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その主婦は、匂いを発した。 指先が触れるか触れないかの、その一瞬に、彼女は従業員から生物へと変わった。 とても目を合わせられない、いま彼女は、羞恥心で胸中が混乱しているのかもしれない。 年齢は知らない。 名前しか知らない。 ほとんど話をしたこともない。 おそらくは若い時分に恋愛にときめき、充実した愛をはぐくんだ末に、今はどうだろうか、軽い虚無感に襲われながら、判を押したような毎日に少々うんざりしているのかもしれない。 一生物として、一女性として、彼女の日常の中での「性」の比重は、いかがなものなのか。 想像する間もなく午後12時を告げるチャイムが鳴り響き、視界が急に現実味を帯びた。 「お昼いってくださーい」 たらこマヨネーズ味のおむすびが、僕の思考を平凡なものにする。 今しか出来ない何かに、焦燥感とともに憧れを抱く。 一度きりの人生だから、別にどうでもいいのかもしれない。 何が起こるわけでもなく時間が過ぎ去っても、どうってことはないのかもしれない。 僕の買ったおむすびの消費税の数十円は、世の中の役に立っていますか? そんな些細なことが、不本意ながらも僕の精神を落ち着かせる。 身を切り裂くような恋は要らない。 今のところは。
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超ショートショート (掌編小説)
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両肩の強張りは、帰宅してもとれることはなかった。 風呂上がりのコーヒーに、煙草の煙を胸いっぱいに吸い込んでも、無駄だった。 今から寝ても睡眠時間は、5時間程度か。 明日の段取りをもう一度、頭の中で練り直してみる。 午前中の入荷の荷物は、おそらく倉庫にすべては入りきらないだろう。 一時的に道路に置くとしても、昼間のうちにどこまで作業場を片付けられるか。 出荷は? 明日は新しい従業員が4人入社してくるというが、いったい誰が彼らに手順を教えればいいのか? 誤出荷のないように、正確に作業を進めながら、入荷を受けるスペースを確保しなければならない。 最悪、道路に置きっぱなしになった荷物を、夜通し見張ることになってしまうのか。 でも、雨が降ったら? 商品が駄目になれば買い取りだ。 責任は? いったい誰が持つのか? 気が付けば、煙草の灰がテーブルに散らばっていた。 一瞬、壁を殴りたくなったが、布巾を取りに行く気力も湧いてこなかった。 明日の夜に片付ければいい。 なんだか、寝るのも面倒になってきた。 ブー、ブー、ブー、ブー。 誰だろう。 こんな時間に。 「もしもし?」 先週の飲み会で、番号を交換した女の子だった。 いま、どうしているのかと、聞かれた。 その瞬間、すべてがどうでもよくなった。 なるようになる。 なるようにしか、ならない。 とくに、なにもしていないよ。 もしよければ、また君に会いたいな。 |
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え、彼氏がいるの? 大丈夫だよ、俺も、彼女がいるから。 ミユキは胸元を隠すように、か細い両腕で自分の肩を引き寄せる。 もう、出る? まだいいよ。 カクテル、頼んだばかりでしょ? 忘れてるんじゃないのか? そんなわけ、ないよ。 俺がやおら立ち上がってコートを羽織ると、ミユキの目にうっすらと涙が浮かぶ。 大事な人なの。 なにが? カレシだよ。 俺は通り過ぎようとした店員に大声で精算を要求した。 周りの客が振り返る。 ミユキは今にも消えてなくなりそうに小さく縮こまっている。 もう、いいよ。 え? 帰れよ。 俺も、帰るから。 でも・・ なんだよ? ミユキが目を伏せると、ピンク色の唇が強調される。 俺は食いしばる歯が砕けることを恐れた。 帰れ。 イヤだよ、私・・ 財布から乱雑に金を抜き取り、テーブルに叩きつけ、俺はミユキの手を掴んで店を出た。 冷たい夜風が頬を差す。 ミユキは、俺の胸元にどさっと顔を埋めてくる。 髪の香りが、あまりにも甘すぎる。 ネオン街にそぐわない女だ。 時速100キロのジャガーが、突風のごとく通り過ぎた。 彼女が笑いを含む声でなにか言い放ったが、幻となって、消えた。
