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HONDA CB250F & KLX125ツーリング記
海と山の多い北陸在住の筆者が、日々の発見や出来事を綴るブログ

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沖縄ツーリング3日目は、那覇市の泊港からカーフェリーで1時間弱のところにある慶良間諸島の渡嘉敷島に滞在しました。
那覇市から西へ40kmの離島で住民は700人弱。慶良間諸島は渡嘉敷や座間味などの4つの有人島から構成されていて、夏はダイビングや海水浴で人気のスポットらしいです。ただ、今回は年末の閑散期に行ったので浜には誰もいませんでした。
後述しますが、かつてこの島は1945年3月に米軍の本島上陸に先立って空襲や艦隊の艦砲射撃を受けて、多くの軍属の兵士や民間人が犠牲になり、多くの戦跡が残されています。悲惨な「集団自決」の舞台ともなりました。
 
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泊港のフェリー乗り場のチケット売り場にて。大人と250ccのバイクの往復チケットを5000円程度で先に購入。
 
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「フェリーとかしき」はカーフェリーなので、埠頭でこのような形で荷物を積載します。
 
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500トン級のフェリーで全長は30mほど。台風や海が荒れた天候の時期は欠航になりそうな小さい船です。
 
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乗り場で「もぎり」の人にチケットを渡していざ乗船。ちなみに往復チケットは1枚のセットになっていて、切り取り線で勝手にちぎってしまうと無効になるので要注意。
雑魚寝できるスペースが2階に設けられています。
 
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椅子に座る客席もあります。全席自由席なので、席の指定はありません。
この日はガラガラで地元の人しか乗船していないような印象でした。
ちなみに航行中もテレビを受信できるようで、備え付けの正面のテレビではNHKが流れてました。
 
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一応、自販機もあります。値段は陸地と一緒です。
 
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あくまでも旅客フェリーでなくカーフェリーなので乗り心地はお世辞にも良いとは言えません。最新のフェリーには揺れを防ぐためのスタビライザー搭載も多いですが、フェリーとかしきはとにかく上下、左右に激しく揺れます。3階は甲板になっていて自由に上がることができますが、揺れがひどくて手すりなしでは移動できません。
 
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那覇から出航して1時間たってようやく、峻厳な山々に囲まれた島みたいなものが見えてきました。これが慶良間諸島で最大の有人島である渡嘉敷島です。
 
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渡嘉敷島の埠頭が見えてきました。
 
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フェリーの作業員にバイクを降ろしてもらい、ようやく到着。
ホテルの朝食バイキングで食べ過ぎた胃袋が揺さぶられて、船酔い状態になりながらも、平衡感覚を保ちつつ上陸。
 
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島の高台にて。背景には「前島」と呼ばれる岩がむき出しになった無人島が見えます。
 
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島のビーチにて。閑散期なので、さすがに誰も泳いでません。夏はダイビングのメッカとして、多くの観光客が押し寄せるようですが。
 
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誰もいない砂浜・・・。
 
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バイクをとめて砂浜を周遊していると、島の猫が近寄ってきました。
他にも数匹見かけましたが、人が近寄っても警戒心がなく、エンジンをかけると慌てて逃げていきました。
 
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ビーチの片隅にひっそりと戦跡がありました。マルレと呼ばれる特攻艇を秘匿するための壕として戦時中に掘られたものです。マルレというのは戦時中の日本で考案された特攻兵器で、ベニヤ板で作った粗末な舟に爆薬を搭載して敵艦に文字通り体当たりしていくという「海の特攻隊」です。1944年の終戦末期から島民や朝鮮半島から徴用された人夫が動員されて秘匿壕の掘削にあたったそうですが、結局1艇も出撃することなく、証拠隠滅のために艇は日本軍によって燃やされたということです。
 
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島の戦跡を巡っているところ、期せずして某全国紙の取材班と慶良間における「集団自決」の生存者の方とお会いして、取材に合流することになりました。
この壕は軍人が艦砲射撃から身を守るために作られたという話でした。
 
 
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壕には今も当時の壕での生活を思わせる残骸がそのままの形で残されていました。壕の奥には草履らしきものもありました。
 
慶良間諸島における住民の「集団自決」を巡っては、家永三郎の教科書検定裁判や、岩波書店や大江健三郎の『沖縄ノート』に対する民事訴訟など、歴史認識問題としてこれまで大きく取り上げられてきました。
 
