近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

思想信念

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 *写真は、北海道稚内港と樺太大泊港を結ぶ旧稚泊航路の定期船「宗谷丸」

 1945年(昭和20年)8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して、世界の戦場から戦火が消えた後も、
 停戦交渉に向かう日本軍使を次々と射殺し、8月25日過ぎまで武力攻撃をやめようとしなかったソ連軍 のあまりにも不法な、かつ非人道的な暴挙により、多数の日本人が犠牲になった。
 樺太の死傷者の多くは8月15日終戦後のソ連軍の攻撃によるもので、我々生きて祖国に帰れた日本人  は、生き証人として生涯声を大にしてその史実を子孫及び世界諸国に明らかにする使命がある。
 
 そして私たち一家も漁船上で自決寸前の危機にさらされた。
 その悲惨な体験は、やはり8月15日以降のことで、ソ連軍広報車に投降したのは幾度も考察した結果、
 8月24日頃だったと推定する。
 ここでお断りしておきたいことは、以前、自決直前の体験を書いた時、その日(ソ連軍に投降した日) は8月20日前後と記述したのだが、ソ連軍トラックで元の村に送還される途中のさまざまな状況から、
 その日は日本軍が樺太に侵攻したソ連軍を代表するアリーモフ少将と全島の停戦協定を結んだ8月22日 以降のこと、(真岡港攻撃は23日も続いていた)と考えるに至ったのである。

 2日間、樺太西海岸を全速で南下していた私たちの漁船(10トンの発動機船)は、曳航していたハシケ のロープが母船のスクリューに絡みつき、エンジンが焼きつき、走行不能になった。
 翌朝、飛来したソ連戦闘機に発見され、幾度も急降下で威嚇され、機が去った後、1,5キロ先の漁村に 上陸を試みるためハシケの偵察隊を出したが、浜辺にはソ連軍が布陣しているのを見つけ、ハシケは母 船に引き返してきて、大人たちは船首に集まり、相談を始めた。この相談が自決に関する事であること は私にはすぐわかった。
 日本に向かう脱走船がソ連軍に捕まった時は、「拷問を受けた後、全員射殺される」ことは耳にしてい た。誰も口には出さなかったが、そのことはみな知っており、大人たちは全員が自決用のブシ(エゾト リカブトの汁ー猛毒)や青酸カリを携帯していた。私は10歳の少年で、腰にはジャックナイフが1振  り。

 私の頭にとっさに浮かんだのは、まず最悪の状態になった、ということで、それは(もう死からは逃れ られない)ということである。そしてそれは最悪の場合に予想していたことだったので、不思議なこと にすんなりと受け止められた。
 そして次に浮かんだのは、(自分の死に方をしたい)ということで、続いて(苦痛を少なく)だった。
 大人の密談が終れば、すぐに大人のやり方で殺される。
 死ぬからには死に方に希望があれば、それは聞いてもらえるはずだ、と確信し、懸命に考えた。
 でも悲しい事に2昼夜緊張と恐怖続きの頭では考えが出てこなかった。あせった。
 必死で考えた。腰のナイフで腕か首の血管を切ることを考えた。でも大量の血の海の中でもだえ苦しむ ような気がしてあきらめた。
 歯に舌をのせ、力を入れてみた。かなり力をこめて噛み切れるかどうかを試したが、相当な苦痛を直感 してあきらめた。海の中に目をやった。遠浅のきれいな海底からコンブがゆらゆらと伸びていた。
 (きれいな海だなあ)と感じたが、溺死するには相当の苦しみがともなう気がしてあきらめた。
 幾度も船首をみたが、まだ大人たちの車座は続いていてほっとする。
 ブシや青酸カリも考えたが、子牛が誤まってエゾトリカブトの葉を食べて、10数秒苦しみもだえ、私の 目の前で死亡したことが思い出され、この方法も断念する。