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「アベーーッ!!」 なんだよもう。 こんな忙しいときに大声で遠くから呼ぶんじゃねえよ。 何歩歩くと思ってんだ万歩計買ってくれよ。 あ、靴が磨り減りそうだ。 アディダスのスニーカーで欲しいのがあるんですよ〜先輩。 「ねぇ、アベ君。」 はいはいはい。 なんですかミズサワさん。 え、送り状の位置はここでいいかって? そ、そうですねぇ、もうちょい、端の方がいいんじゃないすかねぇ。 そこじゃ口あけるときカッターで送り状真っ二つですから〜。 「じゃ、ここらへんに貼る?」 うん、そうですね。 そこら辺でいいと思いますよ、ってか俺今先輩に呼ばれてて。 「右の方がいいかな?」 うん、どっちでもいいと思いますよ。 先方はそんな細かいこと気にしないんじゃ、ってかミズサワさん胸の谷間すげーな。 俺、この角度からミズサワさんのこと見下ろしてていいのかな。 「あーん、ちょっと曲がっちゃったかなー?」 いや、いいんじゃないですか。 先方は荷物さえ届けばいいんですから。 って、俺のこと誘惑してる? 中学生になる娘がいるんだよな、このひと。 「アベーーーーーッ!!!」 うるせえな先輩。 聞こえないふりしてもうちょいこの極楽タイム味わうぞ俺。 ってかこんな爆乳だったんだこのひと全然気が付かなかった。 あっ。 いま完全に俺のこと色目使いで見たぞこのひと。 食事とか誘いたくなるぞ俺。 出会いってこんなところにあったのかでもこのひと人妻なんだよな。 どうするよ俺。 「はー、今日は疲れるね。」 結婚に疲れたから私のこと食事に誘ってって意味? 広辞苑にその意味とか載ってる? 載ってるわけねーっ! てか乳首見える! 乳首見えちゃうよミズサワさん! ミズサワさんミズサワさんミズサワさんミズサワさんミズサワさんミズサワさんーーーー!!! 「アベ」 あ〜あ先輩きちゃったよこっちまで歩いてきちゃったよ。 極楽タイム終了〜。 あー、怒り心頭。 先輩の怒りが心頭だよ〜。 「ありがとうね、アベ君。」 はいはいはい、お安い御用ですよもうなんなりと申し付けてくださいよ、明日も明後日も明々後日も。 うほー、夏、最高〜。
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まるで犯罪者のような気分だ。 家路に急ぐ足取りはひどく不自然によろめき、膝にかかる負担に顔をしかめた。 部屋に戻ると、飛び込むようにベッドに身を沈め、紙袋に恐る恐る指をかける。 「以上、柏木由紀でしたっ」 奇抜なタイトルとともに、初々しい水着姿の彼女は、そこに居た。 AKB48の総選挙で3位に躍進したのも頷けるその誠実な笑顔に、私は優しく微笑みを返す。 アイドルの写真集を買うなんて、生まれてこの方初めての経験であろう。 私は震える指で丁寧に、愛撫するようにページをめくる。 頭から何かが突き抜けるような恍惚に、もう、身震いが止まらない。 ふと、指先に妙な手触りを覚えた。 蟻を掴むように慎重に、紙の凹みの正体を探り出した。 ボールペン・・? 携帯電話の番号・・? 誰かのいたずらなのか、まさか、まさかとは思うがこれは、柏木由紀本人のいたずらなのか? 一瞬、夢と現実の区別が難しくなったが、冷静に考えれば考えるほど、頭が真っ白になるから不思議である。 私は気が付くと携帯電話を手に取っていて、その番号を押し始めていた。 真っ白な靄の中から、彼女が手を振って、私に微笑みかけているではないか。 ――もしもし? あれ? 男? 「もしもし?」 受話器の向こう側から、若干ではあるが息遣いが聞こえる。 ・・男なのか? ――お前、孤独なの? 「えっ?」 ――ぱたぱたぱた、ぱたぱたぱた。 突然、何かを打ち付けるような、柔らかい音の連打が聞こえ始めた。 ――ぱたぱたぱた、ぱたぱたぱた。 連打する音は徐々に加速して、声の太い吐息が漏れるのが聞こえた。 男だ・・! 私は携帯電話を放り投げると、思わず両手を確認してしまった。 誠実な笑顔のアイドルは、私を慰めるように、真っ直ぐにこちら側を見ている。 ごめん。 ごめんね。 みっともなかったね。 両手に粘り気を感じてしまうのは、おそらく気のせいであろう。 梅雨の蒸し暑さとは不釣合いに、蝉が声高々に鳴き始めた。 もう、夏はそこまで来ている。
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