バンコクを歩く

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

 アユタヤ王朝時代から権力の中枢に入り込み、国の財政の一切を管理していた
 ペルシャからのイスラム教徒の末裔のブンナーク家、彼らはラーマ5世にとっては
 大きな障害であった。
 奴隷制の廃止によって、王族、ブンナーク家などの貴族の主要な財産を失わせ、
 その力を殺ぎ、地方の豪族に委任していた地方の政治を 自らの直結の中央集権化
 することによって、権力を確実なものにしていった。
 そして、近代的な軍隊の創設、王族子弟の海外留学の奨励・援助によって、権力の
 基礎固めをしていったのである。
 そして、権力のすべてを完全に掌握し、異母兄弟であるダムロン親王とともに
 絶対王政を築き上げていく。

 ラーマ5世の時代からチャックリー王朝の本当の意味での絶対王政が始まり、
 王朝文化が花開いていくのだ。

 その時代の主だった遺産に、アナンタサマーコム宮殿、ウィマンメーク宮殿、
 ワット・ベンジャマボピット(大理石寺院)などがある。

           ** アナンタサマーコム宮殿 **

  1907年にラーマ5世によって迎賓館として、宮殿建設の勅令が出された事に歴史が始まる。
  建築家としてイタリア人のM. Tamangoと助手のA. Rigotti、技術者としてC. Allegriと
  助手のE.G. Gallo、現場監督としてはチャオプラヤー・ヨマラート(パン・スクム)と
  助手のプラヤー・プラチャーコーン(オー・アマタヤクン)が入り、建設が行われた。
  王宮の完成はラーマ5世の存命中に完成せず、ラーマ6世の時代、
  当時のお金で総計約1500万バーツが費やされ1915年に完成した。

  1932年の立憲革命後が国会議事堂として使用され、現在の国会議事堂が出来たあとは
  再び、接待用に利用されている。

         
 アユタヤ王朝時代からチャックリー王朝のラーマ5世の時代の奴隷制の廃止、そして、
 ラーマ7世の時代の立憲革命に至るまでのタイの社会はどんな社会だったのだろうか。
 その時代を形作っていた身分制度の中では、支配階級と被支配階級にはっきりと
 分かれていた。
 支配階級は,phu・diと呼ばれ、chao・nai(王族)とkhun・nang(官僚)によって
 構成されていた。
 一方、被支配者階級はphraiと呼ばれ、thaiという自由民と thatという不自由民がおり、
 thatはいわゆる奴隷である。
 自由民といっても17世紀においては年間6ヶ月、19世紀に入っても年間3ヶ月という
 過酷な賦役義務が課せられていた。それのみならず、地方の下級官吏の雑役が加重され、
 農民たちの生活は悲惨なものだった。
 そのため、自由民より賦役負担の軽い奴隷thatに身を落とすことも多く、
 19世紀中葉に渡タイした欧米人によれば、タイの人口の3分の1が奴隷、不自由民で
 奴隷制廃止まで減る兆しはなかったと言う。
 過酷な賦役を逃れて奴隷、不自由民になった人々にとっては、世に言うほど、
 奴隷制廃止は喜ばしいものではなかったのである。自由民として過酷な生活するよりも
 不自由民として生活する方がよほど楽だったようである。
 奴隷としての身分から、再び自由民に戻ることによって、再び過酷な世界へと
 戻っていくのである。

 20世紀にはいると、農村部は自給自足の経済から貨幣経済へと移り、
 納税も金銭によるものに変り、賦役によって支払うことも不可能になり、
 地方の農民たちは借金に苦しむようになるのである。
 ここにバンコクに住む人間と地方農民との間に格差が生まれ、
 意識のずれが生まれてくるのである。

 バンコクで壮麗な宮殿や寺院が建造された裏には、地方の農民たちの過酷な生活が
 あったことを忘れてはならない。
 農民たちの作った米が、輸出され、バンコクの経済を潤してきたことを
 バンコク都民は理解しないのである。
 Phraiがphu・diに奉仕するのは、当然という習慣が今でも形を変えて残っている。
 それがタイの貧富の差をますます広げているのである。


