バンコク 風情

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 サファン・プットのすぐ横にかかるプラ・ポックラオ橋を歩いて、
 チャオプラヤ川を渡りトンブリ地区に入る。
 橋の途中で下流を眺めると、高層ビル群が蜃気楼のように浮かびあがっている。
 その眺めだけであれば、近代都市である。

 いつもであれば、橋を下りて右側に曲がるのであるが、
 今日は左側に曲がって トンブリ地区の川沿いの街を歩いてみることにする。
 橋を渡り、100メートルばかり歩くと、ソイ ウタイ(ウタイ通り)に出会う。
 その通りに入ると、木造の古い家屋があり、
 60歳を越えた中国人たちが座り込んでいる。
 写真を撮らしてもらい、話をする。
 彼らの父母は中国潮州からやってきて、自分たちはバンコクで生まれたという。
 木造の家屋も建ててから、60年になるという。
 計算すると 第2次世界大戦後ということになる。
 その時代はラオスが社会主義国になり、
 ラオスからバンコクに非難してきた潮州出身の中国人も多かったはずだ。
 
 このあたりには中国人がまとまって住んでおり、
 木造の家々は、皆 築50年は経ているようだ。
 中国人がまとまって住んでいる割には、あまり活気はない。
 この地区の対岸にある中華街とはその賑わいはあまりに対照的だ。
 少し奥にある路地に入ると、中国式の長屋が軒を並べている。
 すぐ近くに運河もあるが水門が閉じられ、交通の用は果たしていない。
 この運河を利用して様々の物品が運ばれてきた頃は、
 この地区も活気にあふれていたのだろう。
 今は 運河のそばで釣りを楽しんでいる人を見かけるだけだ。
 チャオプラヤ川のすぐ近くのせいか、意外と水は澄んでいて、泳いでいる魚の姿が
 見える。釣った魚は、食膳に上がるようである。
 しかし、すぐ近くの水門の後ろの運河は すっかりどぶ川だ。

 あたりをふらふらと歩き続けていると、タイ人の住む地域に入る。
 建てられている家も急にみすぼらしくなる。
 商いも細々と行われていて、1日の糧を稼ぐには充分だとは思えない。
 間借りをしている人たちが多く、
 皆出稼ぎの人のようで顔つきもタイ人のようでもない。
 長くこの場所に定住している人たちの雰囲気はない。
 以前に住んでいた家主が出稼ぎの人に貸しているのだろう。
 近くの中国人の地域には 活気はなくとも、
 ゆとりを持って生活していることがわかるが、タイ人の生活している地域は、
 ぎりぎりで生活していることが伝わってくる。
 中国人の店に安い給料で雇われれば、できるだけ安い間借りを探すより仕方がない。
 未来が全然、見えてこない生活である。

 近頃は貧富の差があまりにひどすぎるバンコクだ。
 長年 タイの支配者が貧しいものたちに教え込んできたことは
 『チャイ イェン』 興奮して自分を失わないこと
 『クレーン チャイ』 遠慮深いこと
 この二つを美徳として教え込んできた。
 理不尽な眼にあっても我慢すること、多くを要求せず与えられたものに満足すること
 このことが守られなければ、警察や軍隊を使って、
 貧しい人たちの要求を 絶えず押さえ込んできた。
 いつまでもこんなことは続くのだろうか。
 貧しい人たちは、なけなしのお金で タム・ブン(徳を積み、喜捨をする)をして、
 来世に期待するよ り仕方がないのであろうか。


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 花と野菜のあふれるパクローン市場のすぐ横にあるラッチニー船乗り場から
 渡し船に乗って カラヤーナミット船乗り場まで渡ると、
 古い中国廟とワット・カラヤーナミットという大乗仏教の寺が
 ある。中国廟(建安宮)の前のチャオプラヤ川に沿った岸辺の遊歩道を少し歩くと
 集落の中に入っていく木で作った細い道がある。
 家の中に入っていくように見える道だが、この道を少し行くと路地に入って行く。
 そこがアユタヤ王朝時代に傭兵として、
 チャオプラヤ川を警備していたポルトガル人傭兵たちの末裔の住む集落である。

