バンコクを歩く

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 ロッド運河沿いのAtsadang Roadを歩いてみることにした。
 ロッド運河というのは、旧王宮のあるラッタナーコウシン島の外堀である。
 昔はこのラタナーコウシン島には中国人が住んでいたのであるが、
 ラーマ1世の時代にここに王宮を作る際、中国人はサンペン地区に土地を与えられ、
 移住したという歴史がある。
 このロッド運河の外側がどうなっているのか確かめてみたかった。
 ロッド運河の内側には政府の重要な官庁が多いせいか、警察官の数が
 やたらに多いのには驚いてしまう。
 運河の水はここでも汚い。
 バンコクで仕事を見つけることの出来なかったような人たちが運河沿いに
 たむろしている。

 横目に警察官と浮浪者たちを見ながら、運河沿いを歩いていくと
 きれいにペンキの塗られた2階建ての棟割長屋が見えてきた。
 その下が商店、2階が住居になっている棟割長屋のある通りの中に入っていくと、
 一枚の案内板が立っていてPhraeng Nara通りと書いてある。
 その案内板の説明によれば、
 このあたり一体は、ラーマ4世の子供である王子の宮殿があった場所で、 
 王子の三人の息子の時代に売りに出され、それをラーマ5世が買取り、ここに通りを造り、
 これらの棟割長屋を建て、貸し出したと書かれている。
 このあたりにはその三人の息子の名をとった通りが他にもある。
 百年は経っている棟割長屋の通りだ。

 今も王室の持ち物(王室財産管理局)で店子は月々二千バーツ(七千円)の家賃を
 支払い、修理などは店子持ちだと言う。
 このあたり、こんな棟割長屋が何棟かあり、百世帯以上の店子が住んで知る。
 如何に百年経ているとはいえ、二階建てで店舗付き二千バーツは安い。
 店子はほとんど、中国人である。タイで通りに店を構えて商いをするのは大半が中国系の
 人たちである。
 このロッド運河の外側にはこうした王室財産管理局所有の商店付き棟割長屋が多数あり、
 その数は、何百軒にも及ぶ。

 Phraeng Nara通りの中に向かって歩いていくと、talaphat suksa schoolと
 書かれている古い建物がある。
 この建物は、ラーマ4世の子供である王子のパレスであったようだ。
 ラーマ5世の時代に創設された学校と書かれているが、別の記述には、
 1932年の立憲革命以後、学校として使用されたとある。
 1932年当時は 王室に対する風当たりが強くなっていた時代で、王室にとっては
 悪夢の時代で、当時の軍事政権が王室を軽視していた時代でもある。
 学校の名であるtalaphatは今の国王の母の結婚前の姓であり、
 この近くに住んでいる中国人の話によれば、どうも親戚筋にあたり、
 国王の母も、若いころは ここに来たこともあるという。
 
 学校として使われなくなって随分経つのだろう、建物の内部はかなり荒れている。
 螺旋階段などがあり、かつての王宮の面影も感じられる。
 しかし、パレスとしての優雅な姿はすっかり失われてしまっている。
 ラーマ5世以降の宮殿の豪華さからすれば、まだまだ質素な感じはする。
 ラーマ4世も子供が62人いたというから、子供や側室の生活を見るのは
 大変なことではあったろう。
 階段を下りていくと、同じ敷地内にある下の事務所になっているところから
 一人の女性が顔を出した。
 なかなか威厳のある美しい女性だった。話をすると、王室の流れを引く女性だった。
 彼女の祖父の時代、王室とは深いつながりがあったという。
 王族、貴族の長い歴史を持つタイでは、彼らは 自分たちは平民とは違うという
 プライドが根強くある。
 そのプライドが姿、仕草に現れるようだ。人を威圧するような雰囲気がある。
 それは人間の中身とは別のものではあるが、身についたそうした習慣には
 ちょっとした力はある。


