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カトマンズの街を歩いていると、よく子供たちに出会うことが多い。
近頃、カトマンズも子供たちは高校資格試験を目指し、私立学校に通う子供たちが
多くなってきたが、それでも子供たちは、ゆとりのある子供時代を送っている。
春先にカトマンズ郊外のバクタプールの町に行った。
バクタプールは、カトマンズ盆地の中にあったネワール族のマッラ王国時代の
カトマンズ、パタンと並ぶネワールの王国の一つだ。
その日は、ビスケット・ザットラと呼ばれる春の訪れを告げるバクタプール最大の
祭りの前日で、バクタプールの広場には 次の日の祭りの時に練り歩く山車が置かれ、
子供たちもその神様を乗せる山車に乗り込んで、祭りの訪れを待ちわびていた。
ネパールの子供たちの顔の表情を見ていると、ゆとりのようなものを感じてしまう。
追いかけもせず、追いかけられもせず、自分のペースで生活しているというゆとりだ。
日本の子供のように 小さいときから将来の目標を定めて、頑張っている姿とは
別のものである。
大人も同様だ。
商売や仕事を目的にやって来た日本人は、ネパール人の仕事ぶりを見て、驚き、
溜息をつくことが多いだろう。
ネパール人にとっては、仕事は生活の糧を得るために仕方なくやっていることで
あって、大切なことは生活を楽しむことである。
それは子供たちにとっても同じことだ。
ネパール人も、冷蔵庫、テレビ、オートバイ、自動車、快適な生活は望んでいる。
しかし、生活の楽しみや人との付き合いを狭めてまでして、物質的な豊かさを
求めないのではと思う。
だから、無理がないし、置かれている環境の中で、出来ることを自然体で行うだけだ。
そして、自分の分もわきまえている。
日本であれば、仕事が出来る、勉強が出来る、運動能力に優れていると、
人間を狭い枠の中で評価してしまいがちであるが、ネパールあたりは、人間を見る目が
もっと広いようだ。
能力主義を第一とする社会では、そこを外れた人間を過小評価してしまいがちである。
それは子供たちの間でも同じだ。
少し変わっている子供は、すぐにいじめの対象になるというのが 日本の姿だ。
ネパールでは、大人も子供もその辺の許容範囲が、日本に比べると格段に広いようだ。
ネパールやインドはカースト社会である。マイナス面も確かに多い。
ただ、社会にはさまざまの人間がいて、それで成り立っているという寛容の精神は
日本より様々の場所にいきわたっているように思う。
民族も50以上でその習慣も文化も違うから、違いを受け入れなくては
やっていけないのも確かだ。
日本だって、戦後のどさくさの貧しい生活の中では、生きることが優先され、
多様な価値観があったし、それを受け入れる柔軟性もあったはずだ。
この前までゆとりの教育といわれていたと思ったら、今度は学力重視、
教育とは何かという問いのない中で、親も子供も教師も右往左往している。
何のための教育、誰のための教育ということが問われていない。
狭い学力教育は、ますます、子供たちを狭い人間の見方に追い込んでいくだろう。
そして、そこで適応できない子供は いじめの対象になっていくのは眼に見えている。
大人の中の能力主義、子供の中の学力主義、世の中は、益々味気ないものになっていく。
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