バンコクを歩く

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 旧王宮を護る1番目の運河ロッド運河と2番目の運河オン・アン運河、
 この二つの運河をつなぐ短い二つの運河がある。
 一つは中華街の北の果てにあり、もう一つはラッチャダナダ寺院の横を流れている。
 この二つの運河とロッド運河とオン・アン運河に囲まれた区域が、
 ラーマ1世時代からのバンコクのタイ人の生活場所であったらしい。
 トンブリ王朝からチャックリー王朝へと移ったときに、ラーマ1世はトンブリから
 バンコクへと王都を遷都するわけであるが、ラッタナーコウシン島に移住を許された
 のは、王族と華人だけであったというから、多くの貴族官吏はトンブリ地区に
 残されたのだろう。
 ラーマ1世にしてもトンブリ王朝のタークシン王の配下にいたものを、バンコク側に
 移すのには、恐れを感じたと思われる。
 タークシン王の家臣であったラーマ1世がタークシン王を処刑して、
 チャックリー王朝を開いたことを考えれば、いつ何時自分が同じ目に遇うかは
 わからない。
 トンブリにいた貴族官吏たちがバンコク側に移ってきたのは、チャックリー王朝が
 安定してきたラーマ2世、3世の時代だろう。

 ロッド運河からラッチャダナダ寺院あたりに至るこの運河周辺には、多くの木造の
 建物がある。中には大きな屋敷もあり、王族・貴族官吏たちの屋敷のようであった。
 ラーマ5世の居住地域が ドゥシット地区に移るまでは、このあたりが王族、貴族
 タイ人の下級・上級官吏たちの生活場所であったのだろうと思われるが、
 今は単なる昔からのバンコクのタイ人の生活場所に過ぎなくなっている。
 顔つきを見ていると、かなり中国人の血が入ってきていることもわかる。
 この地域の隣が中華街であることからすれば、当然といえば当然だろう。

 この地域の中をくまなく歩いてみた。
 まずはロッド運河につながるこの運河の始まり周辺を歩くことにした。
 このあたり、何とも言えずいかがわしく猥雑な場所なのだ。
 地方から出てきて、仕事を探しに来ている人間がロッド運河沿いに寝そべっているし、
 少し、運河の先に行くと、娼婦たちの多いこと、運河縁や歩道の隅っこに2,3人で
 座り込んで化粧を直しているものもいる。
 40はとっくに過ぎた厚化粧の娼婦たちもいる。
 眼のやり場に困ってしまうのだ。
 日本の江戸時代の人気のない運河や河原沿いも そういう場所だった。
 ある道筋には ゴミの中からお金になるものを選り分ける人間たちもいる。
 夜になると、外国人には怖い場所だ。夜8時過ぎになれば、何が起こるかわからない。
 余程この場所に慣れたバンコクの人間でないと、夜は歩けない。

 そんな運河沿いの一角に、木造の朽ちかけた屋敷がある。
 ラーマ5世の王子の屋敷だったというが、もっと古いもののような気がする。
 ラーマ5世の時代の建物は、セメントを使ったものが多いからだ。
 ラーマ5世の時代には、セメント会社が、ラーマ5世の投資によって、設立されている。
 そのためか、ラーマ5世の王子たちの屋敷は、セメントを使用したものが多い。
 この木造の屋敷はラーマ4世の王子の屋敷のように思える。人が住んでいる様子もなく朽ちるに 
 任せているようだ。
 残念な屋敷の姿だが、この辺りのいかがわしい猥雑な雰囲気とは、ぴったりと調和しているから
 不思議だ。
 人間模様を眺めるには、興味深い場所ではあるが、毎日眺めていれば、
 その毒気に侵されてしまいそうだ。


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 ラーマ6世の後、1926年 王位に就いたラーマ7世は、ラーマ6世の負の遺産 
 国家財政の悪化そして、立憲君主制、共和制の高まりを受け継ぐことになる。
 もともと王位に就くことなど、予測もしていなかったラーマ7世は、
 何の後ろたてもない孤軍奮闘の中に突然放り込まれたようなものだった。
 財政再建のために王室予算の削減、官僚人事の合理化などを打ち出していくが、
 フランス留学組みの官僚の反発を受け、何一つ成果を上げることもできないうちに
 1928年の世界恐慌に直面し、国家財政は悪化の一途をたどっていく。
 1931年に眼の治療のために訪れたアメリカの議会制民主主義を目のあたりにした
 ラーマ7世は、タイに議会制導入を考えるようになり、憲法草案まで作成するが、
 今度は王室の猛烈な反対にあって、断念することになる。