 頭の回転が思う様にならず、益々あせりが高まる。
 そんなとき、突然切腹姿の侍の姿がひらめいた。(これだ!これだ!)嬉しかった!
 とうとう私の死に方を見つけた瞬間だった。侍の横には水をかけた白刃を手にした介錯人が立ってい  た。(そうだ!首をいっぱいに伸ばして切り落としやすくさえしていれば、一瞬で苦痛なしに死ねるの だ!)斬首に失敗し、幾度も切りつけ、切腹の武士から「落ちつけ!」と叱咤された何かの本のことが 頭に浮かんでいた。でも嬉しかった!とても嬉しかった! こんな心境を嘘だ、と思われる方も多いと
 思うが、決して嘘ではなかった。
 このとき、苦しまないで死ねることがこれから自決する者にとってはどれほどの救いになるかは、この ような体験をした者でなければ絶対に分らないことだと思う。
 この直後、急に私から物音が消え、続いて目の前が真っ暗になり、赤い斑点が無数に飛び回り、失神し てしまった。
 私の失神中に、自決相談がまとまり、再度偵察隊がハシケでソ連軍に接近し、斬りこみを行なう。
 それに呼応して母船では集団自決を行なうことで意見が一致し、日本刀の青年偵察隊が陸地に向かい
 出発した。
 その結果、ソ連軍の布陣と見えたのは砂浜で日向ぼっこをする馬の群れで、母船に戻った青年たちが
 「ソ連兵はいない!助かったぞお」と叫ぶ声に喜びの声で応じる母船の人たちの声で私は正気を取り戻 したのだった。

 私たちはそれから4〜5時間かけて無人漁村に上陸し、翌日、国道から降伏を呼びかけるソ連軍広報車 に投降し、元の村に送還され、4年間の抑留生活を送ることになる。なにかにつけて戦勝国民ぶるソ連 人と生命、財産の保障もない敗戦国民の日本人。その惨めさは体験した者でなければわからない。

 日本軍人、警察官、特務機関と一部の高級官僚はシベリアまたは北樺太の収容所に送られ、重労働の刑 に服することになる。
 自分らの都合で日ソ中立条約を一方的に破棄し、軍使を3度にわたり射殺し、勝手に戦争を長引かせて おきながら、自衛戦争を行なった日本軍を不当に捕虜扱い(全体で推定60万人、実際には100万人とも いわれる)し、酷使し、多数の死亡者を出したソ連の暴挙は、日本人なら絶対に忘れてはならない。
 しかも本来の日本領土・北方4島まで返そうとはしていないのだ。
 ロシアの歴史を辿ってみると、すべてを力背景に押し進んできた国であることがよくわかる。
 そして一見、国際法、人道法を重視する素振りの欧米諸国も、無差別に日本民間人対象の爆撃を公然と
 行なってきた事実や残虐さは、ソ連と大差ないことを日本人はしっかりと認識すべきだ。
 

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 *写真は旧北方領土全図
 

 「ドイツ軍がレニングラード進撃の頃(1942年8月)、日本はドイツから再三、対ソ連宣戦を求められ たが「日ソ不可侵条約」の存在を理由にドイツ参戦には応じなかった。
 そんな日本の恩義や米国との和平交渉の仲介依頼までしていた日本を裏切り、敗戦まぎわの日本に対し て一方的に国際条約を破棄して連合国側に参戦するなんて」と樺太の住人が憤怒したことを私は覚えて いる。でもいささか疑問に思うのは、日本がソ連に米国との和平交渉の仲介を依頼していたことが当時
 我々住民の耳に入るほどに公然の秘密になっていたかどうかということだ。
 私は日本に帰国後、多くの歴史の資料に眼を通しているので、「日本がソ連に米国との仲介依頼をして
 いたこと」は、勘違いではなかったかと幾度も思い返してみるのだが、やはり間違いなく住民が口にし ていたことだった。これに類似したことはまだあるのだ。
 キスカ島の日本軍守備隊が多数の米軍艦艇に包囲されながら、奇跡的に濃霧の中を発見されることもな く、しかも武器弾薬、戦車まで味方艦艇に載せ、無事脱出し、後日、そのことを知らない米艦隊は同島 に艦砲射撃を加え、上陸してみたら日本軍はもぬけの殻。しかも米軍は同士討ちさえしてしまった由。
 そしてこのキスカ島守備隊を乗せた日本艦隊は、立ち寄った樺太で全装備を樺太師団に引き継いだ噂が
 流れていた。それだからこそまだ無傷の樺太師団は精鋭で強豪なのだと。

 この詳細な噂も私はたしかに耳にしている。ところが実際にはこの戦車ほか装備品は、そのまま千島列 島の占守島(しゅむしゅ)に運ばれている。他のタイトルで記述したが、樺太師団からは大砲や飛行機 までが千島、北海道防衛用として(樺太犬100匹も)接収されており、樺太師団は戦車、飛行機0で、
 主な大砲もきわめてわずかのままソ連軍と対戦することになり、全滅する部隊が続出した。

