タイのイスラム教徒

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 シーウォラウォングの策に翻弄され続け、長政は成す術もないまま、
 亡きソンタム王の一族は抹殺されてしまった。あまりに違いすぎていた。
 反対するものはすべて、残虐に抹殺していくアユタヤの王位継承は
 長政の想像を超えたものであり、日本のお家騒動とははるかにかけ離れた
 血で血を洗う残酷なものであった。
 ひたすら、ソンタム王に仕え続けて来た長政にとっては、
 アユタヤは夢の王国ではありえないものになっていったのである。

 あの残忍非道なシーウォラウォングは、
 今はアユタヤの王プラチャオ・プラサートトーンとして君臨している。
 次は俺の番かという不安は、長政にもあったには違いない。
 彼を護るものは、彼の傭兵部隊と日本人町だけだった。
 卓越した軍団である日本人傭兵部隊には、
 プラサートトーンも簡単には手を出すことは出来ない。
 彼の考えたことは長政とその傭兵部隊をアユタヤから遠方の地へと追いやることだった。
 そうすることでアユタヤでの長政の影響力を殺ぐことになる。
 王宮内のあまりの非道さに疲れ果てていた長政は、それを受け入れる。
 アユタヤがプラサートトーンの手にある以上、反対もままならない。
 武人としての資質は持っていても、政治家としての資質を持たない長政には、
 策略家のプラサートトーンの意図は最後まで読めないのである。

 1629年 ソンタム王の死後1年の間に長政のアユタヤでの輝かしい人生は終わり、
 アユタヤから数百キロ離れたリゴット、今のナコンシータマラートの太守として
 左遷されたのである。
 その地は、イスラム教徒の地、ソンクラー、パッタニ王国に近く、
 アユタヤ王朝との争いの絶えない地域だったのである。
 決して安穏としておられる場所ではなかった。
 そして、パッタニ王国との戦いで傷を負った長政は、傷口に毒を盛られ
 暗殺されてしまうのである。
 22歳でアユタヤの地に足を踏み入れて、18年 享年40歳の生涯であった。
 その後、彼の息子が、リゴットの太守の地位を引き継いだが、
 彼も日本人傭兵との諍いで殺害されている。
 長政を遠方の地リゴットに追いやっても、
 安心できないプラサートトーンの執念深さのなせる業だったのであろう。

 山田長政を失った日本人傭兵部隊は、烏合の衆と化し、単なるやくざ軍団に
 成り果てていく。
 こうなってしまっては、プラサートトーンにとっても恐れる存在ではない。
 ビルマとの戦いも少なくなり、
 日本人傭兵に期待すべきものもなくなっていたのである。
 この日本人傭兵をじっくりと始末してゆけばいいのである。



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 シェイフ・アフマドが、慎重にも慎重に熟慮して、王位継承の争いから距離を置き、
 静観を決めたのと反対に、長政は、亡きソンタム王の遺言を果たすために
 王位継承の争いの中に飛び込んでいく。
 そこに落とし穴があったのである。
 亡きソンタム王は、アユタヤ王朝における王位継承が、過去において
 如何に血に塗りこめられたものであり、王の子が王位を継ぐ保障などないことを
 知り尽くしていたのだ。
 王位を奪うためには、手段を選ばず、卑劣な策が弄され、慈悲もなく敵を処刑し、
 徹底的に敵を打ち倒す、それがアユタヤ王朝の歴史なのだ。
 亡きソンタム王も同じように腹違いの兄、アユタヤ20代王シ−サーオワパーク王を
 殺害し王位を手に入れたのである。
 それゆえに残される若い王子の行く末を案じ、長政に王子の行く末を託すのである。

 しかし、そこには一人の策略家がいた。その名は、オークヤー・シーウォラウォング、
 亡きソンタム王の従弟に当たる血筋の人間だ。
 シーウォラウォングは、亡き王ソンタムの遺言どおり、
 王子プラ・チェーターティラートを王位につけるための協力を長政に求めてくる。
 日本流の主君への忠義から長政は協力を受け入れることになる。
 シーウォラウォングは、大きな後ろ盾を得たことになる。

 他の貴族たちは王の弟である副王が王位につくものと考えていた。
 しかし 亡き王の遺言で、王位は15歳のプラ・チェーターティラートに継承させることを
 希望していたことを伝えると 反対勢力も認めざるを得なかった。

 新しい王が王位につくことを知った副王であるソンタム王の弟は、ペッブリーへ逃げ、
 出家してしまった。抹殺されることを恐れたのである。
 副王につながっていた貴族たちの掃討が始まった。
 副王を支持していた貴族たちはすべて逮捕され、残酷な方法で処刑、財産没収、
 見せしめのために、体を切り刻むという残酷さだった。
 シーウォラウォングの本質、その残虐性を現し始めたのである。

 それを見ていた王は、シーウォラウォングの性格に疑いを持ち始め、
 シーウォラウォングを排除しようとするが、策略家のシーウォラウォングは
 王宮内に自分の手の者をいれ、王の動きを探っていたのは当然のことだ。
 逆に若い王を討伐しようとするが、王はうまく逃げ出すことが出来た。
 しかし、それもつかの間のことで、王とその母親を見つけ出し、処刑してしまう。
 そして、再び若い王を支持していた貴族を残酷な方法で掃討していくのだった。

