないからだ。(続く)

 ある朝、校長宅に隣接したソ連兵宿舎前にソ連兵が2人そろって立っているのを確認した父は
 笑顔で近づいて行った。
 母とわたしは玄関前でそれを見ていたのだが、2人のソ連兵は父を日本人学校の校長だと知っているの で、挙手の礼で挨拶した。
 以前、ほかの欄でも記述したが、当時のソ連は国をあげて5ヵ年計画を推進中で、そのせいか教師の社 会的地位は軍人なら佐官クラスの高級将校並みで、敬意を示されることが多かった。
 遠くて声は聞こえなかったが、父はゼスチャーを交えて用件を伝えているようで、しばらくして
 父は2人と握手して戻ってきた。
 そして私たちを見ると、「ロシア語の先生交渉、成功したよ」と笑ってみせた。
 実際、母と私も体験したように、身振り手振りの意思伝達の手段はお互い驚くほどに大きな効果が
 あることを知った。

 このときから私たち一家とソ連兵との交流がはじまった。
 最初に来宅したソ連兵はワーシヤという軍曹で、後からバケツを借りにきたのがコーリャ伍長だった。
 
 まだ戦争が終ったばかりでわたしたち日本人の将来がどうなるのかまったくわからないままに
 父のロシア語の猛勉はこのようにしてスタートした。

 父のロシア語授業は、彼らの立ち番のとき、休憩時間のとき、食事のときなどあらゆるチャンスを利用 して、屋外、あるいは校長宅を使って行なわれたが、母も次第に彼らを軽食などでもてなすようになり
 親密の度合いは深まり、父や私たちのロシア語も急速に上達していった。

 この頃、樺太各地に展開し駐屯するソ連軍の悪行に関する噂が続々と入ってきた。
 悪名高いソ連軍の略奪、暴行は予期していたとおりだったが、意外だったのは日本人の時計や万年筆を
 名称を挙げて要求しているらしいことだった。
 
 そして略奪した時計は両腕にいっぱいつけ、万年筆は胸ポケットにいれ、ところかまわず書きなぐり、
 インクが切れるとそのまま捨ててしまい、時計も同様、動かなくなると捨てる兵士がほとんどだったと いう。要は彼らの多くが所持していたことなどなく、インクを補充したり、時計のネジを巻くことを知 らない結果だという。
 
 誰もが知っていた精神病の若い女性が、親が目を離した一瞬にソ連軍の目のとまる場所に歩き出し、
 ソ連兵に集団レイプされた悲劇は、電波のような速さで樺太各地の日本人に広まった。
 
 ソ連軍の占領地での略奪、暴行は、よほどのことがない限り、上からは黙認されていたようだ。
 後年、わたしたち一家と交流したソ連兵は、
 (自分たちロシア人は、家族をドイツ兵に殺されたり、姉妹をレイプされた者が多い。
 だからその後ドイツに侵攻したときは同じことをして復讐してやった)
 と話している。
 帰国後、調べてみると、日本進駐の米軍でも同じようなことが多発している。
 
 やはりこの頃、隣町の日本人に、粗末な「日露会話集」を売りに来た業者がいたことを聞いた父は
 情報先を調べこの小冊子を入手した。
(樺太がソ連軍に占領された以上、これからはロシア語が必要になる)
 そんな思いから父はいちはやくこの本で猛勉をはじめたのだ。

 幸い父は元外語専門学校ポルトガル語科出身で、ブラジルはじめ海外移住経歴もあったが、健康を害し
 帰国して師範学校に入りなおし、教員として再出発した人だった。
 だから外国語に対する素養はあったのだ。
 
 そしてある日、父はこの2人の駐屯ソ連兵を自分のロシア語の家庭教師にしようと交渉することにな  る。(次回に続く)





 


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