近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

近代戦史、国際情勢

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大本営発表20

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 「大本営発表」の著者・松村秀逸氏(元大本営報道部長)は、硫黄島をこう語る。
 硫黄島の特徴は「すっかり出来上がった要塞」であった。日本側には掩護の艦艇もなく、片飛行の
 特攻機が、夜間、単発的な攻撃に来たほかは、空からの援助もなかった。

 ただ大砲は多かった。守備兵力は1個師団、陸軍が17,500、海軍が5、500だったが、大砲は
 大小とりまぜ410門あった。もともと1個師団には36門の大砲が普通。ガダルカナル、インパール、
 レイテ、ルソンではそれ以下で戦ってきた。400門といえばシンガポール攻略の山下軍に匹敵するもの があった。(中略)

 陣地は岩石の中の洞窟と火山灰の中に、ペトンで固めたトーチカと地下壕から成っていた。外に出て いた構築物は一切なかった。

 昭和19年以来、1年たっぷりの準備時間があったので、陣地も立派に出来上がったし、砲弾も十分あっ た。

 米軍の作戦は、ニミッツ元帥指揮下にあるスプルーアンス大将き下の第5艦隊がこれにあたるわけで
 フォレスタル海軍長官も旗艦に同乗して硫黄島の視察にきており、いかに米軍がこの作戦を重視した
 かがうかがわれる。

 上陸作戦はターナー海軍中将がとり、兵力は海兵3個師団で、上陸部隊の指揮はシュミット海兵少将 がとった。

 3日間のものすごい砲爆撃の砲弾は、7,500トン。守備隊は地下深く沈黙を守っていた。
 味方艦隊からも空軍からも見放された孤島・硫黄島はビクともしなかった。

 米水陸両用戦車が浜辺に近くなると、突然2箇所から大砲を撃ち出し、水煙は水陸両用艇の周りに上 がる。彼我の砲火の殴り合いは壮絶を極めた。我が大砲を沈黙させることが出来なかった米艦隊の巨 砲は、上陸部隊の前に移動弾幕を張った。上陸部隊からは「損害大」「衛生隊を送れ」などの飛電が
 あったが、3人の大隊長は戦死した。

 25,26,27の3日間が戦いの絶頂だった。主陣地の争奪戦である。
 3月17日、栗林中将は既に破れてしまった複郭陣地の中から、陣頭に立って最後の突撃を敢行し  た。壮烈な戦死。

 米側は10日間で陥落してみせると言っていたのが、26日間かかった。
 上陸軍6万、死傷2万2百。戦況は米側にとっても惨烈なものであった。
 守将栗林中将に、米軍は太平洋随一の猛将との折り紙をつけた。

 〇幾十年ぶりで「大本営発表」を再読しながら、先の大戦をご紹介していますが、祖国のために日本  人全員が一丸となって戦った有様が鮮明に浮かんできます。
  とくに祖国防衛の軍人の純粋で、敵と勇猛果敢に戦い、戦死していった姿に深い感動を覚え、心か  らの敬意と鎮魂の志を捧げる者です。

 *この写真は、樺太師団司令部だった建物。 豊原市(現ロシア・ユージノ・サハリンスク)。

 

大本営発表19

 太平洋戦争で勝敗を決定したのは、「南北分離」と「生産破壊」であった。というのは、原料は南方  に、工場は本土にあったし、石油は南方でとれたが、武器は内地で出来たからである。
 この2つの連絡が、断ち切られてしまっては、日本の軍備は不具(差別用語ご容赦、原文のまま)に
 ならざるを得なかった。

 そうして「南北分離」に大きな役割を演じたのは、米潜水艦だった。これは昭和18年末あたりから急 上昇してきた。フイリピンがとられ、南シナ海は米航空基地の支配下におかれることになり、南北の 分離は完全なものとなってしまった。

 「生産破壊」はB−29が担当した。(中略)もしサイパンー東京1200マイルのほぼ中間にある
 硫黄島が敵の手に落ちたら、サイパン殴り込みが出来なくなる。こんな意味で硫黄島の攻防戦は起こ ったのである。

 硫黄島の地上戦が始まったのは、2月19日。米軍は、期待ほどになかったB−29の攻撃を、期待以上 のものにしたいと考えていたようだ。3月9日夜は東京大空襲の日である。B−29が低空からナパー ム弾(油脂焼夷弾)を巻きだした始めであった。