 フランス留学組の官僚、軍は、これには納得せず、1932年にラーマ7世がフアヒンで
 病気療養の最中に パホン大佐、ピブーンソンクラーム、
 プリーディ・パンノムヨン率いる人民党が立憲革命を起こし、ラーマ7世に憲法を
 発布させ、これによって絶対王政は終わりを向かえ、立憲君主制が始まるのである。

 翌年ラーマ7世は、眼の治療を理由にイギリスに逃げ出したため、
 新政府は、法案その他の国王の承認のためにイギリスに行かねばならず、ラーマ7世に
 タイに戻るように要請したが、受け入れられなかった。

 いつまでも民主制に移行しようとしないパホン政権に抗議するために、
 「私は、人民のみのために 私の持っている権力を放棄する。」
 という名言を残し、1935年、王位を退位するのである。
 1941年に亡くなるまで二度とタイの地を踏むことはなかった。
 そしてラーマ7世の甥のラーマ8世に王位を譲り、
 王室にとっては、1958年のサリット政権成立までの27年間、苦難の時代を
 迎えることになるのである。

 バンコクの街中を歩いていても、ラーマ7世にちなんだ記念物が非常に少ない。
 ラーマ7世の銅像なども見かけることもないのである。
 唯一見つけることの出来たものは、センセーブ運河の水上バスの始点である
 バンラムプーの船乗り場の近くのラーマ7世を記念した博物館だ
 その博物館の名前はラーマ7世の名前にちなんで King Prajadhipok Museumと
 名づけられている。
 この建物は、1908年に6年の歳月をかけて完成し、当初は西洋の最新ファッションの
 洋服屋 John Sampson Storeであった。
 建物の設計は、フランス系スイス人のものである。
 1933年に国のものになり、1995年国家遺産として登録され、修繕され2001年に
 現在のラーマ7世の博物館になった。

 自ら退位したということから、タイではあまり評価されることのなかったラーマ7世であるが、
 この博物館の完成によって、やっと陽の目を見るようになったようだ。
 王位に就きたくて国王になったわけではなく、ラーマ7世自身は、軍人になりたかったようだ。
 ラーマ6世の死後、ラーマ5世の王子は彼しかいなかったというのが彼の悲劇の始まりだった。
 国家財政の悪化、1928年の世界恐慌、立憲君主制の高まり、すべてがラーマ7世に味方することは
 なかった。
 彼が生きた時代があまりに悪すぎたのである。


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 ラーマ6世の時代に タイに義務教育制が 初めて施行されたという。
 とはいっても、それはバンコク、バンコク周辺に限られたものであり、
 形としては、小学4年生までのものであった。
 このことの背景には、ラーマ5世の時代から英仏への留学させた王族・貴族の中から
 ヨーロッパの文化に影響を受けて、立憲君主制、民主主義への移行を唱えるものが増え、
 それに対する一つの対抗策として、学校制度を通して ラーマ6世のナショナリズム
 王室絶対主義を 幅広く浸透させるためのものであった。
 そして同時にボーイスカウト(ルーク・スア)を導入して
 ルーク・スアの誓いの言葉として、

 1)私は国王に忠誠を尽くします。
 2)私は男子としてふさわしい行いをすることを決意します。
 3)私はルーク・スアの規則とおきてに従うことを決意します。

 ラーマ6世の親衛隊であるスア・パー同様のことをここでも要求しているのである。
 この時代に始まったこのルーク・スアは現在の教育制度の中でも受け継がれている。

 1921年に義務教育が小学4年生までと定められたが、実質的な政府援助のないまま、
 通学できない、しない家庭が多くを占め、この制度は1973年の改正まで続き、
 それ以後は、小学6年までとなり、2003年には中学3年までの9年間に延長されている。
 しかし、今日でも、学費は無料でも、制服、教科書などに費用がかかり、
 すべての児童が 義務教育を終了するまでにはなっていない。