 私たち一家が鵜城に移転した1944年(昭和19年)は、日本の暗雲が立ち込める年になる。
 「鬼畜米英」「月月火水木金金」の標語や「同期の桜」「ラバウル小唄」が歌われ、7月、8月には
 サイパン山崎守備隊2万7千人、グアム守備隊1万8千人が玉砕(全滅)した。
 山崎部隊長の勇猛な姿(紙芝居)は、私たち小国民に大きな感動を与えた。そして8月から陸軍少年兵 の志願年齢が14歳以上になる。

 レイテ沖海戦(10月24日)で日本は戦艦3、空母4、巡洋艦9を失い大損害を蒙り、マリアナ基地発  進のB29による東京初空襲が行なわれ、日本の敗色は益々濃くなるが、まだこの頃でも樺太に戦火は 及ばず、千島、北海道周辺に出没する米潜水艦が次第に樺太東岸に足を伸ばしつつあった。


 

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 *写真は、国境の町・敷香(*日本領樺太北部は歩125連隊が守りについていた)

 1944年(昭和19年)春、この村に移転してきた時のことを思い出す。
 村の人たちは、私たち一家を歓迎するため、毎日のように畑でとれる野菜類や鶏、兎、山羊、豚までも 持ってきてくれ、私の動物飼育係としての日課が急増して悲鳴をあげることになった。
 でもそのおかげで、電気や水道もない大自然に囲まれた自給自足体制の村の生活に、いちはやく溶け込 めるようになっていた。

 5年間住み慣れた炭鉱の町・塔路は、ソ連軍の攻撃にさらされることになり、軍使だった町長はじめ警 防団長ほか4名は射殺され、多くの民間人も集団自決したり、攻撃の犠牲になった。
 私の級友たちもこの惨劇に巻き込まれ、犠牲になった人たちも多いが、私とて、もしこの村に移転して いなければ、同じ運命をたどっていたかもしれなかった。
 
 ソ連軍の侵攻が始まってからは、人の言動や意識に大きな変化が表れた。
 そのひとつが父の病気だった。腸チフスという伝染病で入院していたが、ソ連軍が8月15日の終戦を
 無視して武力進撃を続け、日本人に多くの犠牲者がでている頃に退院して、自宅に戻ってきた。

 村人は父の完治退院を疑問視し、同一行動を拒否し、決別の挨拶にきた。
 幸い漁村の網元が船での脱出に誘ってくれたので、私たちは参加したが、船の故障でソ連軍に発見さ  れ、元の村に強制送還されて、ソ連統治下のサハリンで抑留生活を送ることになったのだ。

 スターリン時代の「鉄のカーテン」内部での抑留生活には色々な出来事があったが、保身のための密告 を残念ながら幾度も受け、悔しい思いをして、人を警戒し、疑うようになったことだ。
 その例をあげると、ソ連軍人やソ連行政官が村を頻繁に訪れるようになった頃、ふいに学校がソ連軍の 捜索を受ける事になった。容疑は日本軍の武器隠匿だった。
 この件で私は思い当たることがあり、密告者が級友の親であることはすぐにわかった。
 
 私は敗戦直後、学校の天井裏に火薬抜きの手榴弾が2,3個置いてあったのを見つけたことがある。
 青年学校生徒訓練用の村田銃一式も20丁ほどあったが、実はこれが模擬銃ではなく本物で、銃剣も
 研げば刃のつく実物だった。そしてこの銃剣一式は教師(予備役砲兵伍長)によってどこかへ隠された
 はずだ。

 そんな推測を、級友たちが集まったときに話したことがある。こんな風にだ。
「もしロスケに抵抗するときには、隠してある村田銃や手榴弾を使う事ができる。手榴弾は学校の天井裏 にあるのだ」と。
 そのときの空気がソ連を非難する声であふれていたので、うかつにも私は調子に乗りすぎてこんなこと を口走ってしまったのだった。そしてそのことが今ごろになってソ連軍への密告となって表出したの  だ。「ソ連に反逆する者を発見したときはただちに民政署に訴えてほしい。それが事実であったときに はソ連政府はその者に対して充分の報償と優遇を保証する」旨の「密告」推賞制度を日本人にPRして
 いたのだ。