 このポルトガル人と山田長政を首領とした日本の傭兵部隊とは因縁がある。
 アユタヤ王朝の時代に、ビルマとの戦闘の際、ビルマ側にもポルトガル人の傭兵がおり、
 ポルトガル人同士の同士撃ちになると、鉄砲を発射せず、
 ビルマ兵をそのまま通過させてしまった。
 そのことから、ポルトガルの傭兵に対する信頼が失われ、日本の傭兵需要が増し、
 日本の傭兵の価値が上がっていったのである。
 400年前の話である。

 そのポルトガル人の末裔が、サンタクルーズ教会の周辺の集落には多く住む。
 彼らは、カソリックのキリスト教徒である。
 住んでいる人の顔つきを見てもポルトガル人を思わせるような容貌は
 どこにも感じられない。
 タイ人との通婚を繰り返す中で、すっかりタイ人化してしまっている。
 残っているのは、彼らの宗教のカソリックのキリスト教と、
 ポルトガル人が教えたという甘いお菓子のカステラだけだ。
 タイではカノム・ピンと呼ばれているらしいが、ここではカステラといっても
 通用する。
 日本のカステラと同じと思われては困る。むしろマドレーヌのようなお菓子である。
 集落の中では、このお菓子がポルトガル人の末裔たちによって、作られている。
 アヒルの卵を使っているが、バターをあまり使わないせいか、しっとりはしておらず、
 少しぱさぱさしている。やはり、日本のカステラの方が美味しい。

 このトンブリ地区には様々の宗教の寺院がある。キリスト教、イスラム教、大乗仏教、
 道教のお寺があり、すべてこれらは、タイの外からやってきた宗教だ。
 ポルトガル人、ペルシャ人、インド人、中国人、アラブ人 その時々の王朝は、
 外国人である彼らを優遇してきた。彼らの持つ商才や技術を必要としたからだ。
 タイ人と同化し、従順ささえ示せば、快く受け入れたのである。
 この従順さが、決め手なのである。
 従順さを装いながら、その地に深く根ざしていく、それが外交能力というものだろう。
 その能力にかける日本人は、掃討され、タイに根付くことは出来なかった。
 日本人の外交べたはこの時代から始まっていたのだ。
 今、タイに入ってきている企業も山田長政の二の舞にならぬように、
 儲けを持って帰ることばかり考えず、タイに根付くことにも同時に考えた方が良い。
 
 アユタヤ王朝時代から400年以上に渡って
 バンコクに生き続け、信仰を護ってきたポルトガル人の末裔に拍手喝采である。


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 ダウンドゥン船乗り場からプラアティッド船乗り場へとチャオプラヤ川を渡る。
 客は私一人だけ、申し訳ないような気分になる。
 運賃は5バーツである。ガソリン代にもならないだろう。
 この渡し舟が込むのは、朝の通勤・通学と夕方のその帰りの時間帯だけなのだろう。
 船長ともう一人の乗組員、二人とも女性だった。ちょうど昼飯の最中だった。

 船が岸辺を離れると、7,80年以上前に建てられた貴族の大邸宅が眼に入ってくる。
 誰も住むものもなく、打ち捨てられている。
 この豪邸を打ち捨てるほどの財産家だったのだろうか。
 持ち主はこの邸宅を捨てて、どこに消えてしまったのだろう。

 昔はチャオプラヤ川の岸辺に家を建てることが、ステイタスシンボルであったという。
 時代の趨勢がこのトンブリ地区から、対岸のバンコクに移るに従って、王族・貴族も
 対岸へと移住して行ったのだろう。
 こんな豪邸の中で、華やかなりし日々には何が催されていたのか、
 想像は膨らむ一方だ。