にほんブログ村ランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[https://www.blogmura.com/ にほんブログ村]

人気ブログランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[ http://blog.with2%2enet/in.php?590199 ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

 地方に住むタイ人の移動を制限していたサクディ・ナー制が、1932年のクーデターに
 よって廃止されてから、地方からのタイ人のバンコクへの移住が始まる。
 1938年の軍事政権 ピブーン内閣が、華僑の経済活動に対して制限し、
 タイ人を保護し、タイ人による起業を推進する政策を採ったために、地方から仕事を
 求めてくるものが増加していった。
 バンコクの中心部のタイ人の住む集落の古い木造住宅は、70年ほど前に建てられたものが多く、
 どうもこの時期に建てられたものが多いようである。
 又、この時期に立てられた木造の二階建てのアパートなど、今でもよく見かける。
 この時期はバンコクに移住してきた人たちは、バンコクの周辺部、中央タイの人々が
 多かったのではと思われる。
 
 現在 バンコクに出稼ぎに来ている東北タイのイサンの人々が増えていくのは、
 1960年以降のことだろう。そして、現在、多くのイサンの出稼ぎのひと、バンコクに
 定住したイサンの人々は、中国人の古い木造住宅、タイ人たちの集落であった木造住宅に
 間借りして住んでいるのをよく見かける。

 バンコクの中央を流れるサムセン運河沿いをぶらぶらと歩いてみた。
 この運河沿いにはタイの皇太子ワチラロンコン皇太子の宮殿がある。
 その宮殿の前に出、運河の片方が歩道になっている。
 運河の向こうの歩道側には、宮殿の警備担当の職員が行ったり来たりで 警戒が厳しい。
 私が歩いている歩道側には 一般市民の居住地になっている。
 歩いていても何とはなしに緊張してしまう。
 写真を撮りたかったけれど、警備の人間が私を注視しており、変に誤解されても困ると思い、
 ゆっくりと移動していった。あまり気持ちの良いものではない。
 運河に沿って歩いていくと、この運河の水門になっており、水門の上を歩いても大丈夫かと
 躊躇していると、後ろから喪服を来たタイ女性が来て、上に上っていけば、道に出ると
 教えてくれる。

 一緒に道に出て 少し歩くと 古い木造の建物が建ち並ぶ通りが見える。
 チャオプラヤ川に向かう通りだ。昔はチャオプラヤ川から荷が運ばれ、栄えたような通りだ。
 もう少しで崩壊してしまうようなもろさを持った建物群である。
 住み人を失い、錠前をかけ、放置されている店も多い。
 老人たちが多い。昔は中国人ばかりだったようだが、今では、東北タイ イサンから
 やって来た人たちが、間借りをして生活しているようだ。
 残り少ない住人の中国人を見つけて話をする。
 年老いた中国人たちである。彼らの両親は中国の潮州からやってきて、ここで商いを始めたようだ。
 ここの敷地は、王室財産管理局のもので、あと何年かすれば、この場所もなくなり、
 再開発されるという話だ。
 すっかり古びて、家賃が安いということで住み始めたイサンの人たちも
 再び、安い間借りを探すことになるだろう。

 この場所も無くなってしまえば、誰の記憶にも残らないだろう。
 7,80年前に中国人たちが、商いの場所としてこの地を選び、建物の崩壊寸前に、間借りの
 場所として、イサンの人たちが住んでいたことは、いつかは忘れられてしまうだろう。
 そんな風にして時代は変転していくのに違いない。
 時代の変転とは残酷なものだ。
 アユタヤ時代からの王族・貴族、中国人という富裕階級は、いつの時代も普遍の事実であり、
 平民が、彼らの世界へと入っていく道は、針の穴より小さいのも 昔からの事実に変わりはない。
 タイという国は、大変な国だとつくづく思う。
 長くいればいるほど、この国にいることが辛くなる。


にほんブログ村ランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[https://www.blogmura.com/ にほんブログ村]

人気ブログランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[ http://blog.with2%2enet/in.php?590199 ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