 ドゥシット地区周辺を歩き回っていると、首相官邸の横から大理石寺院、そして
 チットラダ宮殿のすぐ横を流れる運河に気がついた。
 この運河沿いに歩いていると、ドゥシット動物園のすぐ前に、
 瀟洒な仏教寺院のようなものが見えてきた。
 てっきりバンコクのどこにでもある仏教寺院の一つだろうと思い、
 運河沿いに足を進めて行くと、その寺院のきれいに芝生の植えられた敷地内で
 ユニフォームを身につけた15,6才の年頃の子供たちがサッカーをしている。
 どうも学校のようだ。
 それも普通の学校のようではなく、建物もタイの伝統的なスタイルで、
 お金がかかっている学校であることがすぐにわかる。

 中に入って寺院を眺めるぐらいは大したことではあるまいと、中に入っていくと
 何か雰囲気が違うのである。
 寺院までの通り道の途中には何人かの保護者らしい母親がいる。
 身につけているもの、仕草が 普通のタイ人とは違うのである。
 ちょうど下校時刻らしく、迎えの車も来ているが、それが、ベンツなどの高級車ばかり、
 入ってきた以上は仕方ないと思い、学校専用の仏教寺院の前に行き、
 写真と撮り終えた頃に、学校関係者がやってきて、礼儀正しく追い出されてしまった。
 この学校、後で調べてみると、Vajiravudh Collegeという幼小中高そして大学まである
 王立の学校だった。
 創設したのはラーマ6世であり、その名前を取って、Vajiravudh(ワチラーウット)と名づけられ、
 王族専用の学校として1915年に建てられたものらしい。
 やはり普通の学校とは違うはずである。

 あるタイ研究者の言葉にこんなものがある。

 ― 社会的地位の差が教育水準や経済的レベルの違いに結びついてしまい、
   一方に経済的に恵まれず、高い教育が受けられず、
   従がって社会的地位の向上も望めない層があり、
   他方で、経済力を持ち、高い教育を受け、社会的に評価される地位に昇り、
   子女も高い教育を受けさせることができるという、
   いわば好循環の輪をエンジョイできる階層がある。
   好循環の人と悪循環に悩む人の輪が交錯することはほとんどない。 ―

 この学校を見ながら、このタイ研究者の言葉をしみじみ感じてしまった。

 **最後の2枚の写真はラーマ5世の王子たちの元屋敷だったもの**


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 ラーマ5世のチャックリー改革の成果をそのまま受け継いだラーマ6世の時代は
 どうだったのだろう。
 父親のラーマ5世の治世は42年にも渡り、王国の中央集権化も完成させたが、
 近代化を強く推し進め、列強の国々への対応に眼を向け過ぎたため、地方の農民の
 生活まで眼を向けることはなかった。

 30歳のときに父親のラーマ5世の後を継いだラーマ6世は、歴代の国王の中では
 初めて海外留学を経験した国王でもあった。
 運が悪いことに ラーマ6世が王位を即位して1年目の1911年に 
 『ラッタナコウシン暦130年反乱団』事件が起こる。
 一部の軍人と民間人合わせて千人近くの人々が結集して教会を設立し、専制君主制から
 立憲君主制へ移行し、国王を憲法の下に置いて、その権力を証言する政治改革を
 意図したが、発覚し、失敗した。

 こうした事件をきっかけに、ラーマ6世は国軍に対して信頼を置かず、
 自らの軍隊『スア・パー』(野虎隊)を創設し、財政の浪費を行っていく。
 又、立憲主義、民主主義に対抗するために、専制君主制を基本原理とした国粋主義を
 生み出していくのである。
 ラーマ6世の考えていたタイ国とは 国王が元首として君臨し、仏教が繁栄して、
 国民の信仰を集め、国王が敬愛されるような状況に常にあるのが、タイ国であり、
 そのような姿を誇りとして、維持していくのがタイ国民であるというものだった。

 その象徴的存在が、ラーマ6世によって発案された現在の国旗である。
 赤は国家、白は宗教=仏教、青は国王を表している。
 文芸に優れていたラーマ6世は、このことを機会あるごとに国民に対して、
 啓蒙していったのである。

 しかしラーマ5世の時代と引き継いだラーマ6世の時代も、数多くの宮殿が建築され、
 地方農民の生活を圧迫していたことは否めないだろう。
 自らの軍隊『スア・パー』を優遇し、国の財政を湯水のように使い、国家財政は、
 破綻寸前であった。

