バンコク 風情

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 ワット・テープティダラムのすぐ脇には ロッド・テープティダ運河が流れている。
 この運河は ラタナコウシン朝の創始者 ラーマ1世によって ラタナコウシン島を
 形作る古い運河 ロッド運河と新たに造られたオンアン運河をつなぐために造られた
 運河である。

 オンアン運河とロッド運河をつなぐこのロッド・テープティダ運河の河畔には
 貴族の屋敷がたくさん建ち並んでいる。
 大半は ラーマ4世、5世の時代に建てられた王族・貴族の屋敷である。
 旧王宮に近づけば、近づくほどそうした屋敷は多くなる。
 大きな屋敷であれば、ラーマ4世、5世の息子や孫の屋敷だったのだろうが、
 今では その屋敷の周辺には バンコク庶民たちが住み着き、その木造の家々に
 隠れていて、眼にすることは難しくなっている。
 ラーマ4世もラーマ5世も 百人を超える妃がいたといわれ、その子供や孫たちの
 ために 屋敷を用意するというのは大変なことだっただろう。

 1932年の立憲革命以降、一般庶民に移動が認められるようになり、多くの人々が
 地方から仕事を求めて入り込んでくるようになる。
 ラーマ7世の時代以降は 王室の権威・地位が 立憲革命政府によって、貶められて
 いた時代であったから、地方から流入してきた人々は 広い敷地を持つ王族や貴族の
 屋敷の周りに住み着くようになったのだろう。
 土地は王室のものではあるが、木造の家は自分のものであり、地代を王室財産管理局に
 納めるといった形になっている。
 バンコクの中には 王室財産管理局に地代を納めて 住み着いている場所が意外と
 多い。

 路地裏に入り込んでみると 白亜の立派な屋敷があり、その所有者はラーマ5世の
 曾孫であるらしいが、しばらくの間は学校として使われていたらしいが、今は誰も
 住んでおらず、時々屋敷の様子を見にやってくるだけらしい。
 この屋敷の周りには 数十年前から住みついているバンコク庶民の木造の家が
 密集している。
 今では 車も入ることが出来ない状態になっており、こんなに密集した場所に
 住む気もしないだろう。
 皆 バンコク郊外に広い敷地のある屋敷を建て、引越をしたのだろう。

 百年前なら バンコクも人口が少なく、ロッド運河とオンアン運河を結ぶ
 このテープティダ・ロッド運河周辺は王族・貴族の屋敷が 広い敷地の中で 
 その美しい姿を見せていたのだろうが、今では朽ちるに任せている屋敷も多く、
 密集した集落の中では その栄華を僅かに残すばかりである。

 暑さに疲れ、歩き回ることが限界になり、再び パーン・ファイ船乗り場へ行き、
 水上バスに乗り、帰路へと向かった。

 以前 このテープティダ・ロッド運河周辺をよく歩き回った。
 そのときに記事にしたのが 以下のものである。
 興味のある方は お読みください。

 バンコクを歩く−14 四つの運河に囲まれて住む人々‐2
 http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season/15949979.html

 バンコクを歩く−14 四つの運河に囲まれて住む人々‐3
 http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season/16003642.html

 旧市街の中で今も生活する人々の姿がレポートしています。
 長い歴史を持つ地区は 歩き回っているだけで 心惹かれる情景に出会うものです。



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 センセーブ運河を走る水上バスの始点であるパーン・ファー船乗り場で 
 センセーブ運河とオンアン運河が交差する。
 オンアン運河は ラタナコウシン朝の創始者であるラーマ1世によって、ロッド運河の
 外側の都心部を護るために造られた。
 その後、センセーブ運河が造られ、 運河が掘られた当初は マハナーク運河と呼ばれ、
 それが長く東 に延長されてから センセーブ運河と呼ばれるようになった。
 この運河の延長によって、運河による水上交通は大きく発展し、バンコク発展の基礎に
 なったのである。