 ロッド運河沿い、そして、サファン・プットからオン・アン運河に沿ってバンラムプー
 そして、バンラムプーからバンラムプー運河の果てまで歩いてみたが、
 バンコクの庶民たちの住んでいる場所が意外と少ないのである。
 ラーマ5世、6世の時代 バンコクの庶民たちはどこに住んでいたのだろうか。
 部分的には、タイ人の住む集落はあるけれど、中国人の住んでいる場所からすれば、
 面積を比較してもほんの僅かの場所でしかない。
 王宮を囲む2番目の運河、バンラムプー運河とそれにつながるオン・アン運河の内側には、
 タイ庶民の生活場所は、集落の形では2,3箇所しかない、人口にしても、2,3千人
 くらいのものだろう。同じ運河の内側には数万人の中国人が住んでいる。

 タイ人たちの集落は、中国人たちの集落の隙間を縫うように、あるいは寺の脇を流れる
 運河の僅かの土地にひっそりと存在している。
 バンラムプー運河の内側には中国人が、住んでおり、運河の外側のチャオプラヤに近い
 あたりも中国人だ。

 日本の徳川時代の江戸も中心に江戸城があり、周辺部には商店、職人の移住地域が
 あったし、ネパールのマッラ王朝もそうした都市の造り方をしているが、どうも
 バンコクは違うようだ。バンコク庶民の生き生きした生活場所、移住空間が
 なかったようなのである。その空間が中華街、中国人たちの街なのだ。
 アユタヤ滅亡の折、多くの人間がアユタヤからトンブリに移住してきたはずだが、
 それは、アユタヤ王朝の王族・貴族の生き残り、官吏、軍人、中国人、イスラム教徒、
 ポルトガル人が中心で、タイ人は 数的には多くはなかったのかもしれない。
 当時のトンブリ地区、バンコク地区に住んでいたのは、中国人を除けば、
 タイ農民たちだけだったのだろう。
 トンブリ王朝からチャックリー王朝に変わり、王都がバンコクに移っても、
 王都の建設には 戦争捕虜のカンボジア人、ラオス人、南タイのパッタニー王国の
 人たちの強制労働によっている。資材などの調達は中国商人の力を借りたと思われる。
 トンブリ・バンコクのタイ人やその周辺の農民たちは、都市に食料を供給していただけ   
 の存在だったのではと思われてくる。

 チャックリー王朝を開いたラーマ4世も、彼の祖父はモン族であり、正室は華人で
 あったという話もある。そのために容易にはタイ人を信用しなかったのかもしれない。

 第三の外堀の役割を果たすパドゥン・クルンカセーム運河の内側にいたるまで、
 主だったタイ人の居住区がないのは不思議なことだ。

 この内側にある主だった集落は、中国人とイスラム教徒の集落の集落ぐらいのものである。
 イスラム教徒について言えば、ラーマ5世の奴隷解放後に居住地を与えられたものが多い。
 パッタニーからのイスラム教徒はボーベー周辺、カンボジアからのチャム族の
 イスラム教徒は、バーン・クルア周辺に集落を作っている。
 バンコクの中にいたタイ人として考えられるのは、王宮、貴族の屋敷内で働いていた
 使用人と奴隷たちだろう。
 今、旧王宮を囲む三つの運河の中に住んでいるタイ人たちは、奴隷解放の後に、
 貴族の屋敷に近くに土地を得て住み始めた人たちかもしれない。
 ラーマ5世の時代までは、プライと呼ばれた自由民である農民や、タークと呼ばれた
 奴隷たちの移動は許されていなかった。
 あるいは中国人との通婚の中で吸収されていったのか。

 上級官吏や貴族たちの屋敷は残っているが、それにしてもタイ人の集落が少なすぎる。
 治安を掌っていた警察や軍隊の家族はどこに住んでいたのだろう。
 ラーマ1世からラーマ6世までの民衆史というものが、一向に見えてこないバンコクだ。
 中国人華僑、華人たちの生活史はいたるところにあるというのに、どうしたことだろう。
 どこかにタイという国の民族構成の不思議さが、影響しているのだろうか。