 B−29が威力を発揮してきたのは、この夜からだった。その数日後に大阪も夜間の大空襲を受け  た。かくして生産破壊の王者はいよいよ猛威を逞しうしてきたのである。(中略)
 こんなわけで、日本の補給は次第に心細くなっていった。(中略)

 一方中部太平洋の米軍基地の補給は、クエゼリン、エニウエトク、ウルシーと進められてきた。
 この大基地ウルシーは、有史以来かってなかった世界一の艦隊と大輸送団を呑吐していたのである。


 このウルシーこそ、太平洋戦争の影の支配者と言っても過言ではなかった。このウルシーを日本は
 決して見過ごしたわけではなかった。「ウルシーを叩け」というのが実は日本海軍の念願であった。

 3月11日、「丹作戦」が決行された。大型飛行艇に誘導されて、新爆撃戦闘機「銀河」24機が、南九州 から飛び立った。これは、1400マイルを翔破してウルシーに「次期作戦遅延」の注文をつけるた めに飛んだのである。(中略)

 途中で故障を起した13機は不時着し、11機がウルシーに殴りこんだ。ここは、日本の飛行機が容易に 手のとどかないところにあり、海、空厳戒の大基地に時ならぬ日本機の空襲である。レーダーで日本 機接近の模様は、逐一報告されながらも、心寒からしめるものがあったに違いない。
 相当の戦果をあげたものと思われたが、この海中の巨人はビクともしなかった。

 敵の艦隊はすぐ出動してきた。そうして、4月1日の沖縄上陸も、遅延させることが出来なかったの である。そして硫黄島の死闘が近づくのである。

 *この写真は、真岡郵便局。昭和20年8月20日、ソ連軍が強行上陸し、真岡郵便局の交換嬢9人  が日本軍司令部に状況報告をしながら、服毒自決した。靖国神社に祀られている。

 

大本営発表18

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 栗田艦隊は、ブルネイ出発以来、不眠不休の5日間だった。潜水艦に狙われ、飛行機に襲われ、僚艦の 沈没が相次ぎ、まさしく死闘の連続であった。かかる苦難と疲労の堆積が、判断の明鏡を曇らせない とは、誰が保証し得るであろうか、と著者はいう。

 こんなときに、サマール島東北方に敵機動艦隊出現の報せが入った。
 (レイテ湾の獲物は逃げ出したようだ。むしろこの機動艦隊に、午前の戦果と同様の大打撃を与える ことが出来たら、爾後の作戦に有利な影響を与えるにちがいない)それに、
 (増強された敵機から狭い湾内でやられたら大変だ)との考慮も手伝ったと言われている。

 かたや陸軍だが、1945年(昭和20年)1月3日、方面軍司令部をバギオに移転した。
 1月6〜7日、ルソン島の交通路は猛爆撃を受け、ゲリラは橋梁の破壊に協力した。
 1月9日、米輸送船団はリンガエン湾に進入し、猛烈な砲爆撃の後、上陸を開始し、7万人を陸揚げし、
 橋頭堡を作り上げてしまう。

 日本軍突撃隊は、輸送船めがけて肉薄攻撃を敢行し、20隻前後を撃沈、撃破し、敵船団は湾内を右往 左往して逃げ回った。リンガエン守備隊は、毎夜、敵線深く潜入し、相当な戦果をあげた。
 2月4日、米軍はバギオ正面を攻撃し、マニラに南下する。

 海軍部隊は、港湾施設を徹底的に破壊し、約1万人はマニラに止まる。山下大将、大河内中将は市外退 去を電命したが、2月下旬、市街戦で全滅する。

 米軍有力部隊は、パレテ南方に進撃し、そこには日本軍1兵団(実力5個中隊)と戦車師団がいて、
 マニラから搬出した軍需品が山積していた。

 戦車師団と優勢な空軍に掩護され、我が軍の数倍するこの敵を邀撃したが、大損害を蒙る。
 だが、この犠牲は、パレテ峠を占領し、軍需品の搬入を完成したので、パレテ守兵の勇戦と相俟って
 4ヶ月の持久戦を可能ならしめた。

