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1768年にゴルカからの豪族 プリティビ・ナラヤン・サハの侵略を受け、
征服されたカトマンズの民 ネワール族の新たな悲哀の歴史は続いていくのである。
カトマンズ盆地の中で大半の人口を占めていたネワール族 まとまって反乱を起こせば、
再び、国を取り戻す機会もあったように思われるが、カースト制にこだわり、まとまりを欠く
ネワール族は、ゴルカ王朝に逆らう勢力を形成することは出来なかった。
憧れの桃源郷 カトマンズ ネパールで唯一の文明社会を手にした
プリティビ・ナラヤン・サハの喜びの程は、如何程のものであっただろうか。
ゴルカ王朝では、上級警察官、上級将校にはチェットリ族を配し、下級兵士、下級警察官には
マガール、グルン、ライ・リンブー族を用い、ネワール族の監視を強めていったのだ。
当然のことであるが、ネワール族の兵士、警察官などはいなかった。
反乱の原因になる職業にネワール族を抱えるはずもない。
ネワール族とすれば、新しい支配体制の手足となり、ネワール族を監視する仕事に就くことは
嫌っただろう。
下級兵士として支配体制を支えたグルン、マガール、ライ・リンブー族の人たちは
後のラナ家専制(ラナ家による摂政制)の時代には イギリス軍の傭兵 ゴルカ兵として、
名を馳せるようになっていく。その命と引き換えに。
サハ家、ラナ家の支配体制は、ネワール族の力を削ぐことに専念したことだろう。
チベット・インドとの貿易も支配体制に協力的なタカリ族を優遇し、ラナ家の時代には
インドのマルワリ商人を優遇することで、ネワール族の経済力も削いでいったのだ。
世界に名を広めたネワール族の建築様式も、ラナ家の時代には、イギリスの建築様式のものに
変わっていく。
イギリス人の建築技師をネパールに招聘し、ラナ家の宮殿、シンハ・ダルバール、
現宮殿ナラヤンティ宮殿などを完成させていった。
寺院などもインド様式のものを建て、ネワール様式のものは、新たに建てられることはなかった。
国教もヒンズー教に定め、ヒンズー教徒優遇の体勢になっていく。
貿易、商業に従事していたサッキャ、トゥラダの経済力にも陰りが見え始めただろうし、
寺院も工芸を支えていたウダース(タムラカール、スタビ、シルッパカール、シラッカールなど
工芸に従事するカーストのグループ)たちの仕事も目減りをしていっただろう。
マッラ王朝時代の支配カースト シュレスタ・カーストの人々も、新たな生活の道を
探す必要に迫られただろう。
あるものは商業への道へ、あるものは新しい支配体制に従順を誓うことで、下級官吏の
職を得ただろう。
新しい支配体制の中での生き残りをかけて、すべてのネワール族は新しい生活の形を
模索し始めたのである。それを支えたのが、各カーストの中にあったつながりであり、
一族の強固なまとまりだ。
それが クル・デェオタを守り神とする一族集団で構成するグッティであり、
各地域ごとのグッティであり、同一カーストをまとめた組織だった。
プリティビ・ナラヤン・サハによって カトマンズに成立したゴルカ王朝も
有能な摂政であったビムセン・タパ(1839年没)までは安定していたが、その後は
王位継承争うに絡んだ側近たちのパンディ・チェットリとタパ・チェットリたちの内紛に明け暮れ、
ラナ家の創始者、ジャン・バハドール・ラナの台頭を許すことになる。
ジャンバハドールは 国王を幽閉し、権力を争う中で、残虐性を発揮し、ラナ家の専制制の基礎を
作ったが、そのジャン・バハドール・ラナもジャングルでの狩の際に、
1877年に なぞの死を遂げる。どうも暗殺だったようだ。
7年前に起こった王宮殺害事件のような血生臭い事件が ラナ家の中にも起こり、
ジャン・バハドール・ラナの直系である息子・甥たちのすべてが、ジャンバハドールの兄弟たちに
よって殺害され、シェムシェル・ラナ家に権力は移っていく。
それはラナ家の殺戮の血の歴史でもある。
首相であり、マハラジャであり、軍の指揮権を手にしたシェムシェル・ラナ家は、
強権・恐怖政治の中で力を発揮していくことになる。
こうしたラナ家の血で血を洗う姿を眼にしていたネワール族にとっては、
ラナ家は恐怖の対象でしかなかった。
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