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シェイフ・アフマドの息子チェーンも 父シェイフ・アフマドの資質、
外交・政治的手腕を受け継ぎ、プラサートトーン王に仕え、
右外務部でその力を発揮するようになる。
プラサートン王の27年にも渡る治世は、
シェイフ・アフマドの息子たちが王宮の中で勢力を拡げていくには
十分な年月であった。
プラサートトーン王の庇護の下、アフマドの息子たちは、王族・貴族との通婚を
繰り返し、権力の中枢へと入り込んでいったのだ。
プラサートトーン王死後も王位継承の争いが起こり、
プラサートトーン王の息子チャイも即位後3ヶ月で、
父の弟スタンマラーチャーと腹違いの弟ナーラーイによって殺され、
その後、王位に就いたスタンマラーチャーも即位後3ヶ月で殺され、
ナーラーイ王の治世にいたるのである。歴史は繰り返すのである。
しかし、アフマドの息子たちは
それには影響されないぐらいの土台をアユタヤの地に築き上げていたのだ。
以後200年以上に渡って存続していくアユタヤの王朝史は、
彼らのタイへの同化の歴史であり、アフマド一族の繁栄の歴史でもある。
シェイフ・アフマドの曾孫にあたるチャオプラヤー・ベットピチャイは仏教に
改宗し、その息子の一人チェーンは
アユタヤ最後のプラヤー・チュラーラーチャモントリー(イスラム最高指導者)、
もう一人の息子セーン チャオプラヤー・マハセーナは仏教徒に改宗した。
このセーンが、チャックリ王朝の中で王家をも凌ぐといわれ、
その権勢を誇ったブンナーク家の始祖である。
イスラム法から見ても仏教徒に改宗することは、死罪に値することだが
より深く権力の中枢の中に入っていくためには、
どうしても通り抜けなくてはならない敷居だったのだ。
ペルシャからやってきたイスラム教徒たちの権力の中枢部に入っていく
一つの戦略であったのかもしれない。
そのくらいの厳しい決意がペルシャからのイスラム教徒にはあったという
証拠にもなるだろう。
王家との結婚を繰り返しながら、
アフマドの子孫 ブンナーク家は権力の極みまで上り詰めてゆく。
あのタイの名君として誉れの高いラーマ5世の15歳での即位も、
ラーマ4世ではなく、王の摂政であったチュワン・ブンナークの管轄の下に
行われ、副王の任命も王でなく、摂政チュワン・ブンナークの承認を受け、
ウィチャイチャーン副王が即位するという有様だったのである。
ラーマ5世が自分の考え、方針を盛り込んだ有名なチャックリ改革を
実行できるようになるには、
摂政のチュワン・ブンナークと副王のウィチャイチャーンの死まで
待たねばならなかったのである。
その後、ブンナーク家の力を排除するための改革に手をつけていくのだ。
ブンナーク家にとっての最大の痛手は、ラーマ5世による奴隷制の廃止である。
その当時、奴隷は王侯・貴族の主要な財産であった。
ブンナーク家も奴隷を多く抱えることによって 莫大な利益を上げていたのである。
この奴隷制の廃止によって、ブンナーク家も没落していくのである。
チャックリ王朝に入ると、海外貿易は衰退していく。
ペルシャのイスラム商人の役割も終わりを迎えたのである。
しかし、シェイフ・アフマドは、墓場の影で笑っているであろう。
遠く故国を離れ、タイの地で一泡吹かせたのである。
考えてみれば、300年にも渡って、シェイフ・アフマドの野望・執念は
生き続け、権力を左右するところまで行き着いた一族の持続には、舌を巻かざるを得ない。
今なお、笑い続けているシェイフ・アフマドの姿が、思い浮かぶようである。
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