 チャオプラヤ川の川向こう トンブリ地区から王都を中国人の住んでいたラッタナ
 コウシン島に移し、王宮を建造し、ラタナコウシン島を形作るロッド運河の外側に
 貴族たちの住まいが建てられた。
 その外側に造られたのがオンアン運河である。
 チャオプラヤ川河畔からこのオンアン運河に囲まれた地域が ラタナコウシン朝の
 初期の時代の旧市街だったのである。
 その当時、移住を余儀なくされた中国人たちの住まいもオンアン運河の内側に
 あったようである。

 ラーマ1世からラーマ3世の初期の時代までは 国造りに邁進していた時代で 
 タイへの侵略を繰り返していたビルマが イギリスの植民地になるまでは 
 ビルマは相変わらずシャム王国の脅威であり、街を護るにはこのオンアン運河が
 唯一の防御壁になっていたのである。

 この時代にオンアン運河の内側に住んでいた人たちといえば、王族や王族に仕える
 貴族官僚、僧侶、職人、中国人、パッタニ王国からの戦争捕虜といった限られた
 人たちであったに違いない。
 その当時は この旧市街の中では 死者を火葬することは許されておらず、死者の
 火葬のためには 旧市街の外、オンアン運河の城壁の外側にあるワット・サケットの
 火葬場が使われた。。
 死者による穢れ、ピーの存在に対する恐怖も含まれていたのだろう。

 旧市街の外側にあるワット・サケットの境内には プーカオ・トーン(ゴールデン・
 テンプル)と呼ばれる黄金色に輝く仏塔がある。
 敷地が不安定なことから、建造が難しく、ラーマ3世の時代から建造が始まったが
 完成したのは ラーマ5世の時代である。

 ラーマ2世の時代であるが、疫病(ペスト)が蔓延し、死者は3万人にも及び、
 その遺体は ワット・サケットの境内に捨てられたと言われている。
 オンアン運河にも多くの遺体が浮かび、チャオプラヤ川に向かって流れていった。
 ラーマ2世の時代のバンコクの人口といえば、10万人もいなかっただろう。
 住民の半数近くが 疫病で命を落としたのではなかろうか。
 あの黄金色に輝くプーカオ・トーンの仏塔の地中には その当時 疫病で命を落とした
 人々の屍があると思うと 空恐ろしくなるところもある。
 プーカオ・トーン周辺には 何か薄気味悪い雰囲気もあるのだ。

 オンアン運河は 造られた当初は チャオプラヤ川から人や物資が 市街地に入って
 くるための水上交通の要として大きな役割を果たしたのだろうが 今では サファン・
 プットから始まるこの運河の水門は閉じられ、その反対側のカオサーン通りの先にある
 水門も閉じられ、水位も低くなり、運河としての役割は終わってしまっている。
 ロッド運河に架かる橋の袂で 子供たちが何人か 集まっているが 何を探している
 のだろう。
 魚など棲んでいそうにもないのだが・・・。
 こうした運河の再生が バンコクの生活環境改善の指標になるのだろうが、なかなか
 成果をあげていないのが現状のようだ。

 パーン・ファー船乗り場のすぐ近くに ラーマ7世記念博物館がある。
 建物は 商売のためにアメリカからやって来たアメリカ人の持ち物であったらしいが
 そこがラーマ7世に関係する博物館になっている。
 1932年の軍による立憲革命の際の国王であったわけであるが、革命後に出来た
 政府が 約束通りには 議会政治をいつまで経っても始めず、眼の治療を理由に 
 イギリスに渡り、国王の地位を捨て、亡くなるまで 再びタイの地を踏むことの
 なかった悲劇のラーマ7世だった。



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 水上バス乗り場の始点であるパーン・ファー船乗り場で下りて、白塗りの
 マハカーン砦の脇を通り抜けるとき、花火の宣伝をしている若者たちが
 「ドグマイ・ファイ、ドグマイ・ファイ(花火、花火)」と声をかけてくる。
 マハカーン砦の先にある集落に住む若者たちである。

 1年前も集落の路地では 花火を売っている店はあったが、こんなに派手には
 売ってはいなかった。
 どうした変化なのだろうか。
 タイ人相手の商売なのだろうが、中国人の大きな行事の際、爆竹の音には驚かされても
 個人的に 花火を楽しんでいる姿は見たことはない。
 大きな政府の行事や新年を迎えるときに 華々しく打ち上げ花火を打ち上げることは
 あるのだが。