 次には僅か11歳の国王の弟を王位につけ、僅か36日で処刑し、自ら王位に座ることになった。
 シーウォラウォングの周りには、もう歯向かうものはいない。
 彼の周りにいるのは彼に忠誠を誓うものだけであった。
 ただ一人いたとすれば、山田長政だけであるが、
 プラチャオ・プラサートーンとして
 王位についた以上は、恐れることもなくなったのである。

 アユタヤの王位継承のあまりの残酷さに、長政は成す術もなかった。
 武力では秀でていた長政も、政治的な手腕はなかったようだ。
 日本人の傭兵部隊を使って 若い王を護り抜けば、
 長政にも別の人生が待っていただろう。

 しかし、不思議に思うのは、日本で言われているような英雄的な長政の姿は
 ここには ないのである。
 山田長政が果たして、アユタヤ王朝の中で力を持っていたのか、影響力があったのか、
 疑問が出てくる。どうもそうでなかったような気がしてくるのである。
 どうも、山田長政像は、後世、かなり粉飾されているようである。


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 山田長政がそのビルマ軍との戦いの中で輝かしい戦績を残し、
 ソンタム王の信頼を得、王宮の中でその地位を上げている最中、
 シェイフ・アフマドはどうしていたのであろう。
 商人として、老獪な卓越した政治力、外交能力を持つ彼は急がない。
 彼がアユタヤにその一族とともにやってきたのは59歳のときである。
 今更何を急ぐ必要があろう。

 彼にとって最も重要なことは、このアユタヤの地で一族の安全であり、
 彼の一族が安定した暮らしを この地で手に入れることだ。
 何事にも慎重にアユタヤでの生活と作り上げていく必要がある。
 まず彼がしたことは、タイ人との結婚である。そして、3人の子供をもうけた。
 ソンタム王の時代に貿易によって莫大な富を得、その富を使い、
 王族、貴族とのつながりを深め、王宮の中で高い地位を獲得していくのである。

 まず、彼がねらったのは、その当時の大蔵省の中の右外務部の地位であった。
 そこは、アラビア人、ペルシャ人、マレー人、インド人などの貿易商を
 管理する部局であった。
 そして、ついには、右外務部と中国、ベトナムを除く貿易商を管理する中外務部を
 管轄する地位まで手にしたのである。
 その管轄には 当然日本も含まれていたのである。

 日本人町は瞬く間に規模を広げ、
 日本はアユタヤの貿易の中でも並外れた貿易量であった。
 山田長政を頂点にした日本人勢力の台頭は、ペルシャ商人、華僑にとっては、
 眼の敵になりつつあった。
 シェイフ・アフマドは、アユタヤの貿易を管轄する地位を手にいれ
 日本勢力の台頭を抑えることの出来る地位に就いたが、
 ソンタム王の絶対的な信頼を受けている山田長政がいる。
 機会を待つより仕方がない。

 しかし、その機会はやってきたのである。
 1628年 山田長政と深い信頼関係を結んでいたソンタム王がなくなり、
 王位継承をめぐる争いが起こってくる。
 ソンタム王の我が子を跡継ぎにという遺言を受けた山田長政は、
 王位継承の争いの真っ只中に入っていくことになる。

 一方、シェイフ・アフマドは、この争いの中には入っていかない。
 外から静観しているのみであった。
 彼は知っているのである。
 アユタヤ王朝の王位継承が、いかに血なまぐさいものであるかを。
 亡くなったソンタム王ですら、前の王 シーサオワパーク王を処刑して、
 21代王になったのである。
 老練な政治手腕、外交能力を持っていたシェイフ・アフマドは
 アユタヤ王朝の王位継承が、王の息子によって継承されていくものではなく、
 本当の権力を持つものによって受け継がれていくことをよく熟知していたのだ。
 だから、手を出さないのである。
 最終的に誰が王位を手に入れるのかを見ているだけでよかったのである。



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 1602年、タイのアユタヤ王朝の19代目国王 ナレースワン王の治世の時代に
 イラン中西部のイスラム教シーア派の中心都市コムから、
 アユタヤの地にペルシャ商人の1団が足を踏み入れた。
 その集団はシェイフ・アフマドとその弟のムハメド・サイードの一族であった。
 アユタヤの記録に始めて登場するペルシャ商人である。
 一族でやってきたからには、この地を永住の地として定め、
 商いをする覚悟を決めてきたのであろう。

 アユタヤにやってきてからの10年、アユタヤの王族と緊密な関係を作り上げていった。
 イスラム教徒であるアフマド一族が 仏教徒であるアユタヤ王朝に受け入れてもらい、
 緊密な関係を作り上げることは容易なことではなかったであろう。
 当然海外交易によって莫大な利益をアユタヤ王朝にもたらしていたことが、
 絶対条件であったはずだ。

