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カトマンズの街は マッラ王朝時代に造られた街並みと、ゴルカ王朝時代に造られた
建物が並存している。ゴルカ王朝といっても 大半の建物は、ラナ家専制時代に
建てられたイギリス様式を真似たもので、ネパール建築とは程遠いものだ。
街はマッラ王朝時代に建てられた建物が大半で、ゴルカ王朝時代に建てられた宮殿群は
ネワール族の造り上げた街の周辺地域に散在しているだけである。
日本の江戸時代のことを考えてみれば、江戸の中心に江戸城があり、その周辺に直参旗本の屋敷、
大名屋敷、その外に商人たちの居住地と職人たちの居住区、さらにその外の川向こうには悪場所、
歓楽街が広がり、その向こうといえば、村になってしまう。
昼間の日常的な世界と夜の享楽的な世界が 街の中に共存することで、街にすむ人たちの心に
善と悪のバランスを与えていた。
欲望の捌け口の場を用意していたのである。
カトマンズの街を読み取るには、マッラ王朝時代の街づくりに眼を向ける必要がある。
ゴルカ王朝時代の建物を見ても、ただ権力を誇示するための建物ばかりで、
生活する人々の心の有様を知る手がかりにはならない。
ネワール族の街づくり、それは、カトマンズでもパタンでもバクタプール、キルティプールでも
同じ構造になっているものだが、まず、街の中心部に王宮を作り、王宮の周りに寺を建造し、
その周辺にカーストの高い人たちが住み、周辺に行くにしたがって、
カーストの低い人たちが住むという構造になっている。
基本的にはこの構造は250年のゴルカ王朝の支配の中でも変化はしていないようだが、
上級カーストの生活場所については、ゴルカ王朝に協力的であったものとそうでないものの違いに
よって、居住区の入れ替えはあったように思われる。
ネワール族の中のヒンズー教徒、仏教徒によって、ゴルカ王朝への協力度は違っていただろう。
しかし、大半のネワール族は、マッラ王朝時代からの居住地域に住んでいるようだ。
ただ不思議なのは カトマンズの街には、悪場所である歓楽地域がないことだ。
ヒンズー教の影響なのだろうか。
江戸であれば、隅田川の川向こうは、江戸庶民の歓楽街であったし、バンコクであれば、
中華街が歓楽街だったはずだ。
ネワール族の60歳を過ぎた人たちに聞いても、カトマンズにはそんな場所はなかったという
答えが返ってくるばかりである。
性に興味を持ち始めた若い頃はどうしていたのだと尋ねると、結婚まで我慢していたと言う。
酒好きのネワール族、遊び好きのネワール族がである。
ラナ家専制時代は、ラナ家の御曹司は、かなり性の面でも野放図であったというが、
それは支配階層のことだけで、カトマンズの大半を占めていたネワール庶民とは無縁の
ことだったようだ。
ネパールでもカトマンズ以外の街道筋には、男の欲望を満たす場所がたくさんあったという話を
聞いている。
街道の食堂や宿屋で働く女たちは、男たちの欲望に応えていたことが多かったと言う。
昔、東ネパールのダランという町のホテルに泊まったことがあるが、そこにもホテル
お抱えの娼婦たちがいた。
カトマンズから離れれば離れるほど、性に対して緩やかであったようだ。
ここ240年のチェットリ族、バウン族の支配は、カトマンズの享楽への欲望を
抑圧していた社会だったようだ。
人間の心の光と闇の世界をバランスよく街の中に取り入れなかったここ240年の
カトマンズの街は やはり、どこか、贋物めいた気がするのである。
そうは言っても、賢いネワール族のこと、地域社会の中でうまくやっていたとは思うが。
おおっぴらにされていなかっただけのことだろう。
今はどうかと言えば、タメル地区あたりのダンス・バー、あるいは、カトマンズ周辺の
地元の人間相手のバーなどは、男たちの欲望を満たす場所になっていることは周知のことだ。
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へえ、そうなんですか。
ネパールの便箋が気に入っていましたが、
最近は売られていません。
2013/9/21(土) 午前 3:12 [ 玉子 ]