 路地の中の花火屋の中を覘いて見ると 確かに大小、形、様々の花火が並んでいる。
 集落に住む女性たちが 座り込んでいる。
 「花火は よく売れるか」と訊くと 「あまり売れないよ」と応えるが
 さほど困っているという様子でもない。

 集落の中心部にあたる広場に行ってみると 集落の子供たちが 
 集会場のような場所で遊んでいる。
 集落の中心にこんな広場を造っていることを見ても、この集落が 人々が勝手に
 住みついて出来た集落でないことがよくわかる。
 こんな広場があることで 親たちも 子供たちを安心して遊ばせること出来る。

 今日は日曜日、子供たちの姿が目立つ。
 花火を売るための呼び込みをしている若者たちも 休みということで手伝っているの
 かもしれない。

 ラーマ3世の時代に土地を与えられ、それ以来 この場所に住み続けている人々である。
 前にも話したように宮廷の楽師として働いていた人たちの末裔である。
 旧市街の端っこにあたるオンアン運河沿いに土地を与えられたということは 
 楽師というのは あまり身分としては高くなかったのだろう。

 この集落も 古い昔からの時代を経た集落特有の落ち着きはある。
 この集落のすべての住民は 皆 血のつながった親戚のようなものなのだろう。
 次に訪ねたときには そんなことも訊いてみたい。
 不思議にこの集落には 犬が飼われていない。
 猫が 全く無防備に眠り呆けている。
 こんな猫の姿を見るだけでも この集落の人間関係が 安定していることがわかる。

 木造の古い住宅に傷みは見えるけれど、ここの住む人々の心が荒れているとは思えない。
 時代の流れには うまく乗ってはいけない人々かもしれないが、生きていくために
 大切な人間関係は 充分に残しているようだ。
 安定した人間関係のある集落はどこでも 三世代家族の形が残っているから
 不思議である。
 この集落の生活習慣や生活文化が 三世代家族という形態の中で途切れることなく
 継承されているのだろう。



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 古風でモダンなカフェの周りを散策し、パーン・ファー船乗り場へと向かう途中、
 ワット・テープティダラムという仏教寺院がある。
 いつもであれば そのまま通り過ぎてしまうのであるが、この寺院の4箇所に
 建てられている仏塔が気になって 中に入ってみた。
 仏塔の形が チャオプラヤ川のトンブリ地区河畔に建てられているワット・アルンの
 仏塔の尖塔部分によく似ていたからだ。

 このワット・テープティダラムは 1836年から1839年にかけて 
 ラーマ3世によって 建てられた。
 一方 ワット・アルンは ラーマ2世の時代から建造が始まり、ラーマ3世の時代に
 完成したということなので ワット・アルンの仏塔の尖塔部分とこのワット・
 テープティダラムの周りに建てられた4つの仏塔には時代的には合う。
 ワット・アルンの仏塔の尖塔部分を真似て、この寺の仏塔を建てたのか、ワット・
 アルンの尖塔部分と造るにあたって 見本として この4つの仏塔を建てたのかどうか
 それはわからない。

 この寺の本堂に入る入り口の扉は閉じていたので 裏側に回ってみると 裏口の扉は
 開いていた。
 少し、薄暗い本堂の中に入ると 通路脇に 小ぶりの品のよい金塗りの仏像が
 置かれている。
 本尊は 白い大理石の仏像のようだ。
 その像はルアン・ポー・カーオと呼ばれている。
 白い国の守り神のような意味があるのだろうか。
 本堂の中の装飾も 本尊の姿も 仰々しさがなく、しっとり落ち着いた雰囲気を
 醸し出している。
 この寺が建てられた当時の様子をそのまま残しているような感じがするのである。
 本尊のルアン・ポー・カーオが鎮座しているのは 船の上である。
 仏陀は 船に乗って シャムの地にやって来たとでも言うのだろうか。
 そんな伝承があっても不思議には思わないし、この寺の雰囲気、仏像 ルアン・
 ポー・カーオの穏やかな控えめな姿を見ていても そんな気がしてくる。