 対岸のプラアティッド船乗り場に着く。
 ここから、チャオプラヤ・エクスプレスボートで、
 ラッチニー船乗り場へ行くつもりだったが、船賃はいつの間にか13バーツから
 20バーツへと値上がりしている。距離に関係なく一律20バーツである。
 そこには又の機会に行くことにして、歩くことにする。

 10分も歩くと、再びプラ・ピンカーオ橋までやってくる。
 プラ・ピンカーオ橋を渡り、バンコクノーイ運河によって、
 二分されているバンコクノーイの北側を歩いてみることにする。

 ここにも利用されなくなった運河が打ち捨てられている。
 運河の水面にはプラスティックの袋、容器が朽ちることなく浮かんでいる。
 運河とともにトンブリ地区そのものが、打ち捨てられている気さえしてくる。
 バンコク都心部とこのトンブリ地区の差は、どうしたものか。
 どんどん発展していくバンコク都心部、庶民の住むトンブリは行政から
 全く無視されている。

 呆れながら、歩き続けていくと、ここには、打ち捨てられた仏教寺院がある。
 境内は駐車場になっている。
 寺院の建物といえば、雨露でその華やかな色はすっかり失われ、
 朽ちてゆくのに任せている。
 しかし、黒い仏像というのも珍しい。大半は、金ぴかの仏像なのに。
 信仰深いタイ人の一面がここにある。
 豪華絢爛たる寺院以外は、有難みがないのだ。見た目の素晴らしさがすべてなのだ。
 なんともいえない功利的なタイの仏教だ。
 お金を出来るだけ多く喜捨すれば、それだけ幸せな来世が、保証される。
 貧しきものはそれだけでもって救われるのではなく、貧しいがゆえに救いはない。
 タイは仏教の国で階級はないように見えるが、
 王族・貴族の末裔のために都合よく作られた社会なのだ。


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 100メートル近くに渡って続くこの商店街、日本人の目から見れば、
 小汚い店の集まりにしか見えないかもしれない。
 しかし、この通りには、ここに生活する人々の濃厚な空間がある。
 高度経済成長の中で、日本が失い続けてきた、あるいは、破壊し続けてきた
 生き生きとした人間の生活がある。
 バンコクの都心部も 
 日本を アメリカを追いかけるモダーンライフが浸透してきている。
 人と人のつながりを失った都会砂漠である。
 人間性よりは経済を優先してきた国や企業に翻弄され続けてきた結果である。
 長い時間をかけて侵食された人間生活の崩壊は、気づくことが出来ない。

 事実を確かめることもなく、マスコミに踊らされ、騙され続けていることすら、
 わからなくなっている。

 そんな世界と別物のものが この通りにはある。
 金持ちなどいない。毎日の生活を精一杯生きている人間がいるだけだ。
 ここには、贅沢もなければ、飽食もない。
 ごくありきたりのものを身につけ、ごくありきたりの食を摂る生活である。
 マスコミに踊らされ、何十万もする衣服を身につけ、何万もかけて食事をする
 人間はいない。

 食事時になれば、通りで売られている惣菜を買い、つつましく食べるだけである。
 家の中での生活に飽きれば、通りに出てきて、井戸端会議をする。
 ここには豊かな共同体がある。
 気取った人を寄せ付けない雰囲気は微塵もない。
 「サワッディ(こんにちは)」と声を掛ければ、笑顔が返ってくる。

 人々の生活が、通りの中で生き生きと気楽に溶け合っているのを眺めるのも、
 このバンコクにあっても久々ぶりのことである。
 通りが、情報交換の場になり、心温まる交流の場になって、
 生活していく上で何の障害もなく自然に時間が流れていく。
 この通りを愛する人々がいればこそ、生まれてくる豊かな空間だ。
 もう今の日本では取り戻すことの出来ない世界だ。
 たいした国だ、日本はとつぶやいてみる。