 米第8軍のアイケルバーガー中将は、「この戦いこそ日本軍の真価を発揮したもの」として激賞してい る。

 3月21日、バギオでは、ラウエル大統領の日本への亡命があり、村田大使と下山して、カガヤン河谷か ら台湾に飛んだ。沖縄戦たけなわな時だった。

 5月下旬、方面軍司令部はプログ山麓のキャンガンに移り、複郭陣地の構想が立てられる。
 プログ山麓は、東北80キロ、東西50キロで、山間盆地が数箇所あり、棚田、段々畑もあり、食糧も
 なんとかなりそうで、ここで敵を食い止めようとした。

 6月中旬、米軍はラムット河橋梁を修理して、複郭陣地の方にやってきた。
 思う壷にはまったのだが、複郭の準備もまだ未完成だった。

 ルソンの山奥の小さな日本人のこの国を、洪中将は自活監として自活区域を割りあて、食糧の収集配 給に当たり、馬場少将は患者と居住民を、安全地帯の谷間に移し、完全な米軍の包囲の中、司令部員 も銃をとって前線に向かった。

 1945年(昭和20年)8月15日、山下大将、武藤中将の2将軍は、プログ山東麓の掘建て小屋で敗戦を
 迎えた。米有力6師団を最後まで秩序を保って引き付けた。この部隊は、日本本土への進攻を予定さ れていたものだった。

 戦いは敗れたが、おそらく2人の全知能は、この一戦に集中されたと言っても過言ではあるまい、と
 著者は語る。

 *この写真は、「樺太戦没者慰霊」 樺太では日ソ戦で、多数の住民も死傷した。

大本営発表17

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 10月20日、台湾航空部隊は、栗田艦隊支援のため、フイリピンに南下の下命を受けた。
 全艦隊(3つ)はレイテへ進撃し、囮の小沢艦隊は、無線通信を発信しながら、米艦隊の誘致につと めた。10月23日、栗田艦隊は敵潜水艦の攻撃を受け、重巡3隻が沈没した。台湾沖の海戦で、空母に損 傷を受けた栗田艦隊には空母がなく、基地航空隊が掩護することになったが、実効兵力は、陸100機、
 海50機で、第2航空艦隊350機は、台湾からマニラに移動中だった。

 栗田艦隊主力:戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐15
 西村中将率いる一部:戦艦2、重巡1、駆逐4
 小沢囮艦隊:空母1、軽空母3、改造空母2、軽巡3、駆逐10

 10月24日、栗田艦隊は、敵機30機の空襲を受け、猛烈な戦闘になるが、敵の3回目攻撃で、
 大和、武蔵に爆弾と魚雷が命中し、5回目攻撃では武蔵は顛覆し、乗員2200名中、半数が戦死し た。空母のない栗田艦隊は度々基地航空隊に掩護依頼の無電を打ったが応答はなく、一時進路を西  方へ反転したが、再び予定のサン・ペルナルドへ向け東進した。

 ところが、予想された敵潜水艦の攻撃はまったくなく、最大の難所を無事に通過した。
 
 レイテ海戦では、神風特別攻撃隊が初陣で、その世界戦史上はじめての体当たり戦法は、ジェーム  ズ・フイールドによると「神風の攻撃はゾッとするように凄くて、効果的だった」と評し、その戦果 は、護衛空母1隻を撃沈し、敵を恐怖で寒からしめた。


 レイテ湾内には、敵護衛空母と輸送船団がひしめき合っていて、栗田艦隊はレイテ湾直前にいた。
 一方、北の海で小沢囮艦隊を発見した米策敵機は、空母もいる囮艦隊を栗田艦隊と誤認し、主力艦隊 発見の無電を打つ。ここで日本には絶好のチャンスが到来したのだが、栗田艦隊に発した「敵、誘致 成功」の小沢艦隊からの無電はなぜか届かず、栗田艦隊は敵空母は遁走したものと判断し、全艦隊に 北向きの航路に集合するように信号を発した。

 この段階で米第7艦隊はレイテへ向かいつつあったが、連日の上陸掩護やスリガオ海戦で弾丸、魚雷 は使い果たしていて、もし栗田艦隊と交戦しても太刀打ちできる状態ではなかった。
 ところが栗田艦隊は、レイテ湾直前で突然、決心を変更し、北上することになり、戦局を変えるほど の絶好のチャンスを永遠に失う事になる。