 そのことは父(校長)がソ連軍を学校に案内し、立会いで天井裏を捜索されているときに密告者を直感 したのだった。
 幸いに懸念した手榴弾は発見されず、その他の武器類もでてこなかったので疑いは晴らすことができ  たが、(多分、教師がいつの日にか校内を点検し、どこかへ処分した)もしそうでなければ父はソ連へ の反逆者として銃殺刑がシベリア送りになっていたはずで、今思い出しても恐怖が背筋を走る。

 世の中が急変し、敗戦国民となり、旧敵国の中で自分たちの生命、財産に不安が生じた時、人間はどの ような言動を取るようになるか、前述したような苦い体験が重なり、猜疑心が強くなるのは致し方ない ことだった。

 そんな中で父がロシア語の猛勉をはじめ、急速に上達していったことは、まさに「先見の明」で、
 これがなかったなら短気で激情家の父は、気まぐれなソ連兵の怒りにふれ、その場で射殺されていた  とと思う。その後も幾度も危険な場はあったが、ロシア語が父の生命の盾になったことは間違いない。
 ソ連人は予想以上に自国語を話す日本人に一目置いていた。
 あのマンドリン(71発装填の自動小銃で、ソ連歩兵が全員所持)やトカレフ(8発装填の拳銃)で、
 どれほど多くの日本軍人や民間人が殺傷されたことか。

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軍隊と戦史

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 *写真は日ソ国境(北緯50度線)の日本側標識。

 自分が少年時代に戦争に巻き込まれ、通算10回以上の死地体験をしたことから、自分の運命が戦争と 密接に関連していることを自覚し、樺太の戦争はもとより世界の戦争、戦史に興味、関心をもち、探索 してきた結果、ようやくひとつの結論に達したので、同胞の皆さまにご披露します。
 
 過去の戦争の是非うんぬんは別の機会にゆずるとして、第2次大戦に焦点を絞るなら、世界的に
 日本の軍隊の軍規の厳正さと強さには定評がありました。反日3国のゆがめられた歴史観は例外とし  て、その他アジア諸国の日本軍将兵に対する評価は高いものでした。
 とくに白人の束縛(植民地政策)から開放してくれた同じ有色人種の国・日本国の軍隊として。
 敗戦間近の戦争中も敵(米英連合国諸国)と兵力、装備で格段の差がある劣悪な条件の下で、日本軍は いたるところで大奮戦し、敵を驚愕させ、手ごわさを示しました。

 私が密接に関連する樺太の戦争についてお話しますと、段階的に増強された樺太師団(第88師団)  が日本最北の領土・樺太の防備についていましたが、地続きである「日ソ国境(北緯50度線)」には
 警察隊(約100名)が派出所を点在させて国境警備にあたり、軍隊の陣地は若干構築されていたものの
 軍人は常駐はしていませんでした。意外に手薄な北の守りでしたが、それには「日ソ中立条約」の存在 が大きく影響していたと思います。そしてその有効期限はまだ1年近くも残っていたのです。

 万一、樺太に緊急事態が発生したときは、在樺太の警察隊と樺太師団が協力して防衛にあたり、北海  道・旭川駐屯の第7師団と第5軍の飛行隊が支援に駆けつける体制になっていました。
 それが戦況の悪化につれ、千島列島と北海道の防衛が主になり、最終的には樺太の防衛は自力で行なう ことになったのでした。
 
 そして長崎に原爆が投下された8月9日、ソ連は突然、「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、樺太には
 8月10日から侵攻を始めました。前述した状況から飛行機や戦車、主な大砲類は千島、北海道の防衛  に取られ、きわめて劣勢な装備のままでソ連軍との戦闘が始まったのでした。
 日本軍が飛行機、戦車をまったく保有しない状況で、ソ連軍は100機余の飛行機と80余の戦車を
 持ち、その他装備に関しても「日本軍1対ソ連軍5」の劣勢で奮戦したのです。

 そして戦闘終結までの8月10日〜23日までに11万2千5百人の樺太民間人が日本引揚げ船あるい は自力で樺太を脱出し、日本に帰国しています。

 ソ連・マリノフスキー国防大臣は、樺太侵攻の第16軍の失敗について「樺太正面攻撃の失敗」という
 戦況を発表しているが、要旨を紹介すると(満州には80師団、樺太には2師団弱を送り、「ソ連英  雄」の称号を授与された軍人87名中に9人の樺太戦闘に参加した軍人がいることを明記しています。