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 いつものように当てもなく、バンコクの街の中を歩いている。
 バンコクの旧市街を囲むように流れている第三番目の外堀である
 パドゥン・クルンカセーム運河に沿って、歩いている。
 午後4時、季節も夏に近づき、ゆっくりと歩いていても汗が湧き出てくる。
 パドゥン・クルンカセーム運河の水も薄汚く濁り、清涼を与えてくれる水の流れは
 もうこの運河にはない。

 そんな運河沿いの道を歩いていると、ふと古ぼけた中国風の長屋が眼に入ってきた。
 何でこんなところに中国人の居住区があるのだろう。
 中華街からははるかに離れている場所である。
 その長屋の裏の路地に入り込んでみる。
 いかにも時代を経たような路地裏の光景がここにはある。
 この一角には中国風食堂もあり、市場もある。
 昔風ということなら、ここは文字通り昔風だ。
 夕暮れが近づくこの時間には、ここに住む中国人の男たちがおしゃべりをしている
 一隅もあり、1日の仕事の疲れを癒している。
 女たちは夕食時の惣菜の準備に余念がない。もうじき、夕食の惣菜を求めて、
 客たちがやってくるからだ。

 あわただしく働く女たちの横を通り過ぎ、路地の奥まで入り込んでゆくと、
 木造の大きな建物がある。なんとも古めかしい建物だ。
 その建物の前の空き地には 一つの案内板が立っていた。


             ― Sala Chaloem Thani ―

  Nang Loeng Cinemaという名でも親しまれていたこの映画館は 2階建ての木造の
  建物である。1918年に最初の上映が開始された。
  もともとの起こりは、この地区に住む人たちや旅行者たちに映画を見せることから
  だった。
  当初は、映画館の席は、長い木製のベンチで、すべて自由席で、観客はそれぞれに
  好きな場所に座っていた。チケットのチェックをする人もいなかった。
  その頃は、映画といえば、無声映画で、映画館の前では 観客を景気づけるために
  ブラスバンドが演奏し、そして映画が始まると観客は中に入っていった。
  Sala Chaloem Thaniは タイ映画の人気の衰えから閉鎖される1993年まで
  休むことなく興行されたのである。
  昔からのバンコクの娯楽施設のひとつであったこの映画館は、タイの人々に大きな
  楽しみを与え、75年間の長い幕を下ろしたのである。
  今日、この映画館は今にも壊れそうな状態の中で 倉庫として利用されているが、
  再び、映画館として蘇ることを待ち続けている。



 1918年といえばラーマ6世の時代だ。
 タイ国がヨーロッパの列強による植民地化を恐れから開放され、
 国の近代化を目指していた時期だ。
 この映画館で初めて映画というものに触れたバンコクの人間の驚きは
 どんなものだったろう。あんぐりと口を開け、映画に見入っていたのだろうか。
 今から95年前の話である。
 今では冷房付きリクライニングシートを備えた豪華な映画館もある。
 しかし、そのときにバンコク市民に与えた衝撃以上のものを与えることは
 出来ないだろう。
 そんな時代に建てられた映画館が、バンコクの片隅にひっそりとその姿を残している。
 その姿を見ていると、なにやら感慨深いものがある。
 今後、どうなっていくのかと心配にもなる。
 バンコク市民の宝物であったこの建物、生かして映画館として再生させてもらいたい
 ものだ。


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 この地域には、もう一つ集落がある。
 キリスト教徒もいれば、仏教徒もいるチャオプラヤ川の岸辺に住む人たちである。
 ポルトガル人、カンボジア人、ベトナム人たちが、この場所に住み着いたあとに
 アユタヤ、シンブリー方面から移住してきたタイ人たちだ。
 5,60年前には今彼らが住んでいる場所には、船が停泊していただけだったと言う。
 船を使って荷を運んでいた人たちが、ここに住み着き、
 だんだん数を増やしてきたように思われる。
 一人の老人とそんな話をしているうちに 別の住民が何を聞き間違えたのか
 突然この老人に食ってかかり、喧嘩を始め、詳しい話は聞けなくなってしまった。