 
にほんブログ村ランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[https://www.blogmura.com/ にほんブログ村]

人気ブログランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[ http://blog.with2%2enet/in.php?590199 ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

 国王ラーマ5世の作った店舗付棟割長屋には 中国人たちが住んでいる。
 百年以上も前に中国からやって来た人々だ。
 今ではタイの人口の10%強の華人である。そのほとんどが中国南部から移住してきた
 人たちである。
 アメリカの社会学者 スキナーの1955年の推計によれば、潮州56%、客家16%、
 海南12%、広東7%、福建7%、その他2%となっている。

 19世紀以降 タイに労働者としての中国人の大量移住が始まるのである。
 そうした中国からの移住の人たちの中で、ある程度余裕を持って自活できるように
 なった人たちが、こうした棟割長屋に店子として住むようになったのだろう。
 真新しい2階建ての店舗付棟割長屋は当時の中国人を魅了して止まなかったことだろう。
 増える中国人の需要に従って、ラーマ5世、6世の時代には、こうした住宅が、投資の
 目的でどんどん建てられていったはずである。
 百年という歳月を経ていても、官吏さえ良ければ、モダンに見えるから不思議である。
 成功してお金を蓄えた華人たちは、土地を買い、自分の豪邸を立て、元の場所は、
 親戚たちに権利を譲っていったことだろう。
 だから、この長屋はいつまで経っても華人たちの住む場所であることには変わりない。
 今住んでいる華人たちは、昔は 家賃は安かったと言うが、それでも民間のものに
 比べれば格安である。
 中心地は別にしても、二千バーツから五千バーツの家賃で、通り沿いの店にすむことができるのだ。
 今、バンコクで25平米の部屋を借りても、二千バーツは軽く超えてしまうご時勢である。
 管理、修理は自分持ちであるとしても、店舗と居住地が持てるとなれば、今でも、
 大きな価値があるはずである。
 木造の住宅と違って、しっかり作られているから、冷房の設置も容易である。
 内装さえしっかりすれば、現在でも充分に通用する代物である。

 大通りに面している店舗は大きな商売をしているが、phraeng nara通りのように
 繁華街から離れた店舗付棟割長屋の住人たちは、のんびりと商いをしている。
 地元に住む人相手の商売だ。ある店先ではタイ風お菓子をのんびりと焼き、
 別の店先では肉まんを並べて売っていたりする。
 この通りで食べたタイ風アイスクリームもあっさりしたアイスクリームの上に豆だの
 湯がいたとうもろこしなどをのせ、楽しい食べ物だった。
 軒先に鳥かごをたくさん並べた家もあり、鳥を売っている店かと思えば、
 趣味のようでもある。
 中華街の喧騒から逃れてやってきて、のんびりおやつでもつまむには、最適の場所だ。
 二千バーツの家賃を払って、中国人たちがのんびり生活している珍しい場所でもある。

 こうした王室の棟割長屋を利用して 商いとし、富を蓄積し、タイの国籍を取得した
 中国人たちは、土地を買える時になったラーマ5世以降には、今度は自分で棟割長屋を建て 賃貸しを 始めるようになる。
 土地の投機に 中国人たちも参入するようになり、バンコクの庶民にとって 土地は
 ますます高嶺の花になっていくのだ。
  

にほんブログ村ランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[https://www.blogmura.com/ にほんブログ村]

人気ブログランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[ http://blog.with2%2enet/in.php?590199 ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

 ロッド運河の外側に並ぶ一階が店舗になっている長屋風の建物の多さには、
 全く恐れ入ってしまう。すべてが王室財産管理局のもので、ラーマ5世の時代に
 建てられたものであるという。この長屋の店子は大半が中国人であり、家賃収入は
 当然 王室財産管理局に入る。

