ネパールの歴史

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 13世紀から18世紀中期まで カトマンズ盆地で、栄華を極めたマッラ王朝、広い農地とチベット・インド貿易を土台とした莫大な富を手にし、この盆地に桃源郷を築き上げたのであった。
 彼らは、この盆地の中の平和な満ち足りた生活に満足し、盆地の外で起こっていることには、無関心であった。もう当時から、人口増加に悩んでいたインドから、新しい領地をもとめて、クシャトリア(インドのカーストの武士階級)、彼らとともにブラーマン(インドのカーストの僧侶階級)がネパール領地に入りこみ始めていたのだ。
 インドに イスラムの勢力が入り込み始め、ムガール帝国を築き始めると、インドの北にいたクシャトリア、ブラーマンは大量にネパール西部へと入り込んでくるようになるのだ。そして、先住民族であるマガール、グルン、タマン族を支配下に置き、地方豪族として、ネパール各地にその勢力を伸ばしていったのだ。
 その中でも、勢力を大きく広げていったのが、ゴルカ、ツルスリを支配地とするトックリ・チェットリ、プリティビ・ナラヤン・サハであった。

 一方、カトマンズ盆地のマッラ王朝では、そんなことには、少しも関心を、示すこともなくカトマンズ、パタン、バクタプールと三つに分かれた王朝は、血みどろの勢力争いを演じていたのである。
 15世紀後半に王位についたヤクシャ・マッラは、三人の王子可愛さから、マッラ王国をカトマンズ、パタン、バクタプールと三つに分け、三人の王子に分け与えてしまうのだ。これが悲劇の始まりであった。
 領地が、親から子へ 子から孫へと、受け継がれていくうちに、だんだんと気綱も弱くなり、互いに背力争いをするようになり、血で血を洗う戦闘も行われるようになり、マッラ王朝は弱体化していくのであった。

 そのマッラ王朝の末期、地方豪族のプリティビ・ナラヤン・サハは、バクタプールの王宮に 修行と言う名目で入り込み、カトマンズ盆地の勢力図を探ることになる。

 修行を終えたプリティビ・ナラヤンは、ゴルカに帰り、あのカトマンズの都をどうしたら、手に入れることが出来るのか、思案をめぐらす。自分の祖先が夢をかなえることなく、インドを終われ、この地やってきて以来、チャンスがやってきたのである。一つの王国を持ち、マハラジャとして、君臨できるチャンスが。

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又、おじゃまします。色々と知らないことばかりで 勉強になります。本当に役人や政治家は 腐っていますね!(怒)
あまり、近代化はされてほしくは無いですが
ネパールの人達が幸せに 暮らせる日が来る事をねがいます。

2007/9/13(木) 午後 7:35 [ xma*413* ]

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役人や政治家たちが、ふんぞり返っているのを見ると、本当に腹が立ちます。そういう人間を 追い出すためには、ネパール人皆が賢くならないといけませんが、それも程遠い道のりです。
今日は、カトマンズは、久しぶりの雨、午後4時から6時まで土砂降りの雨でした。

2007/9/13(木) 午後 11:36 [ hakaruno ]


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