 この集落の家々はチャオプラヤ川の流れの上にあり、渡した板が通路になっている。
 痛みもかなり進んでいるようだ。
 二つの立派なカソリックの教会があるこの地域、ここに住んでいる人たちには
 援助の手を差し伸べないのだろうか。
 ポルトガル系タイ人、カンボジア系タイ人、ベトナム系タイ人はそれぞれに
 まとまった共同体を形作り、協力し合って生活している。
 しかしこの水上集落の人々は、てんでばらばらの状態で暮らしているようだ。
 タイ人特有の自分は自分、人は人を言う個人主義の中で生活している。
 互いに声は掛け合うけれど、協力してまとまって何かをするということはないようだ。
 ここにタイの庶民、貧困層の悲哀がある。
 お上には盾つかない、従順に従い、事を荒立てない。
 荒立てても、世の中なるようにしかならないという諦めも感じられる。

 以前 バンコクの運河の中の『バンコク バンコクノーイ 水上集落』で
 紹介したイスラム教徒の水上集落とはその姿は全く違う。
 バンコクノーイ運河の河口にあるイスラム教徒の集落は、土台もしっかりしていて、
 小奇麗な家が多かった。集落としてのまとまりも感じたものである。

 昔からタイでは、時の権力者は タイ人同士がまとまって行動していくことを嫌い、
 妨害してきたようだ。政府に対して集団で要求などをすれば、集団つぶし、あるいは
 共産主義であると決めつけ、排除してきている。
 別のタイ人グループを金で雇い、つぶすといったことは 今でも良く行われる。
 そういう怖さを知っているタイ人は、なかなかまとまっていかない。
 下のものは 上に対して 『クワーム・イェーン(冷静で怒りをあらわにしないこと)』
 『クワーム・スーサン(忠実であること)』『クワーム・クレーンチャイ(遠慮深いこと)』
 の美徳でもって接することが良しとされている。
 自分の身あるいは、家族は自分で護るしかないということを身にしみて知っている。
 アユタヤ王朝時代から、平民(プライ)として いじめられて来た歴史は、
 なかなか自立的な人間を生み出さない。
 そんな姿がこのキリスト教徒の町の岸辺にあるタイ人の住む水上集落にはある。
 例えタイの外から移住してきたポルトガル人、ベトナム人、カンボジア人であっても
 何かあれば、宗教的な団体の後ろ盾があるが、
 この水上集落に住む人々には何の後ろ盾もない。貧しいがゆえにますます貧しくなる。
 ただ耐えていくより方法はないのだ。

 このキリスト教徒の街を抜け、近くにあるクルン・トン橋の上に立ってみた。
 穏やかに流れるチャオプラヤ川、行きかう船、そして、あのキリスト教徒の街の教会、
 水上集落、外からみれば、のんびりとした心を癒してくれるような風景だ。
 外から眺めること、内側に入って見つめることの大きな違い、あの街の中には
 深く刻み込まれた歴史があり、悲哀に満ちた生活があることは、
 この橋の上からのオリエンタルな風情を持った風景からは及びもつかないことである。
 旅人はこの風景だけを見てタイという国に憧れる。



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 ラーマ3世の時代の1834年にベトナム玩朝の明命帝のキリスト教徒迫害を逃れて
 バンコクにやって来た1350人のベトナム人キリスト教徒は、ラーマ3世の許しを得、
 この地に住むことをなる。
 しかし、急激なベトナム人の増加によって 前からあったConception Churchだけでは
 カソリック教徒を受け入れることも困難になり、新たな教会が必要となった。
 そこで1834年ラーマ3世は Conception Churchのそばに新たに建てられる教会のための
 土地と資金を提供し、ベトナム人キリスト教徒は そこに竹を使って教会を建て、
 あの名高いイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの名を教会に名づけた。
 しかし、その教会は1837年の台風で破壊され、今度は木造の教会が再建された。