 ここで樺太師団鈴木参謀長の言葉の大要を書き添えます。
 (樺太の日本軍は、装備、兵力に於いて格段の劣等でありながら、ソ連軍に対して一歩もひけを取ら   ず、むしろ敵を驚嘆せしめたところであることを思えば、日本人は、心さえ引き締めれば、如何なる  敵にも決して劣ることなきを確信して憚るところないと深く信ずる者である)と。
 *参考引用文献:「樺太防衛の思い出」鈴木康生著
 
 私もこの鈴木参謀長の言葉に深い共感を感じる者です。
 日本軍がかかわった世界の戦史を考察しても、たしかに日本軍将校の戦況把握の素質と能力は他国軍将 校に比べ抜群に卓越していることを実感します。
 例を挙げるなら、8月20日、樺太・真岡港に上陸したソ連軍将校は、日本軍2中隊と3日間、激戦し たと報告していますが、当時港や街には若干の日本部隊がいただけで、主力は港から1,2キロ離れた 谷地に露営しており、ソ連軍に攻撃、追跡されたのは、大部分が日本民間人でした。
 この例にかぎらず、米英その他軍隊の戦況報告や戦史には、疑問を感ずる記述が多いのです。
 それは対戦両国の戦史、戦況報告を対比してみるとよくわかります。

 結論として第2次世界大戦や日露戦争当時の日本軍でも、戦闘に必要な諸々の素質、能力等は他国に比 べ格段に高かった事は、歴然としています。
 平和ぼけし国籍不明に左傾化している現状日本で、少しでも自分の育った国に愛情をもち、自国を滅ぼ さない為に、自国防衛の気持をもつ若者が増えることを期待する者です。

 左翼政党やマス・メデイアが煽り立てているように、今の日本が軍国主義になり、他国を侵略するよう な国になるなど危惧するなど、まともな人間が考えればまことに笑止千万なことです。

 省に昇格したとはいえ防衛省傘下の自衛隊組織の現状は、米軍の利用しやすい2箇所の部分だけが尋常 に使用しうるアンバランスな機構です。こんな組織や不完全な法整備のままでは、侵略どころか自国を
 防衛することさえ不可能です。
 日本が真に自国の防衛に使用できる軍隊の創設にはまだ難問が山積しています。
 なによりも日本人が自国に愛情をもち、国際諸問題に関心を持つようになれば、生命の安全も保障され ずに4年間も不安で暮らしてきた戦争体験者(敗戦国民)の私にはとても嬉しいことなのです。(完)

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 あけましておめでとうございます。
 昨年は色々と有難うございました。本年も宜しくお願いいたします。
 いまは平和な祖国日本で生命、財産の危機や不安を感じることなく、新しい年を迎える幸せを感謝し、 満喫しています。
 
 1945年(昭和20年)8月10日、樺太でソ連軍の侵攻をうけ、世界の戦場から戦火が消えた8月15日以降か ら死境をさまよう修羅場を十数回以上も体験してきた私(当時10歳)は、いかなる場面でも私を見放  さずに絶体的な力で命を長らえさせてくれた守護霊(主に母方の先祖霊)の存在を固く信じ、日々感謝 の念を絶やさない者です。

 樺太、千島は世界に先駆けて日本が探検し、先住民のアイヌその他とも交易し、朝貢も受けていた地域 で、すでに1697年(元禄10年)には日本の漂流民伝兵衛がカムチャッカ半島西岸でコザックに救助さ  れ、ロシアは伝兵衛から千島、樺太等の情報を収集し、日本語学校を設立しています。
 そして 1721年にはピヨートル大帝が千島14島に探検隊を派遣し、地図には「オ−ストロワ、ヤポン スキヤ(日本の諸島)となずけているのです。ちなみに1712年(元禄15年)は赤穂浪士討ち入り の年。
 
 この頃からロシアの積極的な南下政策が始まり、反面日本は鎖国政策の真っ只中で、世界の認知度も浅 く、残念ながらせっかくの日本領土の木標も国際的には効果なく、樺太同様あいまいなままで19世紀
 に入ってしまいました。
 
 このようにロシアは千島列島はカムチャッカ半島から南下、樺太も南下する形で進出し、次第にアイヌ 族や日本(松前藩、津軽藩、南部藩等)と衝突しながら実効支配の場を確保していきました。
 日本側の苦情に対してはあくまで「我らは交易が目的で日本領土を侵略する意図はない」などと巧みに 弁明しながら。
 
