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バクタプールでの3年の修行の間に、ナラヤン・サハは、カトマンズ盆地の中で起こっているカトマンズ、パタン、バクタプールのネワールの王たちが、争い続け、それらの権力が予想していた以上に弱まってきているのを間近に見た。
いよいよ、カトマンズ盆地を我が物にする絶好の機会が訪れたのだ。
ゴルカに帰ったナラヤン・サハは、信頼厚い腹心、カル・パンディとカトマンズ攻略の作戦を練り始める。
まずは、カトマンズ盆地至るまでのから道のりの中で障害となる地方豪族を制圧し、支配下に置くことから始める。着々と、カトマンズ周辺の豪族、部族を支配下に置きながら、カトマンズ盆地の外堀を埋め始めるのだった。チェトッリの命令、指図に従って、その手足となり その戦いの先頭に立って戦ったのが、ナラヤン・サハの支配地の中で訓練された先住民、マガール族、グルン族だったのである。
一方、カトマンズ盆地の中はと言えば、カトマンズ、パタン、バクタプールのネワールの王たちは、争いに明け暮れている。カトマンズ盆地の外で起こっていることなど、露ほどにも関心を示さない。
以前にはあった彼らの軍隊も、訓練しなくなってから、長い年月が流れ、ないも同然、の状態になっていた。
カトマンズ周辺の豪族、部族を征圧しつつ、まず手始めに、キルティプールに攻撃を仕掛けるが、キルティプールのネワールの激しい抵抗にあい、その時に忠実で最も信頼のおけるカル・パンディを失ってしまうのだ。その時は、撤退を決意し、カトマンズ周辺の村々を支配下に置くことに専念することに方向転換することになる。
1764年、再びキルティプールを攻撃するものの、キルティプールのネワールの激しい抵抗にあい、その際、ナラヤン・サハの末の弟、親戚筋のプラテープ・サハは、両目をうしなっていまうのである。煮えたきった油、熱湯をかけられたのであろう。
攻撃、撤退を繰り返しながら、1767年 突然の奇襲が、成功し、キルティプールは陥落してしまうのである。
キルティプール攻略に勢いを得たナラヤン・サハとその軍隊は 1768年9月25日インドラ・ザットラの日を狙って、カトマンズに攻め入る。祭りに酔いしれ、何の準備もしていないかとマンズのネワールは瞬く間に、征服されてしまう。
カトマンズのネワールの王、ジャヤ・プラカースは、突然のことに戦う準備も出来ず、パタンのネワールの王に助けを求めたが、それも2,3ヶ月、その間、パタンの王の側近であったプラダン(ネワールの上位カースト)たちは、ナラヤン・サハの方に寝返ることを相談し始める。
それを知った二人のネワールの王は、バクタプールの王に助けを求めて、バクタプールに逃げ込む。
ネワールの二人の王が バクタプールに逃げ込んだことを知ったナラヤン・サハは、再々に渡ってバクタプールの王、ランジット・マッラに、カトマンズ、パタンの王を引き渡すよう使者を送るが、ランジット・マッラは応じない。
1769年11月 半月の夜、痺れを切らしたナラヤン・サハはバクタプールに攻め入り、最後まで残っていたカトマンズの都を、制圧してしまうのである。
三人の王を捕らえたナラヤン・サハは、三人のネワールの王に、問いかける。
「何か望みがあるか、言ってみよ。」
バクタプールの王、ランジット・マッラは答える。
「もし、余生をインド バラナシで送ることが出来れば、幸いである。」と。
カトマンズの王、 ジャヤ・プラカースは答える。彼は、バクタプールでの戦いで致命傷を負っていた。
「もう私は、この世には未練はない。私の余命もあと僅か、出来れば、残る時間をパシュパティナートで平和な過ごし、そこで荼毘にふされれば 幸いである」と。
パタンの王、テジュ・ナール・シンハだけは、何も言わず黙り込んだまま、その結果、彼は、獄につながれ、獄死することになる。
ここで、50年近くに渡って続いたマッラ王朝は幕を閉じ、サハ王朝の幕開けとなるのである。
(最後の部分は、あまりに出来すぎている。ネワールの王、そして王の末裔を残しておくことは、今後のナラヤン・サハのカトマンズ支配の障害となることは、眼に見えている。マッラ王朝の血筋は、根絶やしにされたと考えていいのだろう。)
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