 この寺は ラーマ3世が 若くして亡くなった娘のために建てた寺だと言われている。
 本堂の中には ラーマ3世の肖像画とその娘の肖像画が飾られているから、
 そうだったのだろう。
 隣にあるワット・ラッチャナダはラーマ3世が姪のために建てたと言われている。
 ラッタナーコウシン王朝も ラーマ3世の時代に入って、やっと安定した国の運営が
 出来るようになったことが 数多くの寺院の建造に現れている。
 西洋文化の影響もまだ入り込んでおらず、タイ独自の文化が花開いた時代でもあるのだろう。
 次の時代 ラーマ4世の時代には 英国、フランスなどの列強の国々が シャム王国に
 大きく影響を与えるようになるのである。

 この日は いい寺を見て、得をしたような気持ちになった。
 後日 もう一度 日曜日の休日にやってきたら、白い衣服を身につけた女性信者たちが
 本堂に座り込んで 読経に励んでいた。
 この寺院の穏やかな優しさには こんな風景が良く似合う。




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 古風でモダンなカフェで チャー・マナーオ(ライム入り茶)を飲み終わり、
 カフェの裏口から外に出る。
 そこは 昔 市場として使われていた建物がある。
 昔 市場であったその建物の入り口は トタンで閉じられ、物置のような場所に
 なっている。

 一体どうしたのだろう。
 この辺りには 多くのバンコク庶民が住んでいる。
 この近辺を以前よく歩き回ったが 市場のようなものは ここ以外に見かけなかった。
 話を聞いてみると 4,5年前に この市場の所有者が 建て替えを理由に 
 市場を閉鎖し、市場の中で商いをする人々を追い出し、そのままに捨て置かれている。
 この市場の持ち主は どうも大金持ちらしく こんな市場の一つや二つは捨て置いても
 困ることはないようだ。
 1番困っているのは 市場を失った周辺の住民だろう。
 屋台での食べ物商売の材料や食堂での材料、一般庶民の朝夕の食事の材料を安く手に
 入れようと思えば、遠くの市場まで行く必要があり、不便である。
 訊いてみても この周辺には他の市場はないようだ。

 この辺りには 古い木造住宅に昔から住み着いている人や間借りの人たちも多いようだ。
 旧王宮広場近くのロッド運河沿いの路上で屋台を並べて食べ物の商いをする人も多い。
 しかし、1番の打撃は 市場周辺で店を開いて商売をしていた人たちだろう。
 市場があれば、それだけで朝夕 人々が多く集まり、活気を呈し、商いも繁盛する。
 市場は街の生活の中心である。
 私の住んでいる近くの下町でも 市場は 生活の中心であり、そのために 
 街も活気付いている。
 そんな活気が 市場を失ったこのあたりでは すっかり失われてしまっている。

 バンコクや地方都市の市場は その所有が個人のもの、あるいは王室や市のもので
 あったりする。
 土地や建物が 個人や企業のものであれば、その賃貸し料や条件を巡って、
 市場の
 所有者と借り手の間で 争いが起こることが多い。
 ひどい場合は 暴力を使って 借り手を追い出そうとすることもある。
 バンコクの中心部の中で最も大きな市場 クロントーイ市場では 賃貸し料を巡って
 争いが起こり、死者まで出ている。
 マフィアを使った爆弾事件、発砲事件で死者が出ることになるのである。
 クロントーイ市場では 借り手いる側のまとまりがあるから、抵抗しているが、
 小さな市場であれば、抵抗も出来ず、泣き寝入りになってしまうのが普通である。

 地域に住む住民のことより、アパートやショッピングセンターを建てて 
 金儲けをすることのほうが優先されるのである。
 そして ショッピングセンターで 住民たちは高いものを買わされることになる。
 市場を維持するお金より、ショッピングセンターを維持するお金の方が
 はるかにかかることを考えれば 当然のことだろう。

 市場を失い、すっかり 寂れてしまったこの界隈を見るにつけ、残念でならない。
 この辺り、バンコクの旧市街の中でも バンコク庶民たちが住む地区の一つだ。
 庶民の生活の場所から 市場が失われると、住んでいる庶民たちからもエネルギーを
 奪い取ってしまうようである。
 市場があった時代の街の賑わいを見てみたかったものである。



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