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カトマンズの中心部に ラットナパークと呼ばれる公園がある。
カトマンズ市内では 1番大きな公園であるが、百メートル四方程度の
公園である。
街の中心にあるだけに カトマンズ市民の憩いの場になっている。
公園の前の通りが カトマンズ市内を走るミニバスやティンプー(乗り合い
電気3輪車)乗り場になっているし、近くにカトマンズ近郊に向かうバスターミナルも
あるから、人々は時間つぶしにこの公園にやってくることも多い。
その公園の一角では いつものように市民討論会は開かれている。
若者、中年、老人たちが 集まってきて 適当なテーマで意見を言い合っている。
全くの赤の他人同士の集まりである。
ネパール人のこうした姿を見ていると 民族の違い、カーストの違いが有る国だけれど
それでも人間同士の距離は 日本人と比べるとはるかに近いように思える。
見知らぬ他人が 公園にやってきて 笑い声を上げながら、討論会を楽しむという
生活が 今の日本社会で考えられるだろうか。
日本の公園に行って、ベンチに座り込んでいる人になんとなく話しかけるということは
考えられないことだ。警戒されるのが落ちである。
ネパールにやってくるたびに どうして 日本とネパールでは 人と人の距離が
違うのかと不思議に思う。
生活レベルでいえば、ネパールの生活は 日本に比べればはるかに低いが、
人間としてのゆとり、他の人間に対する関心は はるかに大きい。
人々は 孤立しているという気持ちは 日本に比べると 小さいだろう。
アジアは共生社会であるとよく言われるが、ネパールの人々を見ていると
そんな実感が湧いてくる。
公園の中を見回してみても 一人でぼんやり座り込んでいる人などいない。
知らないもの同士で そばにいるだけで自然に会話が始まっていくのである。
それは公園だけのことではなく、小さな広場であれば、夕方近くなれば、人が
集まってきて、会話が始まるのである。
人が集まるから、路上の食べ物屋などもやってきて 生き生きした空間に変わって
くる。
それは共生空間といってよいものかもしれない。
こうした空間が街のいたるところ、路上のいたるところにある。
私がネパールに惹かれるのはそんなところにあるのだろう。
こうした生活に慣れてくると 日本の生活が実に味気ないものに見えてくる。
日本で生活している人からすれば、他人と係わり合いの少ない社会空間は 普通の
ことであるから、別に何も感じないのかもしれないが、ネパールやタイでの生活が
長いと 一歩外へ出ると 能面のような顔をしている日本人の姿は不思議なものに
思えてくる。
日本人にとって 戸外の共生空間はどこにあるのだろう、そんなものは必要のない
ものなのだろうか。
アジアの持つ共生社会から遠く隔たってしまったのか そんな思いが湧いてくる。
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作家の辺見庸さんの「しのびよる破局」によれば、現在の体制は生きた人間にとって耐え難いものになっている。人が人間らしく生きていけるような社会ではなくなりつつある、という風なことを書いておられました。特に日本は薄ら寒いものを感じます。秋葉のような事件も起きますよ。普通の青年が突然凶暴になる。ネパールのように貧しくても人間の連帯があれば、秋葉のような事件は防げたかもしれない。生体としての人間が悲鳴を上げている状況ですね。今の日本は。
2009/11/17(火) 午後 10:37 [ sabaibb ]
人間の賢さは 欲求不満の捌け口を 社会装置として作り出すことですが、その働きを制止しようとしているのが 今の日本です。
日本人に合っていた共生社会をつぶし、欧米型の弱肉強食社会、
強い個人主義をアメリカの言いなりに実行してきた結果です。
DNAが本来違う人種なのに 真似をするからおかしくなるのです。
そういう意味ではヨーロッパのほうが 弱肉強食型社会の限界を
わきまえているかもしれません。
いつまでもアメリカに従属していると 悲劇しか待っていません。
2009/11/17(火) 午後 10:56 [ hikaruno ]
少し飛躍するかもしれませんが、日本人同士の人間関係が稀薄になった原因の一つに、小売店の変化があるように思えてなりません。今や大型スーパーやコンビニなどに席巻されて、町の魚屋さんや八百屋さんはほとんど潰れてしまいました。昔は買い物には必ず会話が伴っていました。今はせいぜい「ありがとうございました。またお越しください。チーン」の一言で終わってしまいます。
会話沙漠に生きる都会人は、人とのつながりを必死に求めています。その現われが、電車の中でも、町を歩きながらでも携帯電話にかじりついている人々の姿ではないでしょうか。
2009/11/18(水) 午前 7:08
地域共同体の消滅と同時に 地域に根ざす小売店もなくなりました。
残っていても利用するのは老人ばかりで 若い人たちは コンビニか
スーパーですね。
人が生きて生活する街づくりという発想が失われ、建物さえあれば
それでいいという街づくりの結果です。
帰って行く場所が ただ寝る場所という世界になってしまいました。
寂しさを慰めるのが コンピューターゲームや携帯でのメールの
やり取りというのでは 寂しい限りです。
2009/11/18(水) 午前 10:30 [ hikaruno ]