 このフランシス・ザビエル教会については、ラーマ4世と
 Conception Churchの宣教師 Monsignor Pallegoixとの出会いについて書き記す必要がある。
 ラーマ3世の時代、モンクット親王(後のラーマ4世)は仏門に入り、僧侶として
 修行に励んでいた。
 本来の王室のきまりからすれば、ラーマ3世の弟であるモンクット親王が
 ラーマ2世の次に王位を継ぐ王位継承順位第一位の位置にあったのだが、
 王室内で王位継承についていざこざがあり、
 それを避けるために兄であるラーマ3世に王位を譲り、仏門の道に入った人である。
 知識欲旺盛な人物で、僧侶であった時代から、ヨーロッパ文化に興味を示し、
 そんなことから、宣教師 Monsignor Pallegoixとの付き合いが始まり、
 モンクット親王は 宣教師 Monsignorからラテン語を学び、宣教師 Monsignorは
 モンクット親王から仏教語であるパーリー語を学ぶという関係になる。
 そうした関わりから二人は深い友情を結ぶことになるのである。
 宣教師 Monsignorもなかなかの人物で優れた外交家でもあったのだろう。
 こうした二人の関係は、モンクット親王が27年間の仏門生活を止めて、
 ラーマ4世として王位に就いたときに生きてくるのである。

 1851年にラーマ4世として王位に就いたモンクット王は、
 増え続けるカソリック教徒のためにより大きな教会が必要だという
 Monsignor司祭の訴えを聞き、教会建設に必要な土地を寄贈した。
 モンクット王との深いつながりがあることから、
 Monsignor司祭の教会建設のための寄付金による資金集めは 容易に進み、
 ヨーロッパ様式の教会を建てる準備も整い、1853年の着工から10年の月日を経て、
 現在の形の教会が完成したのである。

 聡明なモンクット王も Monsignor司祭から迫り来る列強による植民地化の波に
 ついては聞いていたのであろう。
 フランスの象徴であるカソリック教をどう取り扱うのが賢明であるかを知り尽くしていたはずである。
 ここにもタイ上層部の伝統的な外交上手が姿を現すのである。
 明らかに国力において勝るものについては、忍耐を持って対応し、
 国力に劣る国に対しては武力によって侵略、支配していくというタイ上層部の外交の
 二面性が感じ取れる。
 その象徴的な場所が、二つの教会を持つこの地区である。

 この東南アジアにおいては、ベトナム人は 中国人についで、商売上手の民族である。
 なかなか本音を見せない人たちだ。賢いといえば賢いが、扱いにくい人たちだ。
 利用できるとなれば、ベトナム人であることを主張するが、そうでなければ、
 ベトナム人であることを隠すこともある。
 ラオス人やカンボジア人とはその点は違う。
 中国人と違って、堂々としたところがなく、賢いのであるが 風格がない。
 タイに移住してやってきていても、うまくやっているなという感じがしてしまう。
 この地区に二つの教会が生まれてしまったのも、
 先住者のポルトガル人、カンボジア人との軋轢があったのではと思えてしまう。
 邪推であろうか。
 この地区でいろいろ話を訊いてもなかなか心を開かず、
 警戒心を見せるのはベトナム人だった。

 日曜日に大きな行事があるらしく、教会の墓地の掃除に余念がないベトナム人たちであった。
 何を訊いても打ち解けて笑いながら、話をすることの出来ないベトナム人の子孫であった。

 ベトナム人を信者とするフランシス・ザビエル教会はどんどん発展し、
 素晴らしい付属大学を持つまでに至っている。
 素朴なままのConception Churchとは違うようである。


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 この地域には バンコクで最も古いカソリックの教会がある。
 その名前はImmaculate Conception Church(無原罪の聖母教会)である。
 ポルトガル人の奉仕に対して 1674年アユタヤ王朝のナーラーイ王(1657~1688)が
 ポルトガル人にこの地に土地を与え、教会を建てることを許した。
 そして、ラーマ1世の時代の1784年 ポルトガル人とカンボジア難民によって
 再建され、Bot Ban Khamen(カンボジア村教会)と呼ばれるようになる。
 このカンボジア人に対して、Kui,Kuayと呼んでいることからすれば、
 タイ、カンボジア国境周辺のカンボジア人で タイに戦争捕虜として連れてこられた
 キリスト教のカンボジア人の集団であったか、仏教国である当時のカンボジアで
 キリスト教徒ということで迫害を受け、タイ・カンボジアの戦いでタイ側に協力し、
 タイに逃れ、優遇されたのかもしれない。
 あるいはアユタヤ王朝時代にポルトガル人の影響を受け、
 キリスト教徒になっていたカンボジア人が、アユタヤ滅亡の折、
 ポルトガル人と一緒にこの地にやってきたのかもしれない。
 いろいろ想像はめぐるけれど、土地の人に訊いても定かでない。