 グリム童話の『ハーメルンの笛吹き』の中のねずみのように
 川の流れの中になだれ込んで滅亡してしまうのであろうか。
 節度のない文化、抑制のない文化とは、そういうものだ。
 あの笛吹きは、日本で言えば、何なのだろうか。
 答えは、あなたの中にある。



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 この頃は、チャオプラヤ川の川向こう、トンブリに興味を惹かれている。
 昔ながらのバンコクが残っているからだ。
 近代化を大急ぎで進めているバンコク都心にいると、圧迫されて、
 息が詰まりそうに思えてくるからだ。

 今日は、バンコクノーイの少し先にあるイーカン地区にいってみた。
 王宮広場(サナン・ルアン)からチャオプラヤ川沿いにテクテクと歩き始める。
 陽射しは強いが、歩くのが当たり前の生活になっているので、
 始めのうちは気にならない。しかし、家に帰ってからが、疲労回復が大変だ。
 外国人ツーリストもバンコクの中を良く歩く。
 彼らが歩くのは、バスを利用する自信がないからだ。
 循環バスの車掌相手では英語は通用しない。
 近頃では歩くことに関して言えば、彼らには負けない。後の疲労は別にして。

 チャオプラヤ川の上流に向かって歩き始めると、
 トンブリ地区へと結ぶピンカーオ橋(サファン・ピンカーオ)に出会う。
 イーカン地区には行くのには プラアティッド船乗り場から渡し舟に乗って
 ダウンドゥン船乗り場に渡ればいいのであるが、
 折角向こう岸に渡るピンカーオ橋に出会ったのであるから、この橋を渡ることにする。
 橋の上に上ると、チャオプラヤ川の流れが一望出来る。価値ある眺めだ。
 このチャオプラヤ川は、何百年にも渡って、タイの交通の要であったし、
 今尚健在であることが、行きかう船の多さでわかる。
 港市国家のアユタヤの交易を支えてきたのもこのチャオプラヤ川である。
 朱印船、中国、ペルシャ、インド、マレー、アラブ、イギリス、フランス、オランダ、
 ポルトガル、幾多の船団がこの川を上り、下っていったのであろう。
 さぞかし、心が躍る光景だったに違いない。

 橋を渡りきるとトンブリ地区に入る。町の様子は、一変する。
 下町特有のいかがわしさが感じられるのだ。それと同時に猥雑さもあり、
 古靴やまがい物のようなものも路上で売られ、
 バンコク側のような清潔さはなくなり、ごみごみしてくる。
 用もなくたむろしている人間も多くなる。慣れるまでは少し構える必要もある。
 こういうときには、わざと道を聞いてみるのだ。
 相手が答えてくれた途端に、緊張が解き放たれていくのがわかる。
 相手だって、何者が来たのかと構えているのである。

 古い木造住宅とコンクリートの住宅の入り混じった通りを過ぎると、
 道は急に細くなり、イーカン地区の古い商店街へと入っていく。
 いつの間にか、商店街の中に入り込んでしまったという感じである。
 チャオプラヤ川に対して直角に走るこの商店街に沿って、
 平行に運河が流れているが、もうその用は果たしていない。
 何十年か前までは、この運河が商店のそばまで船で商品を運ぶ大切な輸送手段に
 なっていたのであろう。
 今は、商いも小さくなり、陸路からの輸送で充分なのだろう。

 この商店街は、中国人が多く店を出していた商店街であるが、
 今はその中国人も数少なくなり 川向こうのバンコクに移住してしまったようだ。
 そして、中国人にかわって、バンコク周辺のタイ人、東北タイのイサンの人々が
 中心になって小さな商いをしている。
 この商店街の両側にチュムチョム(密集した集落)が広がり、
 この集落に住む人々が商店街の客である。
 この商店街は その日、その日の稼ぎで生活する下町の庶民たちの生活の舞台でもある。



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