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バグマティ川の岸辺周辺にあるスクムバシ(スラム)や人口の密集した集落を
歩いていると 子供の数の多さには 驚いてしまう。
ネパールの休日である土曜日や学校の終わった夕方4時を過ぎた頃に そんな
人口密集地域に行くと 子供たちで溢れかえっている。
貧乏人の子沢山という言葉があるが、その言葉通りの姿である。
昔の日本もそうだった。
子供たちが群れを成して遊び、その集団も同じ年齢の子供たちではなく、
様々な年齢の子供たちが 混ざり合って 遊びに興じており、年上の子供たちも
上手に小さな子供たちを受け入れている。
子供たちの中での文化伝達機能が まだまだ息づいているカトマンズのスラムの
中での子供たちの社会だ。
大人に干渉されず、子供同士で徒党を組んでいる子供たちの表情は
実に生き生きしている。
群れを成して遊ぶことのなくなった日本では もう失ってしまった日本の子供たちの
姿である。
薄汚れた服を身につけ、汚れることなど厭わず、遊び呆けている子供たちの集団を
見ていると、4,50年前に 子供であった自分たちの姿が重なってくる。
スラムの中にも 大人たちの間には カーストや民族の違いに対する意識はあるが、
弱い 虐げられているもの同士であれば、カーストや民族を超えて助け合うことが
一番大切なことで いつこの土地から追い出されるかわからない生活の中では
まとまりは大切な要素である。
スラムの住民たちが 水不足で困っていれば お金を出し合って、井戸を掘る、
地下水を汲み上げるための手押しポンプを設置する、飲み水をためておくための
大きなポリタンクを設置するなどの協力体制はある。
そんなスラムの中で生活する子供たちは カーストや民族の違いなど気にせず、
群れを成して遊ぶ。
昔からある古い集落に住む大人や子供たちに比べると カーストや民族の違いに
対する意識からは はるかに解放されている。
こんなスラムの中から ネパールを変えていくリーダーが育ってくれば、
ネパールも大きく変わっていくだろうが、高カーストのバウン族、チェットリ族など
カーストに対して強い意識を持つ人間たちが 国を支配している限り ネパールが
大きく変わっていくことにはまだまだ難しい。
カーストや民族を超えて協力し合って 国造りをするというのが ネパールの最も
重要な課題であるが、それが実践されているのが スラムの大人や子供たちの
日常である。
友達とか仲間とかという言葉は 日本では随分薄っぺらなものになってしまっているが、
カトマンズの貧しい庶民たちの間では まだ生き生きした光を放っている。
その光にあふれた姿が カトマンズの貧しい庶民たちの子供の中にある。
もう日本では こんな当たり前といってよい子供たちの姿を見ることは出来ないの
だろうか。
生き生きと逞しい野性味あふれた子供たちはどこに行ってしまったのだろう。
ここ30年の日本社会の変化は 日本の子供たちから 確実に生気を奪っている。
本当にそれでいいのかと問いかけたくなる。
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