 この時代も国の近代化はバンコク、バンコクの周辺に限られ、
 地方においては、何一つ恩恵を受けてはいないのである。
 25年前に、ノンカイから10キロほど離れた村に行ったことがあるが、その頃でも、
 村には電気は来ていなかった。
 ラーマ6世の時代においても、地方、特に東北タイ イサン地方は、搾取の対象でしかなかった。
 政府の目がイサン地方に向かうのは、ベトナム戦争勃発以降である。

 この時代も王族・貴族のための社会政策が行われ、
 民衆・庶民の生活は一向に改善されるということはなかった。
 ナーイと呼ばれる王族・貴族の生活とプライと呼ばれる平民との格差は拡がるばかりだった。
 この時代においても、平民の生活改善という発想は生まれてこないのだ。

 ヨーロッパの制度を見習い、多妻制を廃止したラーマ6世だが、子供に恵まれず、
 15年の治世の後、弟のラーマ7世へと時代は流れていくのである。

 *** 写真はラーマ6世の時代に建てられた宮殿、現在の首相官邸もこの時代のものである。
他にもラーマ5世の子供のために立てられた宮殿は数え切れないくらいある。 ***



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 莫大なお金をかけ、8年の歳月を費やして建てられたアナンタサマーコム宮殿の後ろ
 には ウィマンメーク宮殿がある。
 ラーマ5世には側室をいれた妻の数160人以上、子供の数は72人と歴代最高であったため、
 ワット・プラケーオに併設された宮殿では足りず、ドォシットに宮殿を造った。
 その宮殿の一つが、ウィマンメーク宮殿である。
 宮殿の敷地内には、大小様々の様式の建物が建ち、まるで豪邸展示場のようである。
 160人以上の妻と72人の子供のための住まいを造るだけでも、
 大変な費用であっただろう。

 ラーマ5世の時代には、バンコクからナコーンラーチャシーマーまでの250キロの
 鉄道を敷設し、電話、電気事業も始めている。
 こうした事業は、国民のためというより、中央集権化を容易にするためのもので
 あったし、地方に住む農民たちにとっては、高嶺の花だった。

 ラーマ4世の時代から始まるタイでの近代化は、バンコクの近代化であって、
 地方と含めたものではなかった。
 バンコクの近代化のために、地方農民は、過酷な税の取立ての中で貧窮している。

 当時の税の徴収は、徴税請負人制度に頼っていた。
 この制度は入札によって民間人に請け負わせる制度で、誰よりも高い納税額を
 提示したものが、誰でも物品の徴税をすることが出来た。
 徴税人のほとんどは中国人で、王族・貴族と癒着し、思うままに税金の額を決め、
 物の値段に上乗せをしていった。
 そのために一般の平民・庶民は必要以上に高いものを買わされていたのである。
 他には、賭博、宝くじ、酒などありとあらゆるものが徴税請負人の対象になっていった。
 この制度を通して、利益を得た徴税請負人たちは、その利益を使って商いを始め、
 中国商人になっていく。
 中国人商人と国王、王族は密接に結びついき、中国人商人も貴族官吏として支配階級の
 一翼を担うようになるのだ。
 
 又、徴税請負人は、王族、貴族官吏と同じように税金を払う必要はなかった。
 水田税や畑作税は、政府役人が徴税していた。

 こうした税は、政府の必要に応じて、強化され、税金を払う義務のある平民・庶民に
 とっては、大きな負担となり、借金に頼る生活となり、奴隷に身を落とす原因にも
 なったし、奴隷制廃止後も、娘を売るという形で残っていったのである。

 そうした地方農民の苦しみを、時の支配者階級は知っていたのであろうか。
 富はすべてバンコクに集中し、豪華な宮殿、豪邸が建てられ、王朝文化の花開いた
 バンコクであるが、地方においては、不満も蓄積していたのである。
 タイの近代化のみに眼を向け、地方の農民たちの生活に眼を向けない政治は、
 地方農民の王制に対する不信を生み出していった。

 ラーマ5世の時代には、地方で農民の反乱も多発している。
 1889年のパヤーパーブ・チェンマイの反乱、1902年のギアウ・ムアン・プレーの反乱、
 1891年〜1892年にかけてのプーミーンブン・パークイサン(東北タイ)の反乱、
 1909年〜1910年にかけてプーミ―ン・パークタイ(南タイ)の反乱が起きている。
 これらの反乱も近代化した軍隊を使い、どうにか収めている。
 しかし、こうした王制に対する不満は、ラーマ6世の時代にまで続いていくのである。


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