その概要や主張としては
 
・軍命令による「集団自決」の有無→軍の命令系統によって住民の自決命令が発せられたか否か
 
・渡嘉敷の赤松嘉次や座間味の梅澤裕が、集団自決に際して軍の所有する手榴弾を住民に手渡したか否か
 
・集団自決の証言は後世の創作とする批判→つまり1957年施行の援護法の適用対象となるために、住民が軍命令があったと示し合わせたか否か(曽野綾子の著書や小林よしのり、「新しい歴史教科書を作る会」など歴史修正主義グループにみられる主張)
 
 
私が集団自決の体験者に直接伺った話では、
 
・赤松大尉が軍の命令系統によって住民に1945年の3月下旬に渡嘉敷島の北山(ニシヤマ、注・現地では「西」を「北」と呼ぶならわしがある)に集合する旨の命令を発したことは事実。
 
・この命令を受けて島民は身支度をして、北山へと向かうが、この時点では集団自決の命令であると島民は認識していない。軍の要塞がある北山で軍の援助を受けるものと認識していた。
 
・北山で村長の話が始まって、しばらくすると家族や親戚が円陣を作り、天皇陛下万歳の掛け声で周囲で手榴弾が炸裂。手榴弾で死にきれなかった者は、家族同士でナタや斧、カミソリや転がっている岩などで手をかけ合った。まさに「地獄絵図」であった。
 
・3月下旬は渡嘉敷は米軍の艦隊からの艦砲射撃によって壊滅的な被害を受けており、逃げ惑う住民の間で「共生共死」の空気や同調圧力が醸成されていた。
 
 
集団自決の生存者の方が最後にぽつりと、「軍の命令の有無という二元論でなく、軍が存在したという事実が住民の心理に与えた影響や、皇民化教育などを考慮して集団自決を考えてほしい」と仰ったことが印象的でした。
客観的な事実として、日本軍が駐留していなかった島では「集団自決」は発生しておらず、マルレの要塞と化した渡嘉敷・座間味に住民の「集団自決」による犠牲者が集中しています。
 
援護法を受けるためにでっち上げたと主張するグループもいるようですが、施行の1957年以前に刊行された『鉄の暴風』や、米軍が戦後に作成した渡嘉敷島での作戦の資料にも、軍命令による住民自決が記されていることからも、後世の「神話」という説は信憑性に乏しいと個人的には思います。
 
1970年、終戦25年の節目に赤松大尉が沖縄に上陸して、渡嘉敷島にフェリーに渡ろうとするが、埠頭で反対する人々に阻まれて、乗船を拒否され断念しました。大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店、1970年)では、集団自決に関わった赤松をホロコーストの実行者としてイスラエル法廷で死刑になったところのアイヒマンに擬制し、「罪の巨塊」「屠殺者」と痛烈に批判しています。
 
沖縄戦が本土防衛のための持久戦として、「捨石」とされた果てに起こった惨劇について、生存者が存命中のうちに真実の解明が必要ではないかと痛感する次第です。

この記事に

  • 私は戦争を教科書でしか学んでいません。しかも沖縄戦は悲惨だったの言葉で終わらせているだけのもの。沖縄に行き初めて本当の島人の戦い、悲惨さを知りました。慶良間だけではなく、小さな島では何処も米に住民が寝返りせぬ様、同じ様な事が起きたと聞きました。波照間でも民間を装った軍人の指導で、西表島に疎開させられ、マラリアにかかり沢山の方が亡くなっておると聞きました。現地で生のお声を聞くと信じられない事が当時起っていたんですね。二度と同じ過ちを侵さないため、今の日本が進んでる方向が正しいかは疑問です。私も同じく真実の解明、開示が必要と思います!!

    キタッチ

    2015/1/2(金) 午後 9:27

    返信する
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    実際に現地に訪れて初めて気付くこと、肌で感じることは多いですよね。集団自決の現場で生存した遺族は、被害者であり、同時に家族に手をかけたり、もがき苦しむ家族や親戚を見捨てた「加害者」でもあるため、戦後島民が沈黙を貫き、実相の解明が遅れたと伺いました。証言を求めるという行為自体がある意味残酷なことかもしれませんが、生存者の存命中に真相の解明をすべきだと痛感します。
    そして現政権が憲法改正を声高に唱える今、過去の戦争の惨禍が忘れ去られているように感じます。戦後70年の今年は、先の大戦に思いを致し、再び惨禍を繰り返さないよう、平和国家の道を歩んで欲しいと強く願う次第です。

    [ nagisa ]

    2015/1/21(水) 午前 1:06

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