全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

 ワット・アルンからティアン船乗り場に帰り、船乗り場前の広場に出る。
 右側は 昔ながらの海産物の干物の店が並んでいる。
 小さな烏賊の干物 スルメが籠の中に入れられ、売られている。
 1キロ、2百バーツから3百バーツの値段である。
 スルメは好きであるけれど、年々歯が悪くなり、段々 歯が立たなくなってきている。
 広場の左側には 公園が出来、完成間近である。
 この公園が出来ると この辺りの姿も一変してしまうだろう。
 王宮広場の路上からこのティアン船乗り場までの路上には 本物か 偽物か
 わからぬような品物が 売られており、ちょっとした雰囲気がある。

 これから向かうところは サファン・プットである。
 チャオプラヤ・エクスプレスの水上バスで ティアン船乗り場からサファン・プット
 船乗り場まで行くという方法もあるが、歩いて15分ばかりの距離、何も13バーツ
 払って乗ることもない。
 サファン・プットに向かって歩き始めると 棟割長屋の中の一角に古風な感じで
 ありながら、ちょっと洒落たレストランがある。
 外国人好みのアンティークなインテリアにしている。
 イギリス、フランスが入り込んできて 文明開化した当時のバンコクの雰囲気を
 再現しているのだろう。
 メインは タイフードのようだ。

 道の向こう側には ワット・ポーの仏塔が並んでいる。
 20年以上 タイにいるが ワット・ポーもワット・プラケオにも興味は湧かず、
 1度も中には入ったことはない。
 あまりに きんきらかんとしていて その色合いの強さから、魅力を感じない。
 歴史をあまり感じさせず、権力ばかりを誇示している。

 しばらく歩き続けると ロッド運河に架かる橋に出る。
 この運河とチャオプラヤ川で囲まれた地域が ラッタナーコウシン島と呼ばれ、
 今の王朝がこのラッタナーコウシン島に王宮を造るまでは 中国人たちが住んでおり、
 王宮を造るために ロッド運河の向こう側に移住を余儀なくされ、それが中華街の
 始まりになった。
 このロッド運河を境に ラッタナーコウシン島を中心とした政(宗教行事も含めて)を
 行う聖なる地域と商いを行う俗なる地域がはっきりと分かれた。
 いわゆる庶民たちの生活場所も ロッド運河の向こう岸からだった。

 2百年以上前のバンコクの住民の大半は中国人で、アユタヤ王朝がビルマによって
 破壊され、王都をバンコクに遷都し、多くのタイ人たちが移住してきたのだろう。
 初めは タクシン王のトンブリ王朝が チャオプラヤ川対岸のトンブリ地区に出来たが、
 そのトンブリ王朝もタクシン王一代で終わり、その後を継いだラーマ1世によって
 ラッタナーコウシン島に チャックリ王朝が創設されたのである。
 当時はビルマ軍の侵略の脅威が残っており、チャオプラヤ川とロッド運河に囲まれた
 自然の要塞 ラッタナーコウシン島が 王宮の建設場所として選ばれたのである。

 このロッド運河も 洪水対策で 水門によって閉じられ、今ではチャオプラヤ川から
 船は 運河に入ってくることは出来ない。
 水門から1番近い橋だって、道路と同じ高さで造られ、その下を船は潜ることは
 出来ない。
 そして この運河の先の王宮広場近くでは 運河は地下に潜り、その姿は見えなく
 なってしまう。
 運河を利用した水上交通よりも 道路を使った陸上交通を有用したためだ。
 昔は この運河とその外側にあるオンアン運河を通って、王宮を中心とした
 旧市街地、中華街に物が運ばれて行ったのだろう。
 それだけでなく、バンコクで造られた無数の運河につながり、
 バンコクの重要な物流の要だったのだ。

 ロッド運河に架かる橋の上では 夕方から出てきた屋台が 商いを始めている。
 この橋を越えると パッククロン市場へと入って行く。
 バンコク有数の野菜、花市場である。
 人で込み合う歩道を抜けると サファン・プットのある通りに出る。
 もう6時近い。夕暮れ時である。
 今日は サファン・プットの上から チャオプラヤ川の夕陽を見ようと思って、
 この場所にやって来た。
 サファン・プットに向かう階段を上り、橋上へと向かった。



++ブログランキングへの協力をお願いします。++
   ** 忘れないでね **
          ↓

 にほんブログ村ランキングに参加しています。
 *面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
 [https://www.blogmura.com/ にほんブログ村]

 人気ブログランキングに参加しています。
 *面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
 [ http://blog.with2%2enet/in.php?590199 ]

閉じる コメント(6)

顔アイコン

ひとつの運河にも数々の歴史があるのですね〜
ほんとに勉強させていただいています、ありがとうございます

2009/9/30(水) 午後 10:48 [ sto*es*_88 ]

顔アイコン

旧王宮を中心として ロッド運河、その外側に オンアン運河、
そして パドゥン・クルン・カセード運河が整備されました。
この辺りまでが 旧市街地のようです。
又、中華街の端になります。
この3つの運河が バンコクという街の広がりの歴史を
現しています。

この3つの運河に沿ってよく歩きました。
それだけでもバンコクという街の変遷の歴史が見えてきます。

2009/9/30(水) 午後 11:02 [ hikaruno ]

顔アイコン

最初の画像の乾物屋さんあたりは、昨年ホテルスタッフに観光で
案内してもらったときにうろついたと思います。
大きな籠にたっぷり入っていたのを覚えていますし興味が湧きました。
運河の歴史も昔を辿ると実に面白そうですね。
一般的には知られていないタイの運河の歴史が面白そうです。

2009/10/1(木) 午前 1:53 [ BTTF ]

顔アイコン

運河の歴史は タイに連れてこられた戦争捕虜の歴史です。
ライス、カンボジア、南タイとマレーシアに跨っていたパッタニー
王国に戦争を仕掛けては 労働力としての戦争捕虜を確保していました。

センセーブ運河は パッタニーからの戦争捕虜を中心に造られ、
運河沿いには 彼らの末裔たちであるモスクを中心とした
イスラム教徒の集落がたくさんあります。

チャックリ王朝の初期には 運河や街づくりは 戦争捕虜によって
行われましたが、後には 中国からの出稼ぎ移民によって行われるようになりました。

この辺りの棟割長屋は ほとんどが サップシンと言われる王室財産です。王室が 賃貸しをしていますよ。
干物を売っている長屋もラーマ5世の時代に造られたものでしょう。

2009/10/1(木) 午前 3:05 [ hikaruno ]

顔アイコン

そう言われてみれば乾物屋さんの二階は以前hikarunoさんの記事で王室からの賃貸家屋の記事(ヤワラートあたりでしたっけ?)で紹介されていたものと類似していますね。

2009/10/2(金) 午前 1:37 [ BTTF ]

顔アイコン

ラーマ5世の時代には 王室が自由に使えるお金がなく、
銀行やセメント会社に投資したり、賃貸しの棟割長屋を造って、収入を増やしたようです。
ラーマ4世もラーマ5世も 奥さんや子供が百人以上いましたから、
彼らの生活の安定のために 頑張ったようですよ。
その基礎があって、今の王室は豊かになったようです。

2009/10/2(金) 午前 1:43 [ hikaruno ]


.
hikaruno
hikaruno
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

標準グループ

美術・工芸

日本の政治

海外情報

ニュース

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
友だち(5)
  • yag*o*ama
  • ミーヤー
  • はーちゃん
  • アジアや世界の歴史や環境を学ぶ
  • ピタル…☆
友だち一覧

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事