 米軍は台湾沖海戦で、栗田艦隊の空母が損害を受けたことを知らず、栗田艦隊を偵察した米機の疑問 は空母のいないことだった。だから小沢囮艦隊の空母を見て主力艦隊(栗田艦隊)と誤認した。
 ハルゼー艦隊をして「レイテ作戦にもっとも脅威を与えるものは、北方より南下中の小沢艦隊なり」
 と結論せしむるに充分であった。
 ただ西村、志摩の両艦隊がスリガオ海峡に向かっていることを偵知していたので、第7艦隊の戦艦群 と巡洋艦群がスリガオの出口に待ち伏せしていて、この2つの艦隊はひどい目に合わされた。

 レイテ海戦5日間の日本軍の損失は、空母4、戦艦3、重巡6、軽巡4、駆逐11の大損害となり、
 日本海軍最後の決戦場となった。
 
 詳細は省くが、彼我ともに全然予期せざる遭遇戦が起こったのがこのレイテ沖海戦だった。

 栗田艦隊は、米第7艦隊の護送用空母7隻(基幹)と遭遇し、大和そして全戦艦が巨砲を開いた。
 敵は逃げの一手。合い間をとって飛行機を使いたかったのだ。敵空母は18ノットの護送空母で、
 こちらは25ノット出せた。直路急進すればこの敵を料理する機会はあった。

 ところが栗田艦隊は、夜間の隊形から昼間の隊形に転換中で、不意の遭遇。追跡の隊形に移るには
 相当の混乱があった。敵は煙幕を張って退避しながら、飛行機による攻撃と護衛艦船による猛反撃
 を繰り返してきた。敵は危機の絶頂にあった。敵機の来襲も刻々増加し、やがて戦艦に集中するのを
 みて、栗田中将は追撃を中止して隊形を整え、レイテへの突入を決意した。事実は今一息で止めを刺 そうとしていたところだったのだ。

 *この写真は、樺太・鵜城多景。鵜城は旧日ソ国境から125キロ南下した西海岸の漁港。
 

 

 

 
 

大本営発表16

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 1944年(昭和19年)7月、サイパン戦が終りかけた頃、ルーズベルト大統領は、ホノルルで、太平洋艦 隊司令長官ニミッツ大将、南西太平洋方面司令官マッカサー大将と3巨頭作戦会議を開き、「フイリピ ン進攻」を決定した。
 9月上旬、米機動部隊は、父島、母島、硫黄島を砲爆撃し、ヤップ、パラオ、ミンダナオを爆撃し、フ イリピンも空爆した。

 9月中旬、西部カロリンのペリリュー島、アンガウル島、ウルシー島を占領。ミンダナオ東南方のモロ タイ島へ上陸し、基地設定をはじめたので、フイリピン南部も爆撃圏内に入った。

 10月9日、豊田副武連合艦隊司令長官は台湾に在ったが、12日、米機動艦載機は、延べ600機で数次に わたり台湾を攻撃し、基地航空隊は100機をもって猛烈な反撃を加え、空母撃沈の大戦果が報じられ  た。

 豊田司令長官は、米機動部隊撃滅の好機となし、待機中の航空機に出撃を命じた。
 10月13,14日は、30機、400機、15日は、200機と全力をあげての猛反撃の結果、10隻の空母撃滅 の報の大戦果をあげ、久し振りの勝ち戦と喜び、15日は瀬戸内海待機の第2遊撃隊(重巡2、軽巡1
 駆逐7)は、残敵掃蕩のため、台湾沖へ南下したのだが、残敵は発見できなかった。

 この戦いの大戦果はまたも誤認で、その原因は、触接機の不足、技量の未熟、天候不良、夜間攻撃が
 主だったこと等で、日本軍は偵察訓練を軽視していたことも大きい。
 得意の絶頂だった海軍は、またもや奈落の底に突き落とされることになる。
 ここで著者は、日本軍は「敵を知るための稽古に怠りがあった」と述懐する。

 この戦いで、日本軍は全航空兵力を台湾沖海戦に投入してしまい、多数の空母搭載機と熟練パイロッ トを消耗してしまい、次のレイテ海戦に大影響を与えてしまう。
 
 間もなく虚報の実相が次々と現れてきた。15日午後には撃沈したはずの空母4隻がルソン東方に現れ、
 16日には、台湾東方に空母2隻、続いて7隻発見が報じられ、海軍は色をうしなった。
 そして米の海外放送は、「台湾沖で沈没したはずのハルゼー艦隊が西(台湾)に向かって退却中」と
 皮肉った。そしてこの後すぐに日本の運命を決めるレイテ沖海戦が始まったのだ。


 *この写真は、樺太名物の「フレップ酒」 


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