 ラーマ5世が王位に就いたのは、1968年 15歳のときである。
 ペルシャから四百年前にやって来たイスラム商人のシェイフ・アフマドの末裔のうち、
 仏教徒に改宗し、王室との通婚を繰り返す中で、権力の中枢部に入り込み、
 当時最大の権力者であったブンナーク家の影響力は大きく、摂政、副王の任命も
 ブンナーク家の承認が必要で 国王の意のままにはならなかった。
 国を左右する実権はブンナーク家にあり、国の主要な部署にはブンナーク家の力が
 及び、国の財政はブンナーク家によって牛耳られていた時代だった。
 1873年 ラーマ5世20才のとき、ヤング・サイアムという親王たちからなる、
 青年右翼組織を組織し、ブンナーク家と癒着していた副王を 組織の新聞で
 批判するも 逆にこの批判によって、副王宮殿は武装し、ラーマ5世はあわてて
 武装解除を促したために 副王のクーデターは未遂に終わったという出来事もあり、
 ブンナーク家の影響力を殺ぐには、よくよく慎重に行動する必要があることを
 知ったのである。
 その頃は国家財政の一切をブンナーク家が取りしきり、国王であるラーマ5世ですら、
 自由にお金を使うことは出来なかったのだ。

 ラーマ5世が国王としての力を発揮できるようになったのは、
 摂政であるチュワン・ブンナーク、ウィチャイチャーン副王の死後、
 1885年 32歳のときからである。ダムロン親王などの王族を権力の中枢へと
 取立て、本格的な国内改革 チャックリー改革が始まるのである。

 ラーマ5世が早急に改革すべきものの一つに、王室の財政の再建があった。
 1855年の外国に対する門戸開放によって、国王独占貿易制度は廃止され、自由貿易に
 なり、王室の財政は悪化する一方だったのである。
 その解決のために1890年『王庫局法』が制定され、国王の資産、収入の国家行政部分
 からの分離が行われ、王庫局が設置された。それが現在の王室財産管理局の全身である。
 当初は、国家収入の15%が王庫局に当てると決められていたが、実際にはそれだけの
 支払いはされておらず、後には定額制度になっている。
 ブンナーク家の影響力を殺いだあとから、ラーマ5世の王室財政の改革に手をつけていくのである。
 国家財政の中から王庫局に割り当てられた資金を元に、様々の投資に乗り出していく。
 銀行、セメント会社、土地の売買とその投資は多岐に渡っている。
 160人にも及ぶ正・側室、そして77人の子供たち、そして王族たちの生活を
 支えていくためにあらゆる知恵を絞ったのである。
 その一つの投資がラーマ5世によって建てられた商店付の二階建ての棟割長屋なのだ。
 このロッド運河沿いのみならず、バンラックから中華街へとつながるチャロン・クルン道路沿いの
 棟割長屋も当時立てられたものであり、オンアン運河沿い、主要道路沿いの
 そうした建物はすべて王室財産管理局のものである。市場などもそうである。
 その家賃収入だけでも 莫大なものであろう。
 ここにラーマ5世の先見の明を感じる。このラーマ5世の超人的な努力のお陰で、
 後の王室は苦労せずに済んでいる。

 運河沿い、主要道路沿いのこうした長屋について、店子に聞いてみたが大半が、
 王室財産管理局のものであるという答えが返ってきた。店子の大半は華人である。
 中には、寺院所有のものもあったが、数としては多くはない。
 ただ王室管理局のものに比べると 家賃は安く、月百、二百バーツであるが、
 その時々で寺院に対して 別に喜捨をする必要があるという。
 寺院の店子も、やはり大半は華人である。
 華人、中国人たちはこのタイにおいては、王室からも、寺院からも恩恵を
 受けている人たちだと、しみじみ感じ入ってしまった。


にほんブログ村ランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[https://www.blogmura.com/ にほんブログ村]

人気ブログランキングに参加しています。
*面白いと思ったら下のアドレスをクリック*
[ http://blog.with2%2enet/in.php?590199 ]

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
hikaruno
hikaruno
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

標準グループ

美術・工芸

日本の政治

海外情報

ニュース

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
友だち(5)
  • アジアや世界の歴史や環境を学ぶ
  • ミーヤー
  • ピタル…☆
  • はーちゃん
  • yag*o*ama
友だち一覧

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事