 ラーマ1世の時代には多くのカンボジア人の戦争捕虜が連れてこられ、
 バンコクの王都建設に強制労働させられている。
 ポルトガル人たちは傭兵としてアユタヤ王朝、チャックリ王朝にも協力しており、
 アユタヤ滅亡の際には、多くのポルトガル人たちが、ここにもやってきたのだろう。
 トンブリ地区のサンタクルーズ教会とともに、
 ポルトガル人にとっては大切な歴史的な意味を持つ教会である。

 その後、ラーマ1世、2世の時代にはベトナム人の多くのキリスト教徒が
 この地にやってくる。
 当時のベトナムの玩朝は、タイの王やフランスの宣教師など支援を受けて成立した国であるが、
 2代目の明命帝(1819〜1840)の時代にタイやフランスとの関係が悪化し、
 タイとはカンボジアやラオスをめぐっ泥沼の戦争状態に入っていき、
 フランスとの関係は断絶し、キリスト教徒の弾圧を始め、
 1836年にはヨーロッパ宣教師7名が死刑となり、
 数百の教会が破壊され、弾圧を恐れたキリスト教徒は山野に逃れている。
 ちょうどラーマ3世の時代にあたり、タイとベトナムとの戦いで、多くのベトナム人が
 戦争捕虜としてバンコクに連れてこられている。
 弾圧されていたベトナムのキリスト教徒たちは、タイ側につき、協力もしただろう。
 この時代からベトナムのキリスト教徒たちの苦難の時代が始まるのである。

 しかし、1834年 ベトナムの明命帝のキリスト教徒迫害によりタイにやってきた
 ベトナム難民は、むしろ優遇され、Conception Churchの近くに住むことを許される。
 その数は1350人に上る。1934年Conception Church は再建され、
 Bot Ban Yuan(ベトナム人村教会)と呼ばれるようになる。
 1847年には フランス人の名高いMonsignor Pallegoix司祭の協力のもとに
 現在の姿の教会の建物が建てられたのである。

 ただ、面白いことに この教会の敷地の中には、3つの様式の建物がある。
 教会の敷地の正面にはヨーロッパ様式(1847年)、
 その教会の後ろにくっ付いて建てられているどこかベトナム様式の建物、
 そして、その後ろに少し離れてカンボジア様式建物がある。
 もしかしたら、今の教会が建てられる前は、ポルトガル人、カンボジア人の集団と
 新しくやって来たベトナム人の集団とは別々の建物で礼拝していたのかもしれない。

 その後、ベトナム人は増え続け、新しい教会が必要となり
 ベトナム人たちは 今のセント・フランシス・ザビエル教会に移っていくことになる。

 今ではこの教会は、ポルトガル人とカンボジア人のキリスト教徒の子孫たちによって
 運営されているようだ。
 特にポルトガル人の末裔たちはこの教会に誇りを持っているようだ。
 この教会について、いろいろ説明してくれるのはポルトガル人の末裔たちである。
 カンボジア人の末裔たちの数は少なくなっている。
 この地域では、ベトナム人に押されて、少数派になっているが、大変友好的な人々で
 墓地なども積極的に案内してくれる。
 今は教会の内部は、再築中で、何も見ることは出来なかった。
 遠いラテン系のなせる業なのか、ポルトガル人の末裔たちは明るくて、
 友好的なことには驚いてしまう。
 写真を撮られることなどは、全く気にしないおおらかさがある。


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