 ナレースワン王からソンタム王(1611〜28)の治世に至るまでに、
 アユタヤの城壁の外にあるターカーイ集落に住居と商館を建設し、
 その後、ソンタム王からターカーイ集落と城壁内のターイクー集落に土地を与えられ、
 クディ・トーン(別名クディ・チャオセン)と呼ばれるモスクを建設していった。

 その頃の日本はといえば、関が原の合戦で徳川家康が勝利を治め、
 豊臣側についた浪人たちが巷にあふれていた。
 そんな浪人たちにシャム王国のアユタヤに行けば、働き場所があると、
 誘いかけたのは、アユタヤと貿易していた日本の商人たちであろう。
 一つには、商人たちの警護も期待していたのであろう。
 16世紀初頭には、新天地を求めてアユタヤへと渡る浪人たちが増え、
 アユタヤの町には日本人が急激に増えていったのである。

 その浪人たちの中に、山田長政がいたのである。
 1612年、駿河の大名の駕籠かきであった山田長政はアユタヤの地を踏む。
 当時、アユタヤはビルマ軍の侵略の脅威にさらされており、
 絶えず、傭兵を必要としていた。
 戦国時代を生き抜いてきた日本の武士は、アユタヤにとっては絶好の傭兵であった。
 アユタヤの地に夢の王国を求めてきた浪人たちを纏め上げるカリスマ性、親分気質が
 山田長政にはあったのであろう。
 日本人街にたむろするやくざな浪人たちを纏め上げ、頭角を現してゆく。
 日本人の傭兵の頭目として、戦国時代の日本での戦いに長けた日本人の傭兵を使い、
 ビルマとの戦いの中で数々の輝かしい戦績を積み上げ、アユタヤ王朝の中で、
 一角の人物として認められるようになっていくのである。
 それは日本人傭兵の長としての武力を期待されてのことであった。

 アユタヤ王朝の中でその財力を期待されたシャイフ・アフマド、
 アユタヤ王朝の中でその武力を期待された山田長政
 その資質の違いによって、二人は 異なった運命をたどることになるのである。


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 バンコクのチャオプリヤ川の対岸に位置するトンブリ地区には
 たくさんのモスクがある。
 その中で最も中心的な役割を果たしてきたのが、
 バンコクヤーイ運河の岸辺近くにあるトン・ソン マスジドだ。
 アユタヤ王朝時代に建てられ、400年の歴史を持つ。
 トンブリ王朝、チャックリ王朝以前からあるスンニ派のイスラム寺院である。

 アユタヤ王朝時代に、アユタヤ王朝を経済的に支えていたのは 海外貿易である。
 その一端を担ってきたのが、アラブ、ペルシャ、インドなどのイスラム商人だ。
 その時々の王朝は、こうしたイスラム商人を優遇することによって、
 王朝の財政を潤してきたのだ。
 又、ビルマからのビルマ軍の侵略に苦しんでいたアユタヤ王朝は、
 イスラム商人の所有する軍事力に期待することも大きかったのであろう。
 だから、タイ国内にイスラム寺院を建てることも許容し、援助すらしてきたのである。
 アユタヤ王朝時代のアユタヤにイスラム寺院が、建てられていなかった頃には、
 バンコクにやってきたイスラム教徒は、このトンブリ地区にあるこのモスクで
 祈りを捧げていたのであろう。

 古い歴史を持つこのトン・ソン マスジドを訪れてみた。
 その日は 金曜礼拝の日で、多くのイスラム教徒が このイスラム寺院を
 訪れていた。
 庭に建てられている6角形の屋根を持つ休憩所に二人のイスラム教徒が
 のんびりと座り込んでいたので、日本人であることを話し、
 この寺院についていろいろ尋ねてみた。
 一人はタイ海軍の軍服を身につけ、もう一人は、普通の人だった。
 話をしているうちに、この寺院の長老や世話役、
 果てはこの寺院のイマーム(導師)にまで紹介された。
 しかし、このモスクの長老である人たちは、アユタヤ王朝時代、チャックリ王朝時代に
 移住してきたペルシャ、アラブ、インドのイスラム教徒たちの末裔たちだった。
 今、南タイで紛争最中のパッタニーのイスラム教徒の末裔の姿はなかった。

 写真を撮ることは問題なく、モスクの中などはわざわざ電気をくけてくれる
 親切ぶりだった。
 ラーマ5世から贈られたランプや由緒ある品々の説明もしてくれた。

 そして、寺院のすぐ脇にある墓地も案内してくれ、写真も撮らせてくれた。
 墓地に埋葬されている人の中には、
 チャックリ王朝の中で、大臣クラスの仕事をしたもの、
 王族との血縁関係にあった身分の高い人の墓なども多くあった。
 いまの国王ラーマ9世もここを訪問している。

 タイの王朝史の中で、王朝に協力し、王朝の庇護を受け、
 発展し、勢力を広げてきたペルシャ、アラブ、インドのイスラム教徒の
 中心的なモスクであったことが、このモスクの墓地から、はっきりと感じ取れる。
 ある意味では、タイの王朝史の中で活躍した身分の高い人々の特殊なイスラム寺院と
 いっても良いのかもしれない。


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