 スターリンは戦後プラウダ紙に「日本の侵略行為から樺太、千島がソ連邦に戻った」と発表しました  が、これには多分の嘘が含まれています。
 前述したように樺太、千島は日本が、ロシアが発見する1世紀も前から原住民アイヌ他と交易があり、
 木標を立て自国領と明示もしてきた地域であり、のちに侵略に近い形でロシアが入り込んできたので  す。

 それと国際法からいうなら、明治8年「千島樺太交換条約」はロシアの要望で日本領が定められたも  ので、樺太は、明治38年に米国の仲介で「ポーツマス条約」でロシアから正当に日本に永久に譲渡さ れたもので、カイロ条約のはるか前で、まったく不法なものではないのです。
 むしろヤルタ条約(宣言)こそが密約であり、国際法としては無効なのです。
 太平洋憲章やカイロ宣言で「対日戦争で領土拡張はしない」という主旨は、ソ連の露骨な要求と米英の
 承認で破られ、現在に至っています。
 日本は樺太、千島の領土権を1951年9月の「対日平和条約(49カ国)」で放棄しましたが、ソ連 は調印を放棄しています。だから同条約を根拠としてこの地域を自国と主張することはできないので  す。(この条約はソ連に与えるとは規定されていないのです)
 
 日露戦争も日本がロシア領土に侵略したのではなく、清国領土の満州にロシアが侵略したもので、
 日本は日本領土保全のための防衛戦争でした。これは史実をたどれば明らかなことです。
 当時欧米諸国はアジアに対して露骨な植民地政策を推し進めていました。
 日本も自国防衛のためにはとらざるを得なかった戦争なのです。

 日露戦争で乃木将軍は、敗将ステッセル及び配下の将校に対して名誉と誇りの帯刀を許しました。
 そして後刻、敗戦の責任から処刑されそうになったステッセル将軍を、(立派な勇将だった)と
 助命嘆願書をロシア皇帝に送っています。
 世界の戦史上、敵将にこのような配慮を示したのは乃木将軍だけだそうです。
 
 2人の息子が戦死した乃木大将に、ステッセル将軍が会見時、真っ先にお悔やみを述べたところ、
 「お国のために見事戦死した息子を心から誇りに思い、喜んでいる」という言葉をもらい、「日本軍の 強さがこれでわかった」と感銘したといいます。

 第2次大戦でも世界各地の戦場での日本軍の強さには定評があります。
 いま映画で話題の硫黄島は勿論の事、テニアン、サイパン、アッツ、レイテなどで玉砕した守備隊の将 兵の強豪さ。心ない輩からは色々と歪曲された事柄が流布されるが、多くの日本兵は祖国や家族、子孫 のことを思いながら奮戦し、戦死されたことと確信します。合掌。
 
 私もよく耳にしたのは「せめて米英の四分の一くらいの武器、弾薬があったなら対等に戦って勝てる」
 と。演習にきていた樺太師団、部隊将校の目は自信にあふれ、清く澄んでいました。
 樺太でも中国大陸同様、侵攻してきたソ連軍は総司令部の指示で停戦後の日本軍将校には帯刀を許可し たといいますがそれもほんの短時間だけ。
 行き先を偽り、シベリアや北樺太に捕虜として過酷な労役に従事させるために送り、一割以上の死亡者 を出したソ連の仕打ちを日本人は終生忘れてはなりません。

 欧米諸国の歴史をご覧ください。ほとんどむかしと変ってはおりません。そしてご想像ください。
 白人の植民地世界を破壊したのは日本という有色人種の国で、しかも恐ろしく強い軍隊を創立すること ができる人種です。こんな危険な人種は白人社会の目の上の瘤です。
 米国は日本の過去の歴史をすべて「侵略国」としてゆがめ、永久に自立できる軍隊を作らせまいとして
 現在も色々と工作しています。
 愛国心をもち、世界の中で独立して飛躍できる日本を真剣に考える日本人がいないと、今のままでは
 間違いなく消滅してしまいます。
 私は少年時代の4年間を敗戦国民として日本国の保護もなく、幾度となく生命の危機にさらされ、自転 車やメンデルの遺伝の法則さえも自国民の発明だとする民度の低いロスケ社会で暮らしてきました。
 鉄のカーテンの中での明日の知れぬ生活。それは精神的にもきわめて悲惨な状況でした。
 子孫をそのような目にあわせたくない。自覚をうながすためにも終生樺太の体験や千島の史実を同胞に 伝えていきます。
 
 (参考文献)
  「1945年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志
  「樺太防衛の思